65. まるごと全部
藤澤 琉生。
彼は、私の推しだ。
そして、私の大好きな人だ。
彼と私は、約束をした。
それぞれに、一生懸命生きて、いつかきっとお互いに会いに行くこと。
どちらかがどちらかを待つとか、待たせるとかではなく。
今だ!っていう日が来たら、きっと会いに行く。
レイさんに呼ばれて、リビングに行くと、琉生は、そっと気遣うように、私をソファに座らせて、「足、大丈夫?」とあらためて訊いた。
「あ。うん。なんとか」
そう答えたものの、正直なところ、さっきから、琉生の大盤振る舞いやら何やら、いろいろ刺激的すぎて、私は足を挫いたことなどすっかり忘れていた。
そんな私たちに、レイさんはにっこり笑って、
「ほらほら、琉生も早く座って。この紅茶ね、すごく美味しいの。琉生も好きなハチミツ紅茶」
そう言って、紅茶を勧めてくれた。
白いシンプルなマグカップにたっぷりの紅茶からは、温かい湯気と甘い香りが立ち上る。
一口飲んで、そのおいしさに目を瞠る。
さらにすすめられて、お皿に並んだ、薔薇の花の形をした可愛らしいクッキーも一つよばれる。もちろん、美味しい。これはレイさんの手作りらしい。
隣りに座った琉生も温かい紅茶にほっとした横顔を見せている。
そして、私とふと目が合うと、にっこり笑いかけてくれる。
まるで夢みたいだ。
いや、ほんとに夢かもしれない。
うっとりしかけたところに、私のポケットのスマホが鳴った。
慌てて見ると、母からのLINEだった。
『今どこ? 早く帰っといで~。
お友達と別れを惜しんでるのかもしれへんけど、
引っ越し作業は佳境をむかえてるよ~』
そうだ。すっかり忘れていた。
引っ越しを明後日に控えて、まだやることが山ほどあるのだ。
一部の荷物は先に大阪に送ったはずなのに、なんで? って思うほど、まだまだ荷物が多い。
「あの。もう帰らないといけなくて」
スマホから顔を上げて、そう言うと、琉生が一瞬目を伏せた。
「わかった。じゃあ、送っていくね」レイさんが言った。
「すみません。ありがとうございます」
頭を下げると、レイさんは琉生とよく似たほほ笑みを浮かべて、さっと立ち上がった。
「じゃ、先に行ってエンジン温めとくから、あとからゆっくりおいで~」
そう言うとレイさんは先に部屋から出ていった。
「荷物は持つよ。あ。本も、忘れないで」
琉生にそう言われて、私は膝に乗せていた琉生のくれた本を急いでカバンに入れる。
私のカバンを肩にかけた琉生は、私の手を取って立たせてくれた。
玄関を出たところで、琉生が立ち止まった。外の空気はしんと冷えていて、思わず首をすくめる。
柔らかな眼差しで、私を見つめていた琉生が、自分の首に巻いていたマフラーをはずして、それを私の首にふわりと巻いてくれた。
「これ。僕のかわりに連れて行って」
「琉生くん……」
見上げる私に、
「ふふ。大盤振る舞い、かな?」
琉生が笑う。
そうか。
自分が寒いから巻いてたんじゃなくて、私のために。
私に巻いてくれるために。
一気に嬉しさと愛しさが胸に渦のように湧き上がる。
琉生くん。
琉生くん。
琉生くん。
胸が一杯で声が出ない。
だから、心の中で何度もその名を呼ぶ。
その声も。そのほほ笑みも。その手の温もりも。
全部、全部。
彼の存在ごと、まるごと全部。
私は、絶対忘れない。このまま何十年会えなくなったとしても、ずっと覚えてる。
真っ直ぐな彼の眼差しに、笑い返そうとするのだけど、もう、最後なのだと思うと、上手く笑えなくて。
必死で、その目を見つめるのが精一杯で、言葉は全て、喉のところで熱い塊になってしまう。
ああ。
こんなにも大好きなんだ。
この人が大好き。
ただの推しなんかじゃない。
涙が一気にあふれ出してくる。
止められなくて頬をぽろぽろと涙の粒が転がり落ちる。
あかん。
今泣いたら、顔がぐちゃぐちゃになってしまう。目は真っ赤になるし、鼻水まで出てきそう。
あかん。
今泣いたら、琉生の顔が涙で潤んでちゃんと見えへんようになるから。
そう思うのに、涙が次から次へと溢れてきて、私はうつむく。
こんな顔を見せたくない。最後は笑って。そう思っていたのに。心に決めていたのに。
必死で、涙を手の甲で拭う。
すると、突然、琉生が私を抱き寄せた。
彼の腕に力がこもる。
「約束やで」琉生が関西弁で言う。
「うん」
「きっと、絶対、お互いに会いに行く」
「うん」
「元気でおってな」琉生の柔らかな関西弁が沁みてくる。
「うん。琉生くんも」
「もちろん」
「空。大好きだよ」
琉生の優しい声が降ってくる。
「ん、私もだ、」
彼を見上げた私の返事は途中で止まってしまった。
次の瞬間に起きたことは、私の胸の中に秘めておく。
でも……それは私にとって一生ものの宝物のような記憶になった。
藤澤 琉生。
彼は、私の推しだ。
そして、私の大好きな、大事な人だ。
彼と私は、約束をした。
約束の期日は、私たち本人にもわからない。
でも、いつかきっと。
それがどんなに遠い約束でも。
いつかきっと。――私たちは、そう思っている。
レイさんの運転する空色の車で自宅に送ってもらうまでの間、車内で琉生はずっと隣りにいて、私の手をぎゅっと握ってくれていた。
家の前でおろしてもらって、レイさんにお礼を言ったとき、レイさんが、折りたたんだ小さな紙を私にくれた。
「あとで、見てね」そう言って。
私をおろすと、車は静かに走り出した。
後ろの窓から一生懸命振り返っている琉生の顔を見つめる。
やがて、2人の乗った車が角の向こうに見えなくなるまで、私はじっと見送った。
「ただいま~」
玄関を開けて家に入る。
「おかえり~。案外早かったね~」母の声が、両親の使っていた部屋の方から聞こえる。
段ボールだらけの自分の部屋にカバンをおろし、コートを脱ぐ。
彼がずっと握ってくれていた手を頬に当てる。
まだ、手のひらに彼の温もりとふわりとした優しい香りが残っている気がする。
そや。このあとの引っ越し作業は手袋をはめてから、やろう。
それと、もちろん、今夜はこの手は洗わない。
そう心に決めたあとで、ハッとした。
あ。もしかして、顔も洗われへん、かも?
――頬が一気に熱くなった。




