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第一話 『緋色の騎士』 ①

 黄昏時、深い森はともすれば夜と見間違えるほどに暗く周りが見えづらくなる。隣にいるのが親友か、家族か、はたまた自分の命を狙うものか、曖昧になる。『誰ぞ彼』とはよく言ったものだ。

 

 そんな暗い森の中を、お互いを見間違えないように手を握った兄妹が駆けていた。

 背後には獣の荒い吐息。流石にこの吐息を家族と間違えるほど兄妹は愚かではなかった。

 

 「ごめん、ごめんおにいちゃん……! 私がベリー取ろうって言ったから……ッ!」

 「ンなこと今は良いって! 手ェ離すなよ!」

 

 村の明かりはまだ遠く、暗い森が広がる。木々の間から差し込む夕陽は徐々に頼りなくなっていく。

 それでも兄は森の道の知識があった。まだ村そのものには遠いが、もう少しだけ走れば魔獣除けが施された区画に入れる。そこに飛び込んで2人で息を殺せば、とりあえずは命を長られられるはずだ。

 手汗で滑りかける妹の手を兄はしかと握り、地面を蹴る足に力をこめた。

 

 「きゃあッ!」

 「エマ!!」

 

 だが不運にも木の根が妹の足に絡みついた。二人の手が離れる。兄は走る勢いのままに転がり、妹は身体を地面に強く叩きつけた。


 一瞬だけ、妹の喉が鳴る。反射的な悲鳴をあげようと喉の奥が開いた。だが妹は、エマはそれを必死に飲み込んだ。何が魔獣を呼び寄せるかわからない中でそれは賢明な判断だった。


 地面を転がり、こちらも泣かずに飛び起きた兄はすぐに妹に駆け寄ろうとした。

 

「シュルルルルルル……」


 だが、狭い穴を空気が抜けるような音に足をとめた。


 エマのさらに奥。日がささない暗い森の中に、わずかな光を反射するものがある。ぼたぼたと重い粘液が垂れる音が響いた。

 

「ルルルルルルル……」


 獣の吐息を間近で感じても、エマは悲鳴を上げなかった。


 一見すると狼のようにも見えるそれは、関節から蒸気をあげていた。普通の野生動物とはほとんど習慣が違う生き物、魔獣だ。


 転んでからエマも兄も音は立てていない。気づかないでくれと懸命に祈る。

 

「ごぽ……ごぽ……! 」

 

 だがそんな兄の願いも虚しく、魔獣は首を生物とは思えない角度に捻じ曲げ突進し始めた。


 白く虚ろに光るその瞳は、エマの足に釘付けになっていた。あたりには鮮血が散っている。

 

『森に入るときは赤いものは身につけてはいけない』


 村の子供なら誰でも知っていることだ。赤は、血の赤色は、魔獣が何よりも好んで喰らい尽くすものだ。

 

 「お、おにいちゃ、」


 懸命に声をこらえていたエマが、掠れた声を絞り出した。背後に迫る魔獣に、エマは唯一頼れる兄のことを呼ぶしかできなかった。

 

 大切な妹の命の危機に、兄は咄嗟に腰のナイフに手を伸ばした。もっと赤が要る。あの魔獣を釘付けにして誘き寄せるような、視界いっぱいに広がるような赤が。少年はそれを自分の身体に流れるものしか知らなかった。妹は守らなければと、ナイフを高々と掲げる。

 

「おい!! こっちだ、」

 

 少年の目の前を赤い流星が駆け抜けた。

 

 言葉を言い切り損ねた少年は、視界に翻った血の如き緋色の髪にナイフを取り落とした。

 

 「グオォォォォッ!!」

 「きゃあっ!」



 

 ギィン!!


 

 硬い牙が、さらに堅い何かに弾かれる甲高い音が森に響いた。重い肉が木々を揺らす音が遅れて響く。一瞬で舞い上がった砂埃のせいで少年は何が起こったのかを理解するのに、時間を要した。

 

「エ……、エマ!!」


 だが兄は即座に妹の名を呼んだ。ほんの数歩前にいたエマが悲鳴をあげている。であればそれは緊急事態だ。


 しかし、砂埃が晴れてもそこにエマの姿はなかった。

 

「よくがんばったね。もう大丈夫だよ」


 澄んだ星空が話しかけてきた。そう少年は錯覚した。


「へ?」


 少年の隣に膝を擦りむいたエマがそっと降ろされた。兄妹の視界いっぱいに、血のように赤い緋色の髪が揺れる。

 

 それは、一振りの変わった形の剣を握った女性だった。


「……騎士さま?」


 溢れたエマの言葉に、女性は血そのままの色をした切れ長の瞳を緩ませて微笑む。兄妹は彼女のことを全く知らないのに、不思議と安心できるような力強い温かな微笑みだった。

 

