第八話 フィン・イーザウ ②
眼鏡を外したフィンは、数度瞬いてから眉間を揉んだ。固唾を飲んで見守るノアの目の前で、肺から搾り出すように息をこぼす。
「若者が主役の冒険譚は年甲斐もなく胸が躍るね」
視線を上げたフィンは歯を見せて破顔した。
フィンが原稿を開いてから日はまだそんなに傾いていない。タイプライターでも無い、気をつけて書いたものの手書きの文字をこれだけ早く読み終えたことにノアは驚いた。
フィンはすっかりぬるくなった紅茶で喉を潤すと、また一つキャンディを口に放り込んだ。コロコロと歯の間で転がした後、包み紙を畳んで捨てた。
「正直に言って、俺は君の小説はすごく面白いと思う」
それはノアは待ち望んでいた言葉だった。
「……っ!! あ、ありがとうございます!!」
ノアは目を輝かせて勢いよく頭を下げた。そうしなければ目が潤んでいるのを見られてしまう、という恥じらいがあった。
そんなノア見ているのかいないのか、フィンは頷きながらさらに言葉を重ねる。
「情景描写が丁寧だな。森を始めとした自然の描写に慣れているとは手紙で読んでいた時から思ったが、旅も経て視点がさらに広くなってるなあ! こればっかりは実物を見物してどう切り取るかを考え続けなければ鍛えられないからな」
カロカロとフィンの口の中でキャンディが転がる。
「あとは掛け合いだ。現実でも評判の『緋色の騎士』の素顔がこんなもので、親友の青年とは気さくに話すってのは親近感が湧くな」
誉め殺しとはまさにこのこと。読んでもらえただけでなく細かい評価まで聞けるとは思っていなかったノアは、どんどん真っ赤になっていく。
「ひ……ひえ、光栄です……」
震えながらもメモをとるノアにフィンは肩を揺らして笑った。元々フィンは後続の作品の講評に言葉を惜しまないことで有名だったが、ノアのような反応を目の前にするのが好きらしかった。ノアの反応にそそられたのか、またフィンはページを捲る。
「特に主人公の内面の葛藤、『緋色の騎士』に寄せる絶対的な信頼と、信頼しているからこそ自身にできることは何かを考えている思慮深さが俺は好きだねえ」
「……え?」
メモをとっていたノアの手が止まった。
「『英雄の隣に凡夫が立つ理由に、親友だから以上の理由が必要か?』と表向きに緋色の騎士をフォローしつつも、自身の能力の模索を怠らない主人公の成長物語っていうのは王道だからな。多少の粗はあるが、それは良い読み手がつけば鍛えられるだろう。君さえ良ければ俺の知り合いの……ン? どうした?」
さっきまでコロコロと表情を緩ませては震えて萎縮したりしていたノアの様子が変わったことに気づいたのか、フィンが顔を上げた。涼やかな鳶色の瞳が、丸眼鏡越しのノアの紫色の瞳を見据える。
「すみません」
ついさっき紅茶を飲んだはずなのに、ノアの口はカラカラに乾いていた。
なんとなく理解している。ここから先の言葉を自分は口にすべきではないと、このまま心地よい評価に浸っていれば良いと分かっている。だがこれだけは、ノアでも譲れないものだった。
「主人公は『緋色の騎士』のつもりで書いていました」
「……なんだって?」
フィンが姿勢を正した。ノアの原稿に目を落としながらも、続く言葉を待つように口に手を当てる。ノアはずれていた眼鏡を押し上げた。
「青年は語り手というか……その、モデルが僕自身ではあるんですが、僕自身の目を通して見た『緋色の騎士』を主人公として描こうとしていたんです」
ただの作品の講評だ。なのになぜ心臓が嫌な音を立てるのだろうか。
見たくない現実なら目を逸らせば良い。自分の魔法ならそれが可能だ。けれど、蓋をし続けたままでは、
————腐敗した肉の臭いが溢れ出す。
フィンは眼鏡を掛け直すと原稿に目を走らせた。静かな部屋に、フィンが紙を捲る音だけが響く。ノアの心臓の音は耳を塞ぎたいほどうるさかった。
やがて、フィンは原稿を机に戻した。
「君は本当に『緋色の騎士』を主人公とするつもりか?」
