巾009 筆を取る平日
飛空船ギア・ピスクがミネオマルタの遥か上空を飛び、どこかへ向かっている。
鉄の国か、火の国か。いずれにせよ、そこで大勢の人や積荷を降ろすのだろう。
以前ヒューゴに聞いてみた話では、飛空船は飛竜に墜落させられないように常に何人もの魔道士が乗り合わせているのだそうだ。
また横合いから口を挟んできたクラインによれば、飛空船だけでなく海上を行き交う船にも魔道士が大勢警備に当たっているらしい。こっちも海中の魔族を警戒してのものだ。
空も海も護衛だらけ。当然、地上を走るコビンの馬車だって似たようなもんだろう。
切符代を払えば目的地に着けるなんて便利な世の中の仕組みは、大勢の人が陰で守っているからこそ成り立っている。
知らなかったわけではないけど、改めて意識してみるとそれは、本当に大変で、凄いことなんだ。
「えー! ロッカ、なんで写真撮らなかったの! お店でちょっと払えば記念写真撮ってもらえるって言ってたじゃない!」
「そ、そうだっけ?」
「完成したロッカを見たかったのに!」
「今の私は未完成なの?」
後夜祭の翌日。学園でソーニャに叱られてしまった。
なんでも私のドレス姿を見てないからってことらしい。
前にドレスを選んだ時に一緒に見たじゃんって思ったけど、その時は化粧も装飾品も少なかったからまだまだなのだとか。
「あたしも見たかったじぇ、ロッカのお姫様みたいな格好」
ボウマはけらけら笑っている。私とドレスが結びつかないんだろう。私もそう思ってたけど、着てしまえば案外服は服って感じだったよ。着てる時だけは。
「ははは、僕も見たかったな。クラインは見たんだろう? どうだった?」
「……まぁ、悪くないドレスだった」
「やめてくれよ、なんか恥ずかしい」
「にひぇひぇ」
着慣れてないもので色々言われるのはこそばゆい。
私は窓際まで逃げて、そこで黄昏ていたライカンと一緒に外を見た。
「何見てるの」
『ああ、いや。雲をな』
「ギア・ピスクの雲か」
『うむ』
窓から空を見上げれば、まだ少しだけ細長い雲が残っている。
細く伸ばした綿のような不安定な雲の糸。多分あともう数分もすれば綺麗になくなってしまうんだろう。
『俺はまだあれに乗ったことがなくてな』
「私もないなぁ。海を走る船だって水の国に来る時に初めて乗ったし」
『おお、じゃあ仲間だな。……若い頃は武者修行と称して漫遊の旅をしていたのだが、あれは金もないし生傷ばかりの慌ただしい旅だった。次はゆっくり、世界を楽しむ旅行をしてみたいものだよ』
「旅ねぇ」
ライカンはどうやら旅に関心があるようだ。
私はというと、まぁないわけじゃないけど、ソーニャの故郷をちょっと見てみたいくらいかな?
五大国をぐるりと一回りは、あまり考えたくないなぁ。
「旅の話かい? 風の国はおすすめしないよ。危ないからね」
「ヒューゴお前すごい爽やかに自分の生まれ故郷を遠ざけるな……」
「事実だからなぁ……首都の高い宿ですらなかなか信用できたもんじゃないよ。あ、でもそういえば学園の旅行があるんだっけ。それはもうどこか決まってるんだったかな……?」
「あ、細い雲消えた」
『本当だ』
私はまだ、旅行を考えるような歳でも状況でもない。
だって今の私は学徒なんだ。学徒はしっかり勉強して、頭良くなって、力をつけなきゃいけない。
世の中には色々な仕事があって、護衛の魔道士なんかは何人いても足りないほど需要があるのだという。
私は護衛がしたいってわけじゃないけど、多分私が魔術を学ぶことは、将来の幅や可能性を広げてくれるのだろう。
私にしかできない人助けをしたい。
そのために魔術を勉強する。
そう考えるようになってから少しだけ、私の中で理学の勉強に向き合う姿勢が変わったような気がした。
「はーい、皆さん着席してくださーい。講義を始めますよー」
「うひゃー始まったぁ」
『おはようございます! マコ先生!』
部屋にマコ導師がやってきた。講義の始まりだ。
「はい、おはようございます! 今日からは平常通りの講義ということですので……そろそろ皆さんが忘れかけてる数学の方をやっていこうと思いまーす!」
「嘘だろ……」
勉強に向き合う姿勢が変わった気がしたけど、気のせいかもしれない。
数字はやっぱり苦手だ……。
「諦めてペンを取れ、ロッカ」
「……いや、私は諦めないぞ!」
「は」
確かに数学は苦手だけど、やると決めたんだ。
もっと理学を勉強して、仕事に生かすんだ。数学だって絶対に役立つものなんだから。
「ああ、そういう……」
「クライン、アンタも本読んでないで真面目に数学受けろよ!」
「オレはこの講義のレベルであれば一瞬で解ける。水棲魔族分布の自主学習を差し置いてまでわざわざ受ける必要がない。君とは違ってな」
「言ったなてめぇ、当てられたら一瞬で解いてみろよ。先生! クラインが一瞬で解けるって言ってます!」
「し、静かにしてくださいね……?」
そのあとクラインはしっかり指されたけど、当然のように一瞬で問題を解いていた。なんだこいつ。
でも私は見てたから知っているんだぞ。
アンタが本のページをめくるのをやめて、しばらくマコ導師の講義にじっと耳をすませていたのをな。ズルみたいなもんじゃねえのかそれは。
「……さっきから、ジロジロ見るな」
「はん」
「鬱陶しい」
「ならもっと見てやる」
「勉強しろ」
「あっ、そうだった。やらなくちゃ」
「……はぁ」
まだまだ昼休みまでは時間がある。
鐘が鳴る頃にはきっと、私の頭はクラクラしているだろうな。
久しぶりの特異科講義。完全に戻ってきた日常。
私は難しい問題に取り組みながら、時々逃げるように昼飯のことを考えている。
いつも通りの日常だ。
本編第二部 おわり




