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第八話 フィン・イーザウ ①

遅刻しました!設定し忘れておりました

 村で一番家が大きいロルフの家でですら目にしたことがないふかふかの毛足の絨毯が広い部屋に敷き詰められていた。これだけを用意するのにいくらかかるんだとノアは現実逃避に考えてしまう。部屋まで案内してくれた秘書は1人がけの椅子をノアの方に向けた。

 

「フィンは現在立て込んでおりまして、少々お時間をください。長旅のところ申し訳ありませんが、どうぞこちらでお待ちください」

「あ、いえダイジョウブです! お気遣いなく! いくらでも待ちます!」


 誰がどう見てもガチガチになりながらノアが応えると、秘書は色の入った眼鏡の奥で眦を緩めて微笑んだ。いつまでも立っているのもよくないかとノアが腰を下ろすと、材質は革のはずなのに椅子はふかふかとノアの体重を受け止めた。どんな高級品なのだろう。


 秘書が部屋の奥にある簡易的なキッチンに立って何やら用意していると、ふわりと部屋中に香ばしい爽やかな香りが漂った。およそ村では嗅ぐことのない、強いていえば森の中で嗅ぐことがあるかもしれない不思議な匂いに思わずノアは鼻を鳴らす。


 カチャリとこれまた繊細な作りの茶器に注がれた茶色の液体と小さな焼き菓子にノアは目を見開いた。

 

 ————紅茶だ。

 

 フィンの小説で主人公が朝食で紅茶を飲むと朝が始まる感じがする、とひとりごつことから始まるものがある。幼い頃のノアもそれを感じてみたくて両親に紅茶をねだったことがあったが、物流が途絶えがちになった現代では紅茶は高級品で到底手に入るものではなかった。村では近所のソフィアおばさんが作っている緑色の苦いお茶しかなかったのに、今目の前で遭遇することになるとは。

 

 田舎者丸出しにノアがしげしげと紅茶を眺めているのを見て微笑んだ秘書はそろりと退室していた。誰もいなくなった応接室でノアは挙動不審になりながらも紅茶に口をつける。緑色のお茶のような葉の匂いがするのに香ばしく、少し渋みがある。添えられている小さな焼き菓子を口に含むと、砂糖の甘さを紅茶が程よく包み込んだ。街の人はこんなものを食べているのかとノアはすぐさまネタ帳に書きつけていく。


「広いなあ……」


 待つうちにやっと周囲を見る余裕が出てきたノアは、実家並みに広い部屋を見て思わずこぼした。ノアの家なら同じ広さで台所と食卓、そして近接する食糧庫がちょうど置けるほどの広さだ。こんな都会でそんな空間が広々と客人のためだけに用意されている。聞いていた通り、フィンの家はかなり裕福らしかった。

 

 フィン・イーザウはこの時代には珍しい職業小説家だ。蒸気機関時代が魔獣の登場とともに終わって以来、都会であるヒメシオンであっても娯楽の優先順位は低くなっている。だがそんな中で、日常のささやかな幸せを緻密な筆致でしっかりと描くフィンの小説は貴族から平民まで多くの人の心を温めた。心躍る英雄譚とはまた違う、読み終えた後にじんわりとした暖かいものが残るのがフィンの作風だ。


 そんな作品を書き続けるからこそ、ここまで大きな家に住めるほど慕われているのだろう。

 

 そして今からノアはそんな大先生に直接会って話してさらには自分が今まで書いてきた小説を見せるのだ。


「だ……大丈夫だよな。昨日水浴びはしたし、服もめちゃくちゃしっかり洗って乾かしたし……!!」


 長旅には臭いががつきものだ。特にこんな屋敷に住んでいるフィンは血生臭さも汗臭さも苦手かもしれないと、ノアは昨日まで非常に気を使ってきた。


「本当に便利な魔法持ちでよかったよ……全然戦えないけど」


 旅の途中で風呂などそう簡単にありつけるものではないが、ノアの魔法なら容易に叶う。温かいお湯が沸いてきただとか、湯船にちょうど良い岩場を見つけただとか、そういうことを書けば現実になるのだ。面倒だったらリゼに頼んで木を切ってもらって火を起こしても良い。

