裁きの足音
この少女もまた、あの狂王カルプルニウスが支配するこの悪徳の城で、踏みにじられた犠牲者の一人だったのだ。私を庇おうとしたがゆえに、地獄に落とされた哀れな塵。
だが――次の瞬間、私の魂の半分を占める悪魔の残忍な衝動が、脳裏で嘲笑うように自らの声で囁いた。
『――こいつも結局は生き残り、お前の悲鳴を見て見ぬふりをした腰抜けだ。生かしておく理由などない。一緒に殺せ。引き裂け! 腸を引きずり出せ!』
そうよ……結局、こいつだって最後は私を見捨てた。この城にいる者は全員、罪人だ。この腰抜けも諸共――皆殺しにしよう。
そう思った瞬間。
「ぐ、あ……っ!?」
胸の真ん中に、激しい激痛が走った。
天使の聖なる力が、悪魔の無差別な殺意に激しく反発し、私の心を締め上げたのだ。痛みに息が詰まり、私は新しく生えた左手で強く胸を押さえて身を折った。
苦しい。心が引き裂かれる。
復讐に狂いそうになる自分と、それを拒む自分。
私は荒い息を吐きながら、足元で震える若い侍女をじっと見つめ直した。
彼女はただ、恐怖に目を丸くし、私が自分を殺すのを待つように身を縮めている。
……違う。
私が殺すべきなのは、無力なまま踏みにじられ、屈服させられた者ではない。
踏みにじり、嘲笑い、他者の尊厳をゴミのように扱った者たちだ。
私はゆっくりと息を吐き出し、若い侍女から顔を離した。
私は彼女に背を向けた。
若い侍女は呆然としたように私を見上げ、涙を流したまま、床にひれ伏して、その懺悔のような声を聞くことなく、私は去った。
廊下の先では、先ほど腰を抜かして逃げ出した老執事が、まだ必死になって床を這い、奥へと逃げ延びようとしていた。
私は背中の翼を軽くひと羽ばたきさせた。
体が宙に浮き、惨めに這いずる老執事の頭上を、何事もなかったかのように静かに飛び越える。執事は上空を通り過ぎる私の二色の光を見上げ、声にならない悲鳴を漏らしていた。
私の進む先――そこには、最上階の皇帝私室へと続く、巨大な螺旋階段がそびえ立っていた。
確実に、あの男の元へと近づいている。胸の煮えたぎるような殺意が、一段と熱を帯びていく。
階段の登り口には、王宮の防衛機構である高密度の『魔法障壁』が、幾重にも青い光の膜となって張り巡らされていた。触れれば並の人間なら一瞬で蒸発するほどの致死的な魔力の壁だった。
だが、私は歩みを止めなかった。
魔法の詠唱も、攻撃の構えすら取らない。ただ、普通に足を踏み出し、その青い障壁を通り抜けた。
私が通過した瞬間、強力であるはずの障壁は、まるで薄い氷の膜のように脆弱に砕け散り、大気の中に弾け飛んだ。
障壁のすぐ後ろには、長槍を構えた数十名の近衛兵たちが陣取っていた。
彼らは私を迎え撃つために配置されていたはずだった。しかし――
誰一人として、動かなかった。
動けなかったのだ。
障壁を何の手応えもなく粉砕し、翼を羽ばたかせながら階段を登ってくる私の姿。全身から放たれる、焦土のような威圧感と異形の魔力。
兵士たちは極限の恐怖によって全身の筋肉が硬直し、槍を構えた姿勢のまま、まるで石像のように微動だにできなくなっていた。カタカタと鳴る鎧の金属音だけが、彼らが生きていることの唯一の証明だった。
私は彼らの間を、一切視線を合わせることなく静かに通り過ぎた。
階段を一段、また一段と上がっていく。
通過するたびに、配置されていた第二、第三の魔法障壁が、音を立てて勝手に弾け飛んでいく。
