鏡001 踏み出す破滅
青い、青い空。
ぼくは空を見上げていた。
何分も、何時間も、あるいは何日も。
なのにお腹は減らない。喉も渇かない。息をする必要さえなかった。
必要なのは、自分の口元を動かすことだけ。自分がこれまで積み上げてきた知識をぼんやりと思い出し、無意識に呟く。それだけがぼくにとって唯一の安らげることであり、必要とされていることだった。
空を見上げ、遠い昔の日々を思い出しつつ……役目のために、つぶやき続ける。
……でも、あれは空ではない。
青いのは“そうできているから”。ただ一色なだけの、淡白な天井。それが真実だ。
あそこをギア・ピスクが飛ぶことはない。ぼくの大切だった人たちが同じ空を見上げることだってない。
けど、ぼくは役目を与えられた。役目のために、ここを守らなければいけないんだ。
背後には神殿。荘厳な、連綿と受け継がれてきた知の神殿がそこに聳えている。
ぼくは、ベロウズ=ビスマロイドはこの神殿の守り人となるため、心の底から恭順し、魂を捧げなければならないのだ。
学んだことを振り返ってみれば、その理論はなんとなくわかる。
心の中で受け入れること。無抵抗であること。それこそが、影魔術の性質の一つである“契約”にとって重要だから。
だからぼくは長い時間をかけて“聖櫃”と心を通わせなければならないし、魂を捧げきらなければいけない。
そうすることで初めて、ぼくの魂は霊廟の石碑と一体化できる。ぼくが生きた証を残せる。
ぼくの霊魂によって聖櫃は拡大し、より後の時代にまで永らえる。
役立たずで半端者なぼくでも、聖櫃のための一助となれるのだ。
ああ、だから……だから受け入れないと。
心の底から、受け入れないと、ここで魂を捧げることすらできないのに……。
……どうしてぼくは、青い空を諦めきれないんだろう……。
「……!」
青い空に亀裂が走った。
ギア・ピスクの白い軌跡ではない。黒くひび割れた、岩に走るような空の亀裂だった。
そして青い空はまだらに裂けて、
ゆっくりと剥落し、落ちてゆく……。
空の破片は落下する合間にも薄くなって消滅した。残されたのは、偽りの空が剥がれ落ちたことで露出した、黒い空。
闇の