63.同じだね。
「織田さん!」
教室の入り口に現れた琉生は、大きな声で私を呼んだ。
びっくりした私はバランスを崩しそうになって、慌てて椅子から飛び降りた。
その瞬間、ちょっと左足を捻ってしまった。
「いた……」
琉生が飛んできて、
「ごめん! 大丈夫? 急に声かけたから……」
「だ、だいじょうぶ。ちょっと捻っただけやから」
心配そうに眉をひそめて、琉生が訊く。
「今日、日直だっけ?」
「ん。違うけど、代わってもらった」
「どうして?」
琉生が、まじめな顔で私の目をのぞき込む。
(ああ。この瞬間が来てしまった。さよならの瞬間……)
私は、思い切って口を開く。
「あのね。実は、私、今日で、」
言いかけたとき、
「話はあとでゆっくり聞くよ。今はひとまず、ここの戸締まりをして帰ろう」
そう言って、琉生は残っていた窓のカギをさっさと全部閉め(もちろん椅子はいらなかった)、私のカバンを机の上から持ち上げ、自分の肩にかけた。琉生自身は手ぶらだ。
「行こう。とりあえず、職員室には寄らないと」
教室の外に出て、扉のカギを閉めると、
「足? ほんとに大丈夫?」
私にもう一度訊いた。
「うん」
うなずいたけど、歩き出すと、ずきんと痛む。
最後の最後に、なんてカッコ悪い。
そう思ってうつむくと、琉生がそっと、私の方に自分の腕を差し出してきた。
「?」
「つかまって。よかったら。カバンはこのまま僕が持つから」
そう言うと、私の手を取って、自分の腕につかまらせた。
そして、ゆっくりと歩き出した。
職員室までの廊下が、いつもより長いのか短いのか、混乱している私にはわからない。
とにかく彼の腕につかまって、足を軽く引きずりながら、歩く。
廊下には誰もいない。
2人だけで歩く廊下。
痛いけど。
嬉しい。
痛いけど。
幸せだ。
目の奥がじんと熱くなる。
神様たちは、最後の最後まで、申し訳ないほどの大盤振る舞い、大サービスだ。
自分の気持ちばかりでいっぱいいっぱいの、情けない私に、最後までこんな……。 感謝の気持ちで一杯になる。
2人並んで歩きながら、琉生が静かに言った。
「今学期で、転校するんだってね」
「え。どうしてそれを?」
びっくりして、彼の顔を見上げると、
「偶然、職員室で。質問に行ったとき耳にした」
「そうやったん……」
「なんで……何も言わずに行こうとしたの?」
琉生が少し、怒っている気がした。
「……ごめん」
「ごめんではすまないな。ちゃんとワケを話してもらわないと」
「……ごめん」
少しションボリしている私に、琉生が言った。
「今日は、送っていく」
「絶対に送っていく。そのために、必死でここまで走ってきたんだ」
「琉生くん……」
職員室に着くと、琉生は倉内先生のところに行って成績表をもらい、私は、職員室にいた学年の先生たちに、感謝の気持ちを伝えてお世話になりましたと挨拶した。
教室を見回っていた数学の先生も、いつのまにか職員室に戻っていて、笑顔でうなずいている。
倉内先生にカギを渡し、2人で職員室をあとにした。
下足室で靴を履き替えると、
「ちょっとここで待ってて。動かないで。いいね?」
「うん」
琉生が来校者用の駐車場に走って行き、しばらくすると戻ってきた。
やがて、可愛らしい空色の車が1台走ってきて、私たちの目の前に止まった。
「さ、乗って」
琉生がドアを開けて、私を後部座席に乗るようにうながす。
「え? え? し、失礼します」
驚きながらもそう言って、私が車に乗り込むと、
「じゃあ、ドア閉めるよ」
彼はそう言ってドアを閉め、自分は反対側から素早く同じ後部座席に乗り込んだ。
琉生がドアを閉めると、
「OK。じゃあ、出発ね」
運転席から、元気な声が聞こえた。
ハッとしてみると、サングラスをかけて、黒のキャップを被った女性が、私に向かって会釈した。
「はじめまして。うちの弟がお世話になってます」
うちの弟? ってことは、琉生の、お姉さん?
