混濁の衝動
私にとっては一瞬の時だったが、超越者たち同様、時間の感覚が変化していた。
さっきの肉体の復活は、思ったより時間を要してしまったようだった。
月光すら届かぬ夜の天空を、私は風を切り裂いて飛んでいた。
背中に生えた相反する二つの翼――右の黄金に煌めく天使の翼と、左の禍々しく脈動する血色の悪魔の翼が、大気を爆発的な推進力で押し出していく。全身を満たす力は底知れず、重力などという理は私にとって意味をなさなくなっていた。
下界を見下ろせば、黒々とした森林や街道の景観が、疾風のごとき速度で後ろへと飛散していく。この先にあるのは、帝国の中央都市――そして、私を人間扱いせず、弄び、細切れにして捨て去った狂王カルプルニウスが住まう悪徳の王宮だ。
ドーム状に張られている、魔法障壁を容易く突き抜けていく。
早く、あそこへ。
あの絢爛豪華な地獄へ行き、あの男の首を跳ね、臓物をぶちまけてやらねば気が済まない。
だが――帝都の灯火が遥か彼方の水平線に微かに見え始めた、その時だった。
「ッ……!? あ、あぐッ……!?」
突然、胸の真ん中に、灼熱の鉄串を突きたてられたかのような絶大な激痛が奔った。
心臓を直接握り潰されるような痛みに、私は息を詰まらせ、空中での飛翔を強制的に停止した。翼の羽ばたきが乱れ、高度数百メートルの暗闇の中に佇む。
痛い。激しい熱が胸から全身の血管へと逆流していく。
ただの肉体の痛みではない。これは――私の魂の奥底で、相容れぬ二つの強大な存在の意思と、私自身の精神が激しく衝突し、引き裂かれようとしている歪みだった。
(なんなの……何が、起きているの……!?)
私は頭を抱えようとして、自分の両手を握りしめた。
頭の中で、いくつもの相反する声や思考が、私の叫び声となって吹き荒れていた。
『――殺せ。焼き尽くせ。破壊しろ』
黒く汚泥のような悪魔の衝動が、頭蓋の内側を殴りつけてくる。
『あの帝国に生きるすべての虫ケラどもを足蹴にし、血の海に沈めろ。皇帝のみならず、あの土地に住まう者、生きとし生ける者すべてが罪人だ。皆殺しにしろ。灰にしろ。焦土に変えろ!!』
憎悪が、無差別の虐殺を求めて狂い咲く。
そうよ、あいつらは全員害虫だ。私があの地獄で痛みに泣き叫んでいた時、誰も助けてはくれなかった。城下の民も、宮殿の兵も、貴族共も、全員が狂王と一緒になって私を嘲笑っていた。誰も彼も、生かしておく価値などない。死ぬべきだ。帝国ごと滅ぼしてしまえばいい! 皆殺しだ。
だが、次の瞬間、透明な光のような思考がそれを打ち消そうと割り込んでくる。
『――落ち着きなさい、それは真の正義ではない』
静寂で冷徹な、天使の理性が私の声となり、脳裏に響く。
『あなたが復讐すべき者は、あなたを直接害し、不当に傷つけ、陥れた者たちだけです。無辜の民や、ただ命じられただけの罪なき者にまで刃を向けつければ、あなたは、あなたが自身が憎んだ狂王と同じ存在へと身を落とすことになります。絶滅など望んではいけません』
そうだ……私は、無差別な殺戮者になりたいわけじゃない。あいつのようになりたくない!
私を売った強欲な両親、私を叩き潰したカルプルニウス、そして私を嘲笑い、痛めつけた一部の性悪な貴族や侍女たち。私が報いを受けさせたいのは、奴らだけだ。民すべてを巻き込んで皆殺しにするなんて、そんなの……間違っている。
しかし、その穏やかな思念を覆い隠すように、また別の冷酷で虚無的な冷気のような思考が胸を冷たく冷やす。
『――だが、復讐そのものに何の意味があるというのだ?』
冷ややかな諦観が口から漏れ、私を嘲笑う。
『復讐はさらなる悲劇と復讐を生むだけ。傷つけられた過去が戻るわけでもない。狂王を殺したところで、あなたの失われた日々や平穏が戻るわけではない。復讐など何の価値もない、ただの無駄な悪あがき。すべてを捨てて、このまま遠くへ去るべきだ』
「あ……あああ……っ!!」
訳が分からなかった。自分が何をしたいのか、どうすべきなのか、まったく決めることができない。
殺したい。全員滅ぼしたい。
いや、復讐は限定的に行うべきだ。
うそだ、復讐なんて虚しいだけだ、何もかもどうでもいい。
天使の理知、悪魔の破壊衝動、そして私自身の歪んだ人間性が、脳内で混ざり合い、渦を巻き、激しい不協和音を奏でる。精神が千切れそうだった。胸の傷跡が熱く煮え滾り、脳髄が焼き切れそうだ。
混乱と苦痛の混濁の中で――私の記憶の蓋が、突如として弾け飛んだ。
濁流となって脳裏に押し寄せてきたのは、この数年間、私があの地獄の宮殿で味わってきた、惨棡な日々の光景だった。
顔面を激しく殴られ、視界が弾けて左目が潰れた瞬間の、メリッという嫌な音と激痛。
「お前の愛などいらぬ」と狂王に嘲笑われ、兵士たちに押さえつけられたまま、鈍い斧で左腕を何度も何度も斬りつけられ、力任せに断ち切られたあの激痛と絶望。
鉄槌で右足の骨を砕かれ、激痛に転がり回る私を、酒を飲みながら見下ろして笑っていたあの貴族たちの顔。
性病で腐臭を放つ狂王カルプルニウスの醜い皮膚が迫り、無理やり身体を汚された時の、吐き気と激しい屈辱。
「お前はもう用済みだ、豚」と言われ、暗殺未遂という冤罪を押し付けられ、冷たい雨の中で泥の中に引きずり回されたあの日。
嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ!!