やがて、最上階の広間へと到達した。
そこには、これまでとは違う雰囲気を纏った者たちが待ち構えていた。
青と金の豪奢な装飾が施された式典用ローブを身に纏う者たち――このガルバ帝国が誇る最高峰の凄腕、『王宮魔術師』の数名だった。
彼らは冷や汗を流しながらも、素早く私を取り囲み、手に持った宝珠付きの木製杖を同時に私へと向けた。
「化け物め、ここから先へは通さぬ!」
彼らが呪文を放つより早く、私は左手を軽く横に振った。
見えない念動の衝撃波が空間を叩いた。硬質で重厚な、金属同士が激突するような大音響が轟く。
「アアッ……ッ!?」
魔術師たちが手にしていた杖が一瞬で粉々に破砕され、手元から弾き飛ばされた。
指先から血を流し、痺れさせ、たじろぐ魔術師たち。しかし、流石は帝国の精鋭だった。彼らは即座に杖を諦め、複雑な印を結んだ。
彼らの叫びと共に、空間から半透明の青く輝く無数の鎖が噴出し、私の全身へと巻き付いた。
両腕、足、さらには背中の二つの翼までもが、何重もの青い光の鎖によって固く拘束される。それと同時に、私の足元と頭上に青い魔法陣が展開し、上下から挟み込むようにして、立方体の「半透明の青い箱」が形成された。
私を閉ざし、空間ごと封印するための高位魔法。
「入った! 押さえ込んだぞ!」
「そのまま圧縮して潰せ!!」
魔術師たちが歓喜の声を上げる。箱が急速に縮小し、私の身体を押し潰そうと圧力をかけてきた。
魔法すら伴わない、私の中の「天使と悪魔の核」が体内から拒絶するように爆発的に噴出した。
私を縛っていた半透明の青い鎖は一瞬で塵へと変わり、閉じ込めていた箱型魔法陣は内部からの膨大な圧力に耐えかねて、粉々に弾け飛んだ。
「ぐはああっ!?」
「バ、バカな……障壁ごと破られた……ッ!」
魔法の強制解除による劇烈なバックラッシュ(魔力逆流)が魔術師たちを襲った。
彼らは血を吐きながら吹き飛ばされ、廊下の硬い大理石の壁へと激しく打ち付けられた。骨の砕ける音が響き、彼らはそのまま崩れ落ちて意識を失い、動かなくなった。
倒れた魔術師たちを一顧だにせず、私は静粛が戻った広間の解き放たれた中央を進む。
目指すは、広間の最奥――狂王カルプルニウスが潜む、皇帝私室の重厚な大扉。
その大扉の前には、最後の防壁として、これまでとは比べ物にならないほど分厚く、滑稽なほど神々しいほどの魔力が込められた『多重魔法障壁』が何重にも展開されていた。
私は歩みを止めず、右手を軽く差し出した。
大気が揺れ、分厚い魔法障壁がガラス細工のように一瞬で弾け飛ばし、衝撃波が扉の奥へと突き抜けていった。
その圧倒的な破壊力を目の当たりにした瞬間、扉の前に控えていた最後の近衛兵たちの理性が完全に崩壊した。
「ヒいっ……! ダメだ、無理だ! 敵わない!」
「逃げろぉっ!」
兵士たちは持っていた大剣や盾を投げ捨て、自らの主君である皇帝カルプルニウスを部屋の中に置き去りにしたまま、我先にと逃げ出していった。誰も、もうこの私に立ち向かおうとする者はいなかった。
静まり返った広間。
破壊された障壁の破片が光の粒となって消えていく中、私はついに到達した。
豪奢な金装飾が施された、巨大な皇帝私室の扉の前へ。
扉の向こうから、一筋の汚濁した命の気配――あの男の魂がはっきりと伝わってくる。
私の両目が、爛爛とした殺意の赤と白に染まる。
「カルプルニウス」
私は新しく得た五体で、固く閉ざされた扉へと手を伸ばした。