「……そうです。『緋色の騎士』の物語を書きたくて、僕は……」
「そうか」
フィンは眼鏡を外すとまた目頭を揉んだ。今度は缶からキャンディは取り出さない。フィンほどの作家でも言葉を探しているようだった。
やがて重たそうに口を開いた。
「……先ほどと講評をひっくり返すようで申し訳ないが、『緋色の騎士』を主人公とするのであれば、この小説は面白くない部類だ」
「え……!? な、何がいけないんですか? さっきと何が違うんですか?」
どんな酷評であっても、フィンの言葉であればノアは素直に耳を傾けるつもりでいた。だがここまで評価をひっくり返されては動揺を隠すこともできず、身を乗り出してフィンに迫る。
フィンはノアに見えるように原稿をひっくり返し、一文を指差した。『緋色の騎士』、リゼが追い詰められるものの、いつも通り不敵に笑うシーンだ。
「追い詰められたとしても、全く動揺しない。勝利しても普段と調子が変わらない。この『緋色の騎士』には人間らしさがない。まるで、蒸気機関時代に開発されていたロボット、とかいうやつに見えるんだ。そう動くことをあらかじめ決められていたような」
「リ……『緋色の騎士』が人間らしくないんですか?」
「ロボットが主人公というならそれでも良いんだ。ひたむきに自分の役割を果たそうとする舞台装置のようなものが主人公なら、それと関わるものに注視して関わる人々の心情を中心に描くというのも手だからな。けど、君にとって『緋色の騎士』はそうじゃあないんだろう?」
「で、でも『緋色の騎士』は人々を助ける英雄で、どんな苦難にも織れなくて、感情豊かだけど感情には左右されないでいる……そんな人物像ではいけないんですか?」
だって、ノアから見たリゼはまさにそのような人物だからだ。実際にいる人物を否定されては何を書けというのか。
フィンは口を手で覆った後、椅子に深く腰掛けて天井を仰いだ。
「そういうクールな登場人物は確かに人気だし、実際そんな主人公が出てくる小説もある。……古い小説だが、サンソン・リーヴルックの『憤怒の仮面』の主人公なんかはそうだ」
聞いたことがない小説だった。だが実在はすることにノアは少し安堵する。
「勉強します。その小説を読んでみます」
「そうじゃないんだ」
フィンが手を挙げてノアを宥めた。
「そんな主人公でも、内心の情動は描写される。表情に出ないからこそ、例えば過去のトラウマに面した時にわずかに動きが鈍ったり、本来の性格より逸脱した行動が見られることもあるぐらいだ。……だが、『緋色の騎士』にはそれがない」
「で、でもそもそも『緋色の騎士』はトラウマがなくて……!」
「だが善行をするには動機があるはずだ。命懸けの旅をするには命を賭けるだけの理由がある。他人から見てどんなにちっぽけだろうと、本人にとっては命を懸けるに足る理由がある。しかし君が描く『緋色の騎士』は……極端に言えば苦難に陥った民衆がいれば半自動的に動く、迎撃ロボットに見える。それに憧れる主人公がいるなら良い。きっといつか無理がくる日に、主人公が『緋色の騎士』から学んだことで『緋色の騎士』を助ける日が来ると読者が期待できるからな」
「……、」
ノアの中には完璧な反論があるはずだった。リゼのことを一番に見てきたのは自分だという自負がある。リゼが魔獣と戦う理由なんて、リゼが魔獣と戦う時に何を考えているかなんて、リゼが旅に出た理由なんて、手に取るように分かるし完璧に言葉にできるはずだった。
ノアの中には十分な言葉があるはずだった。リゼのことを語れば一晩でも二晩でも語り尽くせないほど、リゼを描写する言葉を脳内に詰め込んでメモだってとってきた。
だが、ノアの口から漏れるのは乾いた呼吸の音だけだった。紅茶はとっくに飲み干している。これだけあれば喉を潤すのに十分だったはずなのに、カラカラに喉が渇いていて胃の奥が熱い。
思い出すなと、考えるなと、本能が言っている。
————一体何を?
