霧007 振り切った幻
陽の入る部屋に、二人がいる。
一人はソーニャ=エスペタル。彼女は差し出されたハーブティーを一口飲んだきり、机の上に置いたまま。
もう一人は窓際の席に座る老年の男。彼は穏やかな笑みを浮かべ、時折頷いている。
「……昔は。私もまだ不安定だったので……幻聴も幻覚も色々あって……」
「エクトリアでのこと?」
「はい」
当時の記憶を呼び起こすと、今でも辛い気分になる。それでも随分と良くはなったのだ。
「あの子を。レイチェルを探し続けて、何度も何度も地下水道で呼びかけて……私の声だけが反響してたはずなのに……どうしてでしょうね。そこに、あの子の悲鳴が聞こえたような気がして……」
暗殺者に狙われたリゲル=ゾディアトス導師。その付き人であったレイチェル=エスペタル。
彼女は暗殺者によって狙われ、暗く湿っぽい地下水道の中で消息を絶った。
ソーニャは何日も何日も地下水道での捜索を行ったが遺体の一部すらも見つかっていない。
残ったのは自ら上げた叫び声の残響と、深く刻まれた心の傷。
「……あの子がいなくなってから、光属性術の研究はやめてしまいました。全ての元凶だったザフィケル=アムステムが倒れたと聞いても、意欲はわかなくて……それなのに、あの子の声や姿を追ってしまうんです。ミネオマルタの町中に、そんなものがあるはずもないのに」
「ソーニャさんは色々、大変な思いをしたんだね」
「……早くに、故郷に帰るべきだったんですけどね。中身がなくても、一年前にはハルギンにはあの子の墓ができてたんです。もっと早くにそれを見ていれば、また別だったのかなって。……けど、ミネオマルタに居続けてしまいました。寮での暮らしも、短い学園も、なんていうか……楽で」
「ははは……良いことだよ、楽というのは」
「はい。今ではそう思うようにしています」
苦笑してしまう。今でこそそんな無気力生活もどうかと思うのだが、特異科の緩い講義内容と寮室の貸与は、当時のソーニャにとっては魅力的だったのだ。
そしてそれがほんの少しずつでも、彼女の心の傷を癒やしていったのは間違いない。
「随分、発作も減りました。夢遊病のような症状も……一時期は、私の……親友にあの子の面影を重ねたりなんかして、再発したこともありましたけど。ふとした時に、“ああ、やっぱり彼女はレイチェルじゃないんだな”……って気付いてからは、ほとんどなくなりました」
「良かった」
老人は微笑み、頷いた。
「私の中でも、ようやく区切りがついたんだと思います。妹の死を受け入れて……先に進むべきなんだって」
「立派だよ」
「あはは、ありがとうございます……立派っていうわけじゃないんですけどね。結局何年も特異科にしがみついてるわけですし。……色々な人にも、迷惑をかけましたし」
「自分を責めることはないよ。君はよくやっている」
「はい」
「……うん。ソーニャさんの精神はほぼ落ち着いたと見て良いかもね。霊魂から感じる揺らぎもほとんどない。……少しの切っ掛けで、大分よくなった」
老人はこの診療所でソーニャの精神治療にあたっている一人である。
一時期はソーニャ自身の自覚症状も薄いことから効果的な対応はできなかったが、今では客観的に己の状態を観察できているし、安定しているように見えた。
もちろん人の心に絶対はないが、少なくとも老人は長い経験から、この安定は容易く崩れるものでないという手応えがあった。
「定期通院は、今日までとしようか」
「えっ」
「ソーニャ=エスペタルさん。あなたの心は壁を乗り越え、持ち直したと言って良い」
老人は診断書に最後のサインを書き記すと、それをソーニャに差し出した。
「きっともうしばらく……ひょっとすると今後一生。この診療所に来ることはないかもしれないね」
「……今まで、ありがとうございました」
診断書を受け取り、ソーニャは深々と頭を下げた。
時に反抗し、内心でヤブ扱いしたこともある相手であった。だが冷静に、穏やかな心で見ればその老人は、ただ穏やかにソーニャを見守る一人のちゃんとした、紛れもない医師だったのである。
「なに、あなたはまだ若い。悩むのはまだまだ、これから他にもたくさん出てくるだろう。辛かったこと苦しかったこと、全部忙しさの中で忘れてしまうこともあるだろうさ」
「あはは……将来かぁ……将来……」
「何か、展望でもあるのかな?」
「展望……ってわけじゃないんですけど、うーん……」
ソーニャはカップに残った冷めたハーブティーを飲み干し、苦笑した。
「服屋、料理屋、もしくは実家の手伝い……色々あったんですけどね」
「ふんふん」
「それよりももっと、やりたいことを……やり残していたことがあったので。それに向かって、努力してみるのも良いかなって、最近では思ってます」
「ほう? ……うん、良い顔をするようになった。きっと、悪くない事なんだろうね」
「もちろん! ちょっと大変かもしれないですけど、やってみせますよ? こう見えて私、できる女ですから」
「ははは」
ソーニャ=エスペタル。彼女はこの日ようやく、過去のしがらみを振り払うことができた。
もう鋭敏な予感が彼女の心を惑わすことはないし、幻聴に悩まされることもないだろう。
「お大事に。いや……お達者で」
診療所の扉が閉まり、錆びた古いベルが短く鳴る。
気がつけば外は既に日も落ちかけている。以前はさっと済ませていた通院も、真面目にしていれば長くなる。だが、それも今日までだ。もうソーニャはこの診療所を訪れることはないだろう。
「……あーあ、おなかすいちゃった」
帰路につく人々の声が聞こえる。
街の雑踏。日常の声と音。そこには悲鳴も鳴き声も聞こえず、逃げ隠れする幻影も無い。
「久しぶりに、お菓子買って帰ろっかな」
ソーニャは弾むような足取りで、通りの人混みに紛れていった。




