62.しっかりしろ。
まさか。
もしかして。
心臓が最大級にバクバクいい始めるのを必死に抑えながら振り向く。
「織田さん?」
そう言って、入り口に立っていたのは、1年の数学担当の先生だ。
(ああ。琉生じゃなかった……)
ほんの一瞬、残念と思ってしまった。ごめんなさい。
先生は、教室の入り口に立って、私に穏やかに笑いかけている。
穏やかで優しい物腰の、すごく親切な先生で、生徒たちからはとても人気がある。私も大好きな先生だ。
授業もわかりやすい。もしわからないことがあっても、それを正直に言える雰囲気になるよう、いつも気を配ってくれる人だ。
前に、質問しに行く勇気がなかった私が初めてドキドキしながら数学科研究室に行ったときも、
「よく来ましたね。僕らは、君たちの疑問を解決して、頭の中をスッキリさせるお手伝いをするのが仕事ですからね。いくらでも来てくださいね。遠慮なんかしないで」
そう言ってくれた。
先生によっては、「こんなこともわからないのか」と呆れた顔をして、「もっと考えてから質問に来なさい」と冷たく追い返されることもある、と文芸部の先輩たちから聞いていたので、逆にびっくりした。
先生にノートを広げて見せながら、「ここまでは考えたんですが、ここから先がどうしてもわからなくて……」と私が一生懸命訴えると先生はニコニコ笑って、
「このノートの使い方、良いですね。じっくり問題と向き合えるし、どこで間違えたか、見つけやすい」
そう言って褒めてくれた。
「藤澤くんに教えてもらったんです」
そう言うと、
「そうですか。彼も本当に熱心ですよね。あれだけ大変な仕事をこなしながら、勉強も手を抜かない。しかも、むしろ、それを楽しんでいるようでもある。彼が質問に来る問題はすごくユニークで、一緒に解法を考える私も楽しいんですよ」
先生はそう言った。
どんなときでも推しが褒められると嬉しい。そのとき私も力一杯うなずいたっけ。
そして、いつだったか質問に行くのにも慣れたころ、
「数学が苦手でした」と言った私に、先生は、「おや、 過去形ですね」
「はい。すごく苦手で、質問に来るのも勇気が要るくらいでした」
「そうでしたか」
そう言って、「実は自分も苦手でした」と先生は話してくれた。
「授業中みんなは理解できているのに、自分1人だけついていけないまま座っている気がして、すごく怖くて、寂しかったんです。『大勢の中の孤独』ってこういうのを言うのかなと思ったりしてね」
でも、あるきっかけから、数学を好きになって、それでいつか数学の教師になろうと思ったと話してくれた。
「授業の中で誰かをひとりぼっちにさせない。それが僕がずっと心がけてきたことなんです。でも、必ずしも上手くいくことばかりじゃありませんけどね」
先生はちょっとほろ苦く笑った。
そして、私はその話を聞いて、前以上に数学も先生のことも大好きになったのだ。
その先生が、今、私に笑いかけてくれている。
優しい笑顔。この先生の授業を受けることも、もう、なくなるのだ。
すごく淋しい。
そうだ。一瞬でも、琉生じゃなかったことにガッカリしている場合じゃなかった。
先生にも、ちゃんとお礼の気持ちを伝えよう。
私は、急いで椅子から降りる。
「最後の最後に日直のお仕事ですか。大変ですね。ありがとう」先生は穏やかに言った。
「あ。えっと。はい。……あの、先生。いっぱいお世話になりました。いつも丁寧にわかりやすく教えてくださって、ありがとうございました」
心を込めて頭を下げる。
「来学期から大阪でしたね。向こうの学校もかなりの進学校だと聞いていますが、君ならどこへ行っても大丈夫ですよ。学年の先生たちも、みんなそうおっしゃっていますよ」
そんなふうに言ってもらえるなんて――素直に嬉しい。
「ありがとうございます。そう言っていただけて、なんか少し不安が和らぎました。なんとかがんばってみます」
そう答えながら、私は気がついた。
正直、今日ここまでずっと琉生のことしか考えてなかった。
でも、他の先生たちにもちゃんとお礼の気持ちを伝えないと。
倉内先生とは昨日放課後いろいろ話をしたけれど、学年の他の先生にはまだちゃんと挨拶できていない。
