復讐の化身
悪魔の鉤爪が、天使の右側の黄色い翼の根本に突き刺さる。バリッと、肉と骨が引きちぎられる嫌な音が響き、悪魔は天使の美しい翼を強引にもぎ取った。天使の口から、鐘の音を砕いたような美しい悲鳴が上がる。
だが、天使も怯まない。羽をもがれた瞬間の隙を突き、保持していた輝く長槍を、全力で悪魔の太い首元へと突き立てた。光の刃が深々と刺さり、悪魔の体内から禍々しい紫色の血が噴き出す。
悪魔は激痛に狂乱しながら、残された最後の力で、己の腕を鋭利な黒い骨の刃へと変形させ、天使の喉元を真後ろから貫通させた。
ドツン、と世界が静止するような音が響いた。
天使の黄色い光と、悪魔の赤い闇。
互いに命の核心を穿ち合った二つの高次元の存在が、絶頂を迎えるようにそのエネルギーを爆発させた。
言葉通りの爆発だった。
黄色の光輝と、赤黒い闇が交じり合い、螺旋を描きながら膨れ上がる。次の瞬間、周囲の空間ごと薙ぎ払うような凄まじい突風と衝撃波が駆け抜けた。
「あっ――」
這っていた私の身体など、羽毛よりも軽かった。
横転していた重い馬車ごと、私は衝撃波に巻き込まれて宙へと吹き飛ばされた。視界が高速で回転する。視界の端で、横転した馬車が粉々にはじけ飛ぶのが見えた。
そして――ドスッ!!
重い、鈍い衝撃が胸の真ん中を貫いた。
言葉が出ない。呼吸が止まる。
私は、荒野にぽつんと立っていた枯れ果てた大木の、太く尖った枝の上に落下したのだ。
太い木枝は、私の胸の真ん中――心臓のわずかに横、肋骨を叩き割り、背中へと完全に突き抜けていた。
私は大木に串刺しになったまま、宙吊りになっていた。
口から、熱い血の塊がドバッと溢れ出す。視界が急速に明度を失っていく。
胸から生えた木枝を通して、自分の命がポタポタと地面に落ちていくのが分かった。
痛い。苦しい。冷たい。
……ああ、結局、こうして死ぬのか。
私の人生は何だったのだろう。
カルプルニウスに弄ばれ、切り刻まれ、豚のように捨てられ、挙げくの果てには、天から落ちてきた超越者たちの巻き添えになって、木に刺さって死ぬ。
誰にも愛されず。誰の記憶にも残らず。
何の価値もない、ただ踏みにじられるためだけに生まれた人生。
後悔と、絶望と、深い暗闇が私を呑み込もうとしていた。
――いやだ。
死の淵で、冷たくなった私の心の奥底から、ドロリとした黒いものが湧き上がってきた。
許せない。
私を売った両親が許せない。
私を嘲笑った兵士たちが許せない。
私を玩具のように壊し、片目を奪い、腕を切り落とし、足を踏みにじり、最後には濡れ衣を着せて捨てたあのアレクサンデル・カルプルニウスが――絶対に許せない!!
なぜ私だけがこんな目に遭わなければならない!?
なぜあの男は、今も豪華な宮殿で酒を飲み、女を抱き、笑っている!?
殺したい。あいつの顔面の皮を剥ぎ取りたい。
煮立った油の中に投げ込んで、悲鳴を上げながら溶けていく様を笑って見下ろしてやりたい!!
憎悪が、殺意が、絶望を塗りつぶして私の魂を焼き焦がした。だが、体はすでに冷え切り、動かない。心臓の鼓動が、ゆっくりと止まりかけていた。
その時だった。
頭上で、空中で相打ちとなった天使と悪魔の体が、サラサラと崩壊していくのが見えた。
天使の聖なる肉体と、悪魔の禍々しい肉体が霧散し、あとに残されたのは――手のひらほどの大きさの、二つの眩い光の結晶だった。
一つは、輝く黄金の光を放つ天使の核。
もう一つは、禍々しい深紅の闇を孕んだ悪魔の核。
互いに引き合い、不規則に回転していた二つの結晶は、大気に満ちた私の狂おしいほどの『憎悪』と『生存への執着』に引き寄せられるように、すうっと落下してきた。
そして、落ちてきた場所は――私の胸を貫く、血塗られた傷口だった。
二つの結晶が、私の胸の中へと吸い込まれていく。
フツツ……ッ!!
