爪001 息潜める危機
悪しき魔族は南極よりやってきた。
荒れ狂う海。凍える風。前人未到の幻の大地。
南極の言い伝えは全て、現地の魔族が記した碑文によって伝えられたものである。
その碑文も全て漂着したものばかりだが、長年に渡る漂着物の到来と膨大な数の資料は、人類にある程度確度あるビジョンを与えたに違いない。
曰く、南極とは死の大地であるという。
大地は黒々とした鉄粉に覆われ、空はどす黒く陰り、赤い雷鳴が轟いている。
寒く恐ろしい環境の中、生きていける者は強き魔族のみ。その魔族たちも独自の文化を築いているが、人の文明圏と遠く離れているが故に、南極との貿易や交流はない。
やってくるのは、悪しき魔族のみである。
悪しき魔族とは、人が定めた有害な魔族たちの総称であろう。
意思疎通が不可能であるか、仮に意思疎通を経ても尚人間種への殺意を滾らせる魔族に対して、人は“悪”であると定めたのだ。
その判断を軽挙とは言えないだろう。
人は現代に至るまで幾度も交渉を試みたが、その度に魔族は奇襲を企て、席につくことはなかったのだから。
そこに人間の過ちや遠因はない。
人は悪しき魔族たちの領土を侵さなかったし、自ら率先して攻め入ることもなかった。
争いの発端の全ては、魔族側にあったのだ。
南極より発った魔族軍は絶海を泳ぎ、凍える風を耐え、人間の支配領域へと攻め入った。
あらゆる国が被害を被ったが、最も甚大な被害を受けたのは海を隔てたすぐ向こう側に存在する水の国、そして鉄の国であろう。
数百年以上昔の話であるが、両国においては未だ当時の大戦争の印として、対魔族のための砦や城が多く残っている。
戦闘魔術に長けた水国の分野。剣術を磨いた鉄国の文化。現代にも受け継がれるそれらは、過去の教訓から受け継がれているもので間違いないだろう。
だが、人は世代を重ねることで自然と忘却するものだ。
親の世代となれば昔話。祖父祖母の世代ともなれば言い伝え。口伝は情報を劣化させ、立て看板は朽ち果て、石碑でさえも古びれば歴史の一部として熱を失う。
現代。悪しき魔族の言い伝えはその鮮度を失って久しい。
過去に大きな被害を受けたはずの水の国の民でさえ、かつてその本土を踏みにじった魔族軍の脅威について具体的なイメージを持てていない。
実際、牛歩とは言え科学文化も進み、年月のうちに魔術も洗練された。魔族軍だけでなく、野良の危険な魔族に対する哨戒や警備を絶やさぬことによって、練度や警戒網も強化された。
次が来ても問題はない。来たとしても退けられる。
それが人々の安心なのだろう。
しかし、忘れてはならない。
彼ら魔族軍は、かつてはるばる南極から荒れ狂う海を泳ぎきり、やってきたのである。
悪しき魔族。彼らは耐え忍ぶ。生き延び、必ず牙を剥く。
その一歩目は決して、砂浜や岩場に限ったものではない。
彼らの一部はまだ、生きている。
息を潜め、人間を滅ぼす機会を虎視眈々と窺っている。
今もまだ、必ず、この世界のどこかで。




