闇に揺れる残響
大ホールの惨劇をあとにし、私は王宮の深部へと続く中央廊下へと足を進めた。
豪奢な大理石の床には、逃げ惑う貴族たちが残した靴の跡や、こぼれたワイン、そして私が撒き散らした幾人もの首級から流れた血が、禍々しい濡れ模様を描いている。
廊下の随所には、逃げ遅れた者たちや、「ここにおれば怪物に見つからず助かるはずだ」と浅はかな希望を抱いた城の使用人、下級貴族たちが身を寄せ合っていた。柱の影や彫像の裏に密着し、膝を抱えてカタカタと震えている。呼吸の音すら殺そうと必死だが、彼らから発せられる濃密な死の恐怖と冷や汗の匂いが、鋭敏になった私の嗅覚を刺す。
不快だった。この城を満たす、汚濁した空気のすべてが。
私は静かに歩みを進めながら、頭上の天井を見上げた。
無数の水晶と魔石で飾られた、明るい光を放つ魔法灯が一定間隔で伸びている。それらが照射する眩しい光すら、今の私には酷く邪魔だった。
「必要ない」
私が呟いた瞬間、不可視の魔力の波動が廊下全体を駆け抜けた。
パン、パン、パン、パンッ――!!
数十メートルに渡って続いていた魔法灯が、弾けるような音を立てて一斉に消灯した。
眩いばかりだった廊下は、一瞬にして深い闇へと叩き落とされる。逃げ込んでいた者たちから、短い悲鳴が重なり合って上がった。
暗闇の中で、私自身の背中が怪しく発光し始める。
背中から展開した二つの翼。右の翼からは、太陽の破片のような神々しく美しい「黄色い聖光」が満ち溢れ、左の翼からは、底知れぬ深海や夜空を思わせる「深遠なる青い魔気」が蒼然と輝き出した。
黄色と青。相反する異形の二色の光が、私の白い皮膚と、血塗られた床を怪しく照らし出す。
その神秘的で破滅的な姿のまま、私は暗闇の中でうずくまる集団へと、ゆっくりと歩み寄っていった。
静寂を破ったのは、激しい靴音だった。
「お、おのれ怪物め! 失せろ、失せろぉっ!」
集団の前に躍り出たのは、仕立ての良い漆黒の服を着た老執事だった。
かつて私に悲しみの視線を投げかけていた男だ。彼は近くの壁から引っぺがした重厚な銀の燭台を両手で固く握りしめ、顔を恐怖と怒りで歪ませながら、死に物狂いで私に向かって振りかざし、襲いかかってきた。
銀の燭台が、私の胸元――皮膚に触れた。
金属が泥のように軟化する不快な音が響いた。
執事が力任せに振り下ろした銀燭台は、私の身体に一筋の傷をつけることもできず、接触した瞬間から熱を帯び、ドロドロとした灰色の液体となって床へ垂れ落ちた。手に残ったのは、溶け残った短い柄の部分だけだ。
「あぁ……!?」
老執事は手元の惨状と、目の前に立つ私の二色の瞳を見比べ、その場でガクガクと膝を折り、腰を抜かした。
握っていた柄が床に転がり落ちる。彼は尻餅をついたまま、涙と泡を口元から垂らし、必死に後ずさった。
「おた……お助け……お助けください……っ」
老執事はもはや私と目を合わせることもできず、腰を抜かしたまま、情けなく泥這いのようにして廊下の闇奥へと逃げていく。
私は、逃げていく彼の背中に目もくれなかった。殺す価値を感じない。
それよりも、私の瞳に宿った『透過』の力が、うずくまる者たちの過去を勝手に映し出し始めていた。
彼らと目が合うたび、あるいはその存在を意識するたび、彼らが過去に「私」という存在に対して行ってきた冷酷な仕打ち、嫌悪、蔑みの記憶が、彼らの肉体から滲み出る残響となって私の脳内へ鮮明に流れ込んでくるのだ。
その残響を、私は一つずつじっくりと精査していった。
言葉を交わしたこともない者たちの記憶。
その中で、集団の奥に隠れていた二人の侍女の残響が、強烈な不快感を持って私の思考に引っかかった。
二人の侍女。彼女たちは、私がまだ五体満足で宮殿の離れに押し込められていた頃、私の食事を担当していた者たちだった。
私は当時、出される食事が時折、妙に泥臭く、不自然な臭気を放っていることに疑問を抱いていた。だが、極度の飢えと恐怖から、それを黙って口にするしかなかったのだ。
透過された彼女たちの過去の残響が、真実を明かす。