次の瞬間、私の体内で何かが弾けた。
全身の血液が沸騰した油に入れ替わったかのような、凄まじい熱量。
止まりかけていた心臓が、ドクンッ!!と、落雷のような音を立てて跳ね起きた。
「ガ、アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!!!」
喉が焼け切れるほどの絶叫が口から突いて出た。
私の意識が完全に覚醒する。
残された右目――いや、潰れていたはずの左目も含めた私の両眼が、真っ赤な血の色に染まり上がっていくのが自分でも分かった。世界が赤く見えた。殺意の色彩に染まっていた。
激しい怒りが、私の理性を吹き飛ばし、純粋な破壊の意志へと変換される。
私は胸を貫いている太い木の枝に、残された右手を叩きつけた。
そして――ただの人間ならあり得ない怪力で、私を刺し貫いていた大木の枝を、素手で力任せにへし折った。
ドサッ!!
地面に落ちる。
胸に刺さったままの木切れを、私は自らの手で引き抜いた。ドロリとした血と共に木片が落ちる。だが、穴の開いた胸からは血が流れる代わりに、黄色い聖光と赤い魔気が混ざり合った怪しい粒子が溢れ出していた。
変化は、そこから始まった。
メリ、メリッ、と不快な骨の軋む音が響く。
背中の両肩甲骨のあたりが猛烈に熱くなり、皮膚が破裂した。
右の背中から、弾けるように生え出たのは――黄色く輝く、聖なる天使の翼。
左の背中から、禍々しく展開したのは――血のように赤く、漆黒の脈動が走る悪魔の翼。
左右非対称の、光と闇の翼が私を包み込む。
それだけでは終わらない。
左肩の切り落とされた断面から、肉芽が爆発的に増殖し始めた。筋肉が編み合わされ、骨が急速に形成され、白い皮膚がそれを覆っていく。一瞬にして、失われた左腕が生えてきた。
バキバキバキッ!!
不自然な角度に曲がり、固まっていた右足の骨が一度粉砕され、正しく再結合していく。歪んでいた関節が整い、健康でしなやかな脚へと復元されていく。
さらに、私の顔面。
潰れて久しかった左目の窪みの中で、新たな視神経と眼球が高速で生成された。閉ざされていた瞼が開く。失われていた世界の半分が、鮮明な色彩を持って私の視界に飛び込んできた。折れて失われていた歯が内側から生え揃い、全身の擦り傷や火傷の痕、拷問の痕跡が、まるで時間を巻き戻すかのように滑らかな皮膚へと塗り替えられていく。
私の身体は、天使と悪魔の力を同時に吸収し、完全に「再構築」されたのだ。
風が止んだ。
赤黒かった空は徐々に沈静化し、荒野に静寂が戻ってくる。
そこに立っていたのは、かつての惨めな、壊された伯爵令嬢ではない。
背に光と闇の翼を掲げ、全身に底知れぬ魔力を宿した、復讐の化身だった。
私は新しく生えそろった自分の左手を握り、ひらひらと動かしてみた。動く。力に満ちている。
両足で地面を踏みしめる。しっかりと、大地に立つことができる。
私はゆっくりと、自分が引きずられてきた方角――帝国の中央、あの豪華絢爛で吐き気のする王宮がある方角を見つめた。
唇が、自然と釣り上がるのが分かった。
折れていたはずの美しい歯が並び、新しく得た視界が、遥か遠くの景色まで明瞭に捉えている。
「虫けら共が……」
私の口から漏れた声は、鈴を転がすような美しさと、地獄の底から響くような冷徹さを併せ持っていた。
「生きている事を、後悔させてやる」
背中の二つの翼が、力強く羽ばたいた。
私は地を蹴り、狂王の待つ帝都へ向けて、夜の訪れと共に飛び立った。