 

 もう一度入念に自分の臭いを確認し終えたノアは今度は手持ち無沙汰になってしまった。秘書の女性はフィンは仕事があると言っていたが、どれほどかかるのだろうか。意味もなく立ったり座ったり、服の皺を伸ばしたりなどして時間を潰すも落ち着かない。


「やっぱリゼを引きずってでも連れてくればよかった……」


 どう考えてもノアの方が力負けするだろうが、拝み倒せばリゼも引っ張られたという形で一緒に来てくれただろう。ロルフさえいなければ。

 

 そもそもなぜロルフもヒメシオンにいるのだろうか。ノアは首を傾げた。


 二人で旅に出ることを話した時も、旅に出る直前もロルフはいつも通り仏頂面で黙り込んでいた。ノアがヒメシオンにいるフィンの話をしている時も興味を示した様子もなかったし、良くも悪くも村のことばかり考えていて趣味と呼べる趣味もない男だ。ヒメシオンに来る動機があるんだろうか。リゼには手合わせの時に何か話していたのかもしれないが、少なくともリゼから『後からロルフが追いかけてくるらしい』などとは聞いたことがない。

 

「うーん?」


 考えても分からない。そもそもノアはロルフが苦手だからあまりロルフの趣味も嗜好も知らないし、何かあるのだろうと結論づけた。

 

 ドタドタ、と毛足が長い絨毯にも関わらずよく響く足音が廊下から響き、ノアは反射的に立ち上がった。


「ノア・バウアーが来たってえ!?」


 叩きつけるように応接室のドアが開かれた。綺麗に撫でつけた肩にかかる茶髪、室内でも爛々と輝く涼やかな鳶色の瞳の青年が部屋の中を見回し、ノアを見つけると大口を開けた。

 

 フィン・イーザウ。彼は目尻に刻まれた皺をさらに深くすると、ノアに大股で近づき自然な流れでノアの手を握った。

 

「おお、君か!! よく来たなあ、遠路はるばるヒメシオンまで! 手紙の文体通り鋭いながら知性を感じる男前じゃないか」

「は、初めましてノア・バウアーです! お……お会いできて光栄です……!!」


 文筆家というだけあって、フィンの見た目は決して逞しい体つきと呼べるものではなかった。しかしノアの手を上下にブンブンと振る力は強く、手袋越しでもわかるペンだこにノアは圧倒された。

 

「よーしよし、そんなに硬くなるな。俺だって会えて嬉しいとも。さてエナちゃん、俺と彼の分の紅茶を部屋まで頼めるかな? あっつあつで頼むよ」

「ちょっ……、フィン先生!? サッチャーさんが取りに来られている原稿はどうするんですか?」


 秘書が色付きの眼鏡の中で目を剥いた。


「そもそもその予定は明日だったろ? サッチャーさんがせっかちすぎるのが悪い。今日はこの有為多望な青年と話す方がよほど大事だろ? 小説には人間観察が欠かせないしなあ!」

「わ、え、ひえ」


 圧倒されっぱなしのノアの肩を組むと、フィンは軽い足取りで応接室を出た。後ろで秘書が頭を抱えたあと、深いため息をつく音が響く。しかしフィンは全く気にした様子もなくぐいぐいとノアを自室に引っ張っていった。




 フィンの書斎では天井まで届く本棚と、びっしりと並ぶ本たちが待ち構えていた。


 魔獣の出現以降は、資源不足から本の装丁の簡略化が進んでいる。だがフィンの書斎には最近の書籍だけでなく、前時代の重厚な装丁の本も軒並み揃っていた。フィンの書斎だけで十分な資料館が作れるほどだ。そしてこんなものが倒れてきたら絶対に圧死するのだろうともノアは思った。

 

「さ、座った座った。長旅で疲れたろ? そうだキャンディは好きかい? 最近街で若い女の子に大流行りのものなんだ」

「ありがとうございます……」


 肩から手を離した後もフィンは止まることなくあれやこれやと机の上をひっくり返し、一つの綺麗な装飾の缶からこれまた可愛らしい包みのキャンディを取り出した。差し出されたノアの手のひらにころりと赤い包みを落とすと、フィン自身も青い包みを一つ選び出して口に放り込んだ。