リゼのことをノアは誰よりも間近で見ていたはずだ。何を、忘れている。
フィンは厳しい眼差しから一点、穏やかに微笑んだ。
「君自身がモデルの青年の情動はよく描けている。君が自分で見る世界を切り取って描く力は本物だ。なあに、難しい話じゃない。題材が親友というなら、その親友と言葉を交わすんだ。現実の対話だって学びの宝庫だぞ?」
ノアは力無く頷くしかなかった。
そうだ、言葉を交わせば良いのだ。リゼが何を感じて、何を考えて、何を見てきたのかをリゼに直接聞けば良いのだ。リゼのことだ、少し困ったように笑いながらも言葉を探してノアの質問にいつまでも付き合ってくれるのだろう。
問題は、リゼはもう、そんなことをしてくれないということだ。
***
「失礼します、茶器を片付けても良いでしょうか?」
「ああ、うん。頼むよ」
ノアが帰ってからも尚、その帰路を見守るようにフィンは窓の外を見ていた。
後続と話し目一杯もてなすことを好むフィンだが、相手の帰宅時にここまで感傷に浸った様子を見せることはそうない。珍しい挙動にエナが首を傾げると、フィンは苦笑した。
「彼の魔法が少し気に掛かってんだ」
「え……あ、あの人魔法使いだったんですか!?」
エナは咄嗟に自分の眼鏡を触った。色付きのレンズはちゃんとある。髪に触れる。まとめられた髪は秘書として、仕事に励む女性としてよくある髪型のはずだ。
「ああ、大丈夫。エナちゃんをどうこうしようと考えていたわけじゃないだろうし……多分、彼の魔法はよほどのことがない限りは殺傷力はないはずだ」
自分の机に積み上げられた新聞の中から適当に一部をフィンは取り上げる。その一面には、『緋色の騎士』と呼ばれる赤い血のような髪色の魔法使いが、長い間村を苦しめていた鉱山の魔獣を討伐したことが大々的に報じられていた。その中で、『緋色の騎士』は友人と共に旅をしていることも記されている。
多少の知識があればこの『緋色の騎士』とノアの描いた小説の登場人物が同じ人物であることぐらいはすぐに察しがつく。だからこそフィンは引っかかった。
「変わった魔法だなあ。書いた通りの事象を引き起こすだけでなく、あれじゃまるであの青年が『緋色の騎士』を操っているようにも読めた」
「魔法って、魔獣を殺すだけじゃなくてそんなに万能なんですか?」
「いやあ、俺も魔法使いじゃないからなんとも言えないんだが……人を治癒できる魔法使いですら、ほとんど存在しないと聞いているんだ」
フィンは頭を掻く。職業柄、魔獣討伐部隊の何人かに取材をしたこともある。だが彼らの話では治癒という用途が限定したものであっても、そう簡単に他人の身体を操作することはできないと言っていた。ごく稀に例外も目にしたことがあるらしいが、それもせいぜいが擦り傷を治せる程度で、それだけで非常に消耗していたとも。それぐらいなら、各人が魔法を学び自力で傷を治せるようにした方がより効率的らしい。
他人に影響を及ぼすというのはそれだけ無理があるのだ。人に血を、臓器を与えるのが難しいように、魔法であっても同じことが言える。
ましてや他人を意のままに操るなど、文字通りの御伽話だ。拒絶反応もどれだけのものになるか。
「まあ、考えすぎか。そういう魔法があったら主人公に持って来いだもんな」
フィンは暗くなりつつある外を見て、カーテンを閉めた。