「グルルルルル……ッ!!」

「ひっ……」

 

 女性は兄妹を背に庇うように剣を握り直した。魔獣は随分遠くに吹き飛ばされた上に途中でどこかにぶつけたのか、前足を庇うように不恰好に姿を現した。だが虚ろな白い瞳は今は爛々と光り輝いている。その瞳は女性の髪に釘付けになっているのは誰の目にも明らかだった。

 

「んじゃ、ノア。この子たちを頼んだ」


 そんな魔獣を前にしても騎士の声は軽く爽やかだった。


 魔獣が動き出すよりも早く、緋色の騎士の足が地面を蹴った。一瞬で魔獣と距離を詰めると、魔獣の爪よりも素早く剣が弧を描く。

 

「ひぃぃぃ……ま、任されたぁ……!」


 ひょこりと、騎士の声に応えるように1人の青年が姿を現した。木の影から影へと、可能な限り気配を消しつつ兄妹に近づく。


 癖毛に伸びた青髪に鼻からずれた丸眼鏡やヒョロリとした手足は見るからに頼りない。言葉には出さずとも兄妹に不安が募る。兄はエマを抱き寄せた。

 

 自分がどう評価されたかわかるのか、ノアと呼ばれた青年はぎこちなく笑った。


「あ、あはは……。えっと、僕は戦えないけどもう大丈夫だよ。怖いものはあの『緋色の騎士』が倒してくれるからね」

「ひいろ、のきし?」


 聞き慣れない言葉にエマは首を傾げる。だが兄は目を輝かせた。


「『緋色の騎士』……あの!? 『黒とかげ』を倒したって噂の!?」

「はは、そうだよ。そうだとも!」




 『黒蜥蜴』といえば、西の洞窟に出現した非常に大型で獰猛な魔獣だった。直接被害を受けていない地域でもその魔獣の被害についての情報は響き渡り、魔獣への対抗手段がない村は自分たちの地域にも同じものが現れた場合の恐怖に怯えていた。だからこそ、それを倒したという『緋色の騎士』の噂は子供から老人にまで瞬く間に広まっていた。


 

 高い金属の音が鳴り響いた。魔獣は地を這い、酔ったように緋色の騎士に突進する。


 すると、緋色の騎士は不思議な挙動を見せた。変わった形の剣——刀を一度鞘に収めると、間合いを図るように構える。


 なぜ武器をしまったのかと焦る少年をよそに、迫る魔獣の前に一陣の閃光が走る。

 

「ギィィィィィッ!!」

「うわ、いかんいかん」

「?」


 絶叫する魔獣の前足が、比較的怪我が少なかった腕が宙を舞う。黒いといえど魔獣の血があたりに飛び散る光景に、ノアはすぐさま兄妹の目を覆った。


「兄ちゃんじゃま!!」


 だが兄はすぐにノアの手を押し除けて食い入るように緋色の騎士の背中を見ていた。

 

 魔獣の残る腕は最初の騎士の突撃の時に大きく負傷していて、爪として使い物になっていない。だが魔獣はフラフラと、それでも騎士の赤に誘われるように襲いかかる。


 騎士は軽々とその突進をいなした。

 

「かっけぇ……」


 負傷していても巨体の魔獣は騎士よりも遥かに大きい。村一番の力自慢でも軽々と吹き飛ばしてしまいそうだ。いくら長身といえど騎士の手には余る存在に見える。だが実際は明らかに騎士の方が優勢だった。

 

「……、」


 騎士の唇が何かを小さく呟いたと同時に、騎士の足に赤い文字が一瞬浮かび、染み込むように消える。直後、硬いはずの地面が泥のようにあっけなく変形し騎士に蹴り飛ばされた。


「グギャッ!」


 代わりに得た推進力で騎士は魔獣に肉薄し、斬りかかる。魔獣は爪で応戦するが、騎士の刀と打ち合ううちに爪はあっという間に磨耗していった。

 

 一方で刀はその輝きを失うことなく冷たい光を湛えていた。


 騎士の手足にまた何かの文字が浮かぶ。その直後に、人間とは思えない膂力で騎士は魔獣を圧倒する。


「あれが魔法……!! すっげぇ、初めて見た!!」


 少年の声にノアは小さく笑った。

 

 魔獣にトドメを刺すべく、騎士が構える。緋色の髪がふわりと宙に舞った。少年は誘われるように目でその髪を追ってしまう。

 