「え? は、はじめまして。あの、もしかして……レイさん?」
「ぴんぽ~ん」
びっくりしてアタフタしてしまう私に、お姉さんは、琉生と同じ切れ長の美しい目でほほ笑みながら言った。
「いつも、本貸してもらってありがとう。それに、前は題名忘れて見つけられなかった本も教えてくれたりして。いつか直接お礼が言いたいってずっと思ってたの。だから会えて嬉しいわ。今日は、空ちゃんのお家まで送らせてね」
「いえ、そんな。お忙しいのに、もうしわけないです。どっかその辺の駅の近くで、ぽろっと落としてもらえれば」
「ふふふ。それはだめ~。足挫いちゃったんでしょう。うちの弟が突然声かけてびっくりさせて。椅子から落ちたってきいたけど。大丈夫? なんなら先に病院寄ってく?」
お姉さんは、すごく気さくでよく喋る人のようだ。
「いえ。そんな、それほどじゃありません。ちょっと捻っただけなんで。明日になったらマシになってます、きっと」
慌てて言うと、彼女は私に優しくほほ笑んで「じゃあ、お家に向かいましょうか」と前を向いた。
そして、車が発進しようとしたとき、
「あっ!! しまった!! 忘れてた!!」
突然、琉生が叫んだ。
「ちょっと、どうしたの?」
「ねえ、レイ。織田さんのうちに行く前に、ウチに寄ってよ。彼女に返さないといけない本、ウチに置いたままだ」
「あら。それは大変。じゃあ、ちょこっと回り道になるけど、ウチによってもいいかな?」
レイさんが、私に訊く。
「あ。大丈夫です。全然」
「了解。じゃあ、いったん、我が家に寄りましょう。ついでに、軽くお茶ぐらい飲んでいってね」
車が走り出し、大通りの車の流れに合流する。
「まだ結構混んでるね。さっきもかなり混んでたから、途中で降りて学校まで走ったんだ」
琉生が言う。
「もう間に合わないかもってあきらめそうになってたら、佐藤がメールと電話で教えてくれた。『まだ教室にいるよ』って。『今なら間に合うから早く来い』って。想太にも訊いたけど、やつは成績表をもらってすぐに仕事に出たから、そのあとのことはわからなくて」
そうだ。そういえば、想太は成績表をもらうとすぐに帰って行ってたな。
なるほど。と、うなずいていると、
「じゃあ。さっきの続き。なんで、何も言わないまま転校しようとしたのか、教えて」
琉生が真剣な顔になって、私を真っ直ぐみている。
「ごめん……ただ、透明人間みたいになりたくなかったんだ」
私の言葉に、琉生が少し不思議そうな目の色になる。
そこで、私は、以前大阪から引っ越すことになったときの話をした。
「なるほどな……。そういう気持ちになるのは、わからないでもない、な。でも、僕には、話してほしかった」
琉生は、そう言った。
「ごめん……」
そんな話をしていると、やがて、車は大きなビルのような建物のシャッターの前に着いた。
リモコンで、シャッターを開けると、そのまま車は建物の中に入っていく。
「到着~」
車をとめると、レイさんが言った。
初めて見る琉生の家は、外からは、窓のないビルのように見えるけど、その内側には、大きな窓がいくつもある、明るい開放的な家だった。
言われた通りに、リビングのソファで待っていると、レイさんが救急箱を持ってきて、足首に湿布を貼ってくれた。
「これで、様子を見てね。痛みが引かなかったら、ちゃんと病院に行くこと。いいね?」
「はい。ありがとうございます。すみません。お手数おかけして」
ぺこりと頭を下げると、レイさんは、「いいのいいの」と笑い、
「じゃ、この廊下の左奥、琉生の部屋だから。せっかくだし、のぞいて行ったら? あの子の部屋も、本いっぱいあるよ~。面白いから。こんなの読むんだなぁって。なかなか興味深いし」
そう言われて、心が動く。
カバンから紙袋を取り出し、それだけを抱えて彼の部屋に向かう。
足首に巻かれた湿布のおかげで、痛みが少しずつ和らいでいる気がする。
ゆっくり歩いて、琉生の部屋に向かう。
ドアが開いていたので、私は口で、
「コンコンコン」と言った。
「どうぞ」
琉生の声がした。
部屋に入ると、正面に大きな明るい窓があり、右奥にゆったりしたサイズのベッド、その近くの窓際にソファがある。