 

 随筆だったかフィン自身を主人公とした小説の中だったかでも、フィンは流行りものが好きだと記されていた。時代の波を読む必要がある職業ではあるが、何度も食べたであろうキャンディを舌で転がして表情を緩めるところを見るとそもそもそういったものへの関心度が高いのだろう。有名な作家とはこう在るべきかとノアは内心でもメモを取った。


 フィンを真似してノアも口にキャンディを放り込んでみる。砂糖を牛乳と煮詰めたらしい直接的な甘みに、こんなものが流行りとして一過性に通り過ぎることにノアは驚いた。こんなもの、村で一度口にすれば少なくとも一ヶ月は毎日皆の話題に上がるし、数年経ってもことあるごとに思い出しては『あれは美味しかった』と話題に上がる。

 

「失礼いたします。紅茶をお持ちしました」

「はーい、ありがとうなエナちゃん。キャンディいるかい?」

「結構です」


 秘書はノアとフィンの前に静かに紅茶を置いていくと早々に退室していった。フィンをあしらうのも手慣れている。それだけ長い付き合いなのだろう。フィンの随筆にもあまり秘書の話はなかったが、生活に近すぎる人は書かない主義だとかそういうものだろうか。


 書斎を出ていった秘書はしばらく部屋の前に留まっていたが、しばらくすると足音と共に去っていった。それを見計らってノアは身体を乗り出した。

 

「あの、僕! フィン先生の大ファンで、『猫と蒸気』は一節丸ごと暗唱できるほど読み込みました! 特に好きなくだりが……」

「あー、待った待った!」

 

 フィンがノアの前に手を掲げてその先を止めた。ペンだこの他にインク染みもある手にノアは口をつぐみ、促されるままに腰を椅子へ戻した。


 ノアが座ったのを見てフィンも腰を戻す。大きな机にふさわしい重厚な造りの椅子はフィンの体重を受けても軋むことなく、滑らかに回転し始める。


「君みたいな若い子が俺の小説を読んでくれるってのはな、非常に、ひっっじょーにすんごい嬉しい。本当だぞ? こんな家を構えちゃいる手前本が売れるのはもちろん嬉しいがな、読者の感想ってのは書き手にとって飛び上がるほど嬉しいもんだ。時々書き手の俺でも『そう読んでくるのか!』って考えさせられることもあるしな」


 椅子がピタリとノアの前で止まった。

 

「だが今日は、君の小説を俺に読ませてくれるんだろ? なら俺のことはいいんだ。君の作品を読ませてくれ。前に手紙で話していた親友の小説は書けたかな?」


 フィンは片頬を吊り上げて人懐っこい笑顔を浮かべた。

 

 確かに手紙ではずっと書いていたのだ。親友を題材とした小説を書きたいこと、その親友は今に『緋色の騎士』として有名になるであろうこと、そして『緋色の騎士』を親友の視点から描いた小説を書きたいこと。だがちゃんとここまで覚えていてくれてすぐに促してくれるとは。


「は……はい!」


 こんなに人が出来た人がいるのか。ノアは興奮で震える指先を一度握って鎮めると、大急ぎでリゼとの冒険譚を記した本を取り出した。


 これをフィンに直接読んでもらって講評をもらうために、リゼを連れてここまでやってきたのだ。実際に旅に出なければリゼの活躍を生き生きと描けないという課題もあったし、ノアにとってここまでの旅路は一石二鳥のものだった。

 

「おお、原稿用紙をそのまま綴じてるのか。確かに、旅の道中だと落ち着いて書くのも一苦労だもんなあ。それにしたって読みやすい良い字だ」


 パラパラと原稿用紙をめくったフィンはその枚数に目を丸くした後、机の上に置いてあったメガネをかけた。常時身につけているノアのものとは違い、仕事の時にだけつけるものなのだろう。


「じゃあ早速読ませてもらおうかな。俺が読んでる間暇だろうし、そこらにある本は好きに読んでくれていいぞ。楽に過ごしててくれ」

「あっいえ……お気遣いなく。よろしくお願いします」


 緊張の中でノアは深々と頭を下げた。

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