 そして同じように誘われた1羽の鳥と目が合った。虚ろな白い瞳と垂れる黒い粘液に一目でそれも魔獣だと分かる。


 だが状況を伝えるよりも早く、もう一体の魔獣は鋭い嘴を切先に一直線に騎士の頭部目掛けて急降下する。騎士の完全な死角。刀で魔獣の爪と斬り結んでいる騎士には背中にでも目がついていない限り反応できない位置取り。


「あぶねぇ!!」

 

 咄嗟に少年は叫んだが、何がどう危険なのかそれで伝わるはずもない。だがそれ以上のことを声にする暇すらなかった。

 

 その時、少年は自分の隣に佇むノアの唇の端が吊り上がるのを見た。革手袋に覆われたヒョロヒョロの手はいつの間か開いていた本の上を紙面を走り、何かしらを書きつけていく。その紙が騎士の手足で見たものと同様に赤く光る。


 

 ————魔法だ。


 

 ノアが何をしたのかまでは把握できなかったが、少なくともそうだと少年は直感した。


 途端に鳥の魔獣の目前で木の枝が一様に撓み、弾けた。


「ギィッ!?」


 それは木々が風で激しく擦れ合った程度の衝撃だった。魔獣どころか、普通の鳥でもあの程度の衝撃であれば大した脅威にはならない。せいぜいが目眩し程度だ。

 

「ははッ! ありがと、ノア!!」


 だが緋色の騎士にはそれで十分だった。


 斬り結んでいた魔獣を蹴り飛ばすと、一息で近くの樹を垂直に駆け上がる。良くしなる太い枝を足場に、騎士はさらに高く宙へ舞い上がった。

 

「わ……」


 いつの間にか日は沈みきり、代わりに空は月が照らしていた。月光を背負った緋色が銀色の一閃を振り下ろす。


「ギーーーーッ!」

「グオォォォ……」


 騎士は一刀の元に正確に鳥の翼を落とし、狼の魔獣の頭を二つに切り裂いた。


 少年が見届けられたのは噴き上がる黒い靴墨のような体液と、緋色の髪が重力に従って落ちていく有様までだった。

 

「あちゃ、……隠さなきゃ」


 魔獣たちの巨体が倒れる重い音は衝撃で立ち昇った土煙の奥に消えてしまった。せっかくの騎士の雄姿が見えなくなったが、少年はそこでやっと自分が息を深く吐けることに気づいた。目の前で繰り広げられる剣舞と戦闘の気迫ですっかり息を飲み続けていたのだ。

 

「おにぃちゃん」


 ほう、とため息をこぼす少年の袖を妹のエマが引いた。その声にやっと兄は自分たちが魔獣から逃げるために走ってきたことを思い出した。


「あ……足は大丈夫か!?」


 そして、自分が手を離してしまったことで強かに膝をぶつけさせてしまったことも思い出した。魔獣を引き寄せてしまうほどの出血だったはずだ。


「へーき」


 しかしエマはケロリと血が固まった膝を見せた。ノアが目を隠していたことで魔獣の凄惨な様子は見ていないが、脅威が去ったことは理解しているらしい。怪我をしているにも関わらずニコニコと上機嫌に微笑んでいる。

 

「赤いおねぇちゃんは?」

「え? えっと『緋色の騎士』は……」


 周囲を見回す二人に応えるかのように土煙が晴れた。


 緋色の騎士は魔獣の黒い体液がついた刀を振り汚れを払ってから納刀していた。生き物の命を奪った直後だというのにその姿は静かで美しい。

 

「リゼ〜! こっちこっち」


 そんな空気をぶち壊すようにノアが呑気に騎士の名を呼んだ。兄妹にとっては魔獣を目にすることすら初めてだったが、2人からすれば日常の一部らしかった。

 

 リゼは赤い瞳を緩めると、気さくに片手を上げた。ついさっきまでの勇猛さは息を潜め、柔らかな人好きのする微笑みに少年の心臓は小さく跳ねる。


「さっきはありがとね、ノア。子供達は平気かな?」

「へへん。見ての通り無事です。リゼが間に合ったからね」

 

「あ……だいじょぶ、です」


 ノアに促されるようにリゼの視線に晒された兄は、首を縦に小さく振るので精一杯だった。魔獣に遭遇した時には死が目前に迫る恐怖があった。だが今自分が緊張しているのはなぜか、少年には分からない。


「それなら良かった!」


 リゼは歯を見せて爽やかに笑った。

 

「ねぇねぇ、お姉ちゃんたちは魔法使いなの!? あの魔獣を倒せるっていう……!」


 兄を押し除けて星のように輝く瞳で見上げるエマに、ノアとリゼは顔を見合わせてその唇を得意げに緩めた。


「そうだよ」

 

「それだとも、リゼは最強の騎士だよ!」

「らしいよ」


 リゼは肩をすくめて笑った。

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