「帰り際、ちゃんと先生たちにご挨拶してから帰りや」と母からも言われていたのをすっかり忘れていた。
うちの学年の先生たちは、他の学年の生徒たちから羨ましがられることも多い。みんな親切で、公平で、まっとうな感覚の先生たちなのだ。
そんな先生たちのいる学年だから、自分たち生徒は安心して毎日を過ごせているのだと思う。
『先生』という存在は、親や親戚以外で、子どもが毎日のように関わる最初の大人だ。どんな人に出会うかで、子どもの日常や目指したい大人像は大きく変わってくる。
理不尽で、上から目線で、自分の価値観だけを押しつけてくるような大人ではなく、子どもたちや若者を守り育てることが大人の役割だと、そう思っている大人に――自分もいつか、なりたいと思う。
倉内先生をはじめとして、1年の先生たちは、たとえ相手が生徒でも、ちゃんと人として尊重してくれているのが伝わってくる。そんな大好きな先生たちへの挨拶を忘れるほど、自分の気持ちに振り回されて、いっぱいいっぱいになっていた自分は、あまりに子どもだ。
ほんまに何やってるねん。私は。
ぜんぜんあかんやん。
琉生に会いたいばっかり考えて。
会いたかったとかって、めそめそ泣いて。
そんな情けないことでどうする?
こら。しっかりしろ。
ぼんくら、空。
私は気持ちを引き締める。
いつのまにか涙はすっかり引っ込んでしまった。
カギを返しに行くときには、職員室で倉内先生や学年の先生たちにもちゃんと挨拶しよう。
クラスのみんなには直接何も言ってないけど、倉内先生に来学期に伝えてもらうよう、メッセージを託したから大丈夫だ。
クラスのみんなに内緒にしたのには理由がある。
ずっと前、大阪から関東へ転校するって決まったとき、私は普通にクラスでその話をした。
すると、「もう来学期はおらへんのやろ」と、頭数から除外されるような雰囲気になった。
別にみんな悪気があったわけじゃない。それはわかってる。
ただ、この先取り組む予定の何かを決めるときには、「ああ。もうじき転校するんやったね」そう言って、はずされてしまう。
「いなくなったらめっちゃ淋しい」と言いながら、もうすでに、いなくなったあとのことに、みんなの意識は飛んでいるのがわかった。
淋しかった。
まだ私はここにいてるのに。
ちゃんと目の前にいてるのに。
そう思っても、日常のいろんな場面で、私がいないことが前提で話が進んでいくことは避けようがなかった。
まるで自分が――透明人間になった気がした。
だから、今回私は転校のことを誰にも言わなかった。最後まで、ずっと明日も明後日も来週も来学期も一緒にいる。そう思っていてほしかった。
誰かと一緒にカウントダウンしながら過ごしたくはない。
さよならへのカウントダウンは、自分1人だけですると決めていた。
「あとで職員室にカギを返しに行くときに、他の先生方にもご挨拶をしようと思っています」
私が言うと、先生はうなずきながら、
「そうですか。今日は、もう少ししたら職員会議があるので、カギを持って行くのは、なるべく早いほうが良いですよ」
そう言った。
そうだった。部活もなく、全員下校の日なんだから。早くしないと。
ほんまに、のんびり泣いてる場合じゃなかった。
「はい! すみません。急ぎます!」
慌てて言うと、先生は、じっと廊下の向こうに目をやりながら、にこりと笑い、
「いや……うん、まあ、そんなに、急がなくても……良いですけどね」
なぜか、急に真逆のことを言い出した。
「???」
首をひねっていると、
「……じゃあ、僕は他の教室を見て回りますから。僕が戻るまで、ゆっくりね」
そう言って、先生は手を振って、隣の教室の方に歩いて行った。
不思議に思いながら、再び椅子に乗ってカギを閉めていると、先生が去ったのとは反対方向から勢いよく足音が近づいてきた。
そして、次に教室の入り口に立ったのは、琉生だった。
「織田さん!」
藤澤 琉生。
彼は、私の推しだ。
そして、クラスメートでもあり、同じ文芸部の部員でもある。
でも、それも今日で――最後だ。
そして、今。
もう来ないと思っていた彼が、教室の入り口に立ち、私の名前を呼んだ。