――『見てよ、あの伯爵令嬢。今日も馬小屋から拾ってきた家畜の糞を混ぜたスープ、全部飲んじゃったわ』
――『クスクス、お上品に気取ってたって、所詮は豚ね。明日も混ぜてやりましょうよ』
二人は物陰で袖を口元に当て、腹を抱えて私をあざ笑っていた。故意に私へ家畜の糞便を混ぜた料理を食べさせていたのだ。私自身すら気づいていなかった、密かな、しかし反吐が出るほど醜悪な嫌がらせ。
私の心が、ピクリと動いた。
指先を軽く持ち上げる。
「「ひやあああああああっ!?」」
集団の中から、二人の侍女の身体が跳ね起きるように宙へと浮き上がった。
念動の不可視の手が、彼女たちの細い首を固く締め上げ、空中へと吊り上げたのだ。
二人は喉から漏れる悲鳴を詰まらせ、両手の爪を自らの首筋に立てて必死に抵抗した。足をバタバタと痙攣させ、空を掻きむしる。集団から絶叫と懇願の声が交錯して上がった。
「ああ、お許しを! お許しください!」
「助けて、助けて……ッ!」
叫び、命乞いをする二人を見上げながら、私の二色の翼が大きく広がった。
「あなたたちが私に与えたものは、食事ではなかった。……なら、あなたたちにも相応の装いを与えるまで」
私は軽く指を振り下ろした。
果物の皮を剥くような、ごく自然で、洗練された魔力の刃が二人を包み込む。
音はなかった。
次の瞬間、空中につるされた二人の侍女の全身の皮膚が、首元から足先に至るまで、一枚の布のように完璧に、一瞬で剥ぎ取られた。
「あ……が……ッ、アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!!!!!」
この世のものとは思えぬ、地獄の底から響くような叫びが廊下に轟いた。
飛び散る鮮血。皮膚を全て失い、赤い筋肉と白い脂肪、青い血管が剥き出しになった二つの肉塊が、空中で激しく身悶える。
集団の者たちはあまりの凄惨さに狂乱し、自らの目を覆い、発狂するように悲鳴を上げながら壁に頭を打ち付けていた。
私は拘束を解いた。
ドサッ、ベチャ、ドサッ。
肉が床に叩きつけられる重い音が響く。
全身を血みどろにした二人の侍女は、皮膚を奪われた激痛に床をのたうち回り、やがてぴくぴくと痙攣しながら、自分たちの流す血の海の中に静まり返っていった。即死ではない。剥き出しの肉体に触れる空気の冷たさすら、激痛となって彼女たちを苛み続けるだろう。
血の匂いが充満する中、私はふと、集団の隅で震えるもう一人の人物に目を留めた。
気になる、若い侍女だった。
私は指先を向け、彼女を念動で引きずり出した。
彼女は腰が完全に抜け、自分では立ち上がることすらできず、股間を濡らして失禁した状態で、私の足元まで引き寄せられた。
「ヒッ……ヒぐっ……あ、ああ……」
涙と鼻水で顔面をぐちゃぐちゃに濡らし、ひどく全身を震わせている若い侍女。
私はその前にかがみ込み、顔を近づけて、彼女の両目をじっと見つめた。
透過の力が、彼女の過去の記憶を私に開示する。
――そこに映し出されたのは、あまりにも痛ましい光景だった。
この若い侍女は、侍女長レポンティナや、他の先輩侍女たちが私に行っていた暴行や拷問を目の当たりにし、耐えかねて密かに上の者に報告しようとしたのだった。
だが、それが侍女長に知れ渡った。
侍女長レポンティナは、見せしめとして彼女を地下の兵舎へ引きずっていかせた。
そして、そこにいた粗野で粗暴な若い兵士たち数人に、彼女をけしかけ、乱暴させたのだ。
暗い部屋で、衣類を破かれ、泣き叫びながら踏みにじられる少女。
事が終わった後、髪を乱し、床で震える彼女の顔を掴み上げ、侍女長は冷酷に囁いていた。
『これ以上、余計なマネをして酷い目に遭いたくなかったら、すべてを忘れることね。お前が庇おうとしたあの令嬢と同じように、ゴミみたいに捨てられたくなかったらね』
記憶の残響と共に、当時彼女が感じた絶大な屈辱、恐怖、恐怖に押し潰された無力感、そして誰にも救ってもらえなかった絶望の感情が、まるで私自身の体験であるかのように、生々しい熱量を持って胸になだれ込んできた。