なぜ私が!? なぜ私だけがこんな目に遭わなければならなかったの!?
私はただ、普通に生きたかっただけなのに!!
「あああああああああああああああああああああああッ!!!!」
夜空の中で、私はただ頭を抱えて絶叫した。
悲鳴が、叫びが、喉を切り裂いて夜の空気に消えていく。
精神のキャパシティが限界を超えた。
私は叫び疲れたように、ぐらりと頭を揺らした。
背中の二つの翼が羽ばたきを止め、私は空中で静止したまま、両手と両足を力なく力尽きたようにダラリと垂らした。
瞳から光が消える。激しい葛藤と記憶の激流に耐えかね、私は空中で一瞬、完全に意識を失って気を失ってしまった。
無の静寂。
……だが、その暗闇はほんの数秒しか持たなかった。
暗闇の底から、ふたたび何かが湧き上がってきた。
天使の理性でもない。悪魔の破壊衝動でもない。
私自身の底なしの魂から湧き出る――燃えるような、ドロドロとした、抑えきれない真実の『憤怒』が。
ドクン……!
胸の奥で、光と闇の核が力強く脈打つ。
意識が急速に浮上した。私の両目がパチリと開く。その瞳は、深紅の殺意と輝く殺戮の光で満たされていた。
迷いは、消えていた。
理性が吹き飛んだわけではない。ほんの少しだけ、冷却された理性が残っていた。だが、その理性は復讐を止めるためではなく、復讐を最も効率的に、最も残酷に果たすための精度として機能していた。
「……ぜ、全員殺す……」
口から漏れたのは、かすれた掠れ声。
「……いや……奴らだ……私を嗤い、害し、踏みにじった……奴らだけでいい……」
そう。全員を殺す必要はない。だが、私を不当に扱ったあの虫けらどもには、爪の先ほどの慈悲も残すつもりはない。
背中の翼が、再び力強く旋風を巻き起こした。
私は前方を睨みつける。帝都の明かりが、すぐそこに迫っていた。
「待っていなさい」
ドオンッ!!
空気が爆ぜる音と共に、私の身体は音速を超えて加速した。
凄まじい速度だった。景色が光の筋となって後ろへ流れていく。一瞬だった。ほんの数秒の飛翔で、私は広大な帝都の街並みを飛び越え、その中心にそびえ立つ、巨大で不快な輝きを放つ皇城の上空へと到達していた。
城の中央には、大宴会を行うための広大なガラス張りの大ホールが見える。
今夜もまた、狂王とそれに群がる腐った貴族どもが、贅沢な酒と肉を貪り、誰かの悲鳴を娯楽にしながら夜会を開いているのだ。
私は下降速度を落とすどころか、さらに加速させた。
ガラス窓の向こうで、着飾った貴族たちが酒杯を掲げ、優雅に踊っているのが見えた。
ドガアアアンッ!!!!
大音響と共に、大ホールの強化ガラスでできた巨大な高窓が、粉々に砕け散った。
無数のガラスの破片が輝く星屑のように会場内に降り注ぐ中、私は背中に赤と黄の異形の翼を広げたまま、ホールの中心にある豪奢な絨毯の上へと豪快に着地した。
重腔な衝撃波が周囲へ広がり、長テーブルが一瞬で吹き飛び、積み上げられた果物や高級酒が床にぶちまけられる。
ぴたりと、優雅な合奏を奏でていた楽隊の演奏が止まった。
会場全体を支配したのは、静寂と――圧倒的な困惑だった。
舞踏を楽しんでいた数百人の貴族たち、豪華なドレスを着た貴婦人たちが、何が起きたのか理解できずに固まっている。彼らの視線が、粉々になった窓から侵入した「私」へと注がれる。
「な、なんだ……!? 何事だ!?」
「怪物……? 翼が生えているぞ……!?」
ヒソヒソと交わされる困惑の声。
私はゆっくりと頭を上げ、新しく得た両目で会場を見渡した。