反対側の壁際には、電子ピアノやテレビがある。
入り口の近くに広い勉強机とその隣には、背の高い本棚がある。
そこには本当にいろんなジャンルの本が、びっしりと並んでいる。心理学から建築関係、芸術関係の本。歴史、語学、文学。料理や手芸の本まで、彼の興味の幅は本当に広い。
(すごいなぁ……)
彼は、その本棚の前に立って、1冊の本に何かを挟んでいるところだった。
「すごいジャンルが幅広いね……」私がため息をつきながら言うと、
「気になる本はとりあえず読んでみることにしてるから。でも、織田さんちのほうがもっといろいろあるんじゃないのかな」
「どうやろ?」
2人並んで棚を眺めていると、私も好きな、伊予原 新さんの本や、青山美智子さんの本も目に入る。
たぶん、本棚を見ただけでも、私はきっとこの本棚の持ち主を好きになっただろうという気がする。
隣りに立っている琉生が、ぽそっと言った。
「今日、織田さんに、どうしても渡したいものがあったんだ」
「ん?」
彼の方を見る。すると、
「これ……」
彼は手に持っていた小さな本を差し出してきた。
優しい卵いろの表紙に細い薄緑の線で花が描かれていている。
表紙には、金色の文字で、『The Little Book of World Poetry』 その下に、黒い文字で『小さな 世界の詩の本』(渡邊めぐみ 編著 リベラル社)と書かれている。
「これを、君に渡したかった」
琉生が真剣な、でも優しい眼差しで私を見つめている。
本を受け取ると、その本には、小さな紙で折った花束のような折り紙が挟んである。
花束が挟んであったページは、白居易の詩のところだ。
前に漢文の授業に出てきた、白居易が殷協律へ贈った詩で、中に『雪月花時最憶君』というフレーズがある。
本にも、花束が挟んであったページにも、本当はすごく驚いた。
(なぜ彼はこれを?) そう思った。
けど、折り紙の花束がすごく可愛くて。思わず目を奪われる。
満開の黄色いミモザの花を、空色の紙でくるんだような、花束。
表裏の色や柄が違う紙で作ったのだろう。
「わあ。可愛い……」じっと見とれてしまう。
「この前、取材に行ったお店で、折り方教えてもらったんだ。紙もそのお店で買ってきた」
琉生がなんだか眩しそうに照れくさそうに目を細めて、その花束を見ている。
「この本と一緒に渡したかった」
「……ありがとう」
私は胸がいっぱいになって、琉生を見上げる。
そして、私も片手で琉生のくれた本を胸に抱え、もう一方の手で、琉生に紙袋を差し出す。
「これ。私も、琉生くんに渡したかった」
「ありがとう」
袋を受け取り、中から本を取り出した琉生が、びっくりしたように声を上げた。
「空……!」
初めてだった。
琉生が、苗字ではない、私の名前を呼んだ。
目を丸くして、彼が見つめているのは。
『The Little Book of World Poetry』 その下に、黒い文字で『小さな 世界の詩の本』
彼が私に渡したかったといった本と同じものだ。
そして、その本に挟まれた栞とそのページに、彼はさらに目を見開いている。
104ページ。
白居易の詩のページだ。
本に挟んだ私の手作りの栞には、『雪月花時最憶君』の文字がある。
ただ、元の言葉に私は一文字書き足した。
『花』と『時』という字の間に、吹き出しをつけて、そこに『本』と書いた。
『雪月花のきれいなとき、そして、素敵な本に出会ったとき、私は君を一番に思い出すよ』
そんな気持ちを込めた。
琉生が、じっと本と栞を見つめて立ち尽くしている。
「同じだね」
私が彼にほほ笑むと、琉生が、突然両腕で私を抱き寄せた。
そして、少し掠れたような声で、
「空……好きだ。大好きだ」
彼が力一杯、私を抱きしめながら、言った。
「ずっと……大好きだよ」
彼の温かい腕の中で、私も夢中でうなずく。
「同じだよ。ずっと――大好き」
藤澤 琉生。
彼は、私の推しだ。
そして、クラスメートで、同じ文芸部の部員だった。
でも、この先のことは、正直、まったくわからない。
ただ、言えるのは――今この瞬間、私たちは同じ気持ちでいるのだということ。
『ずっと……大好きだよ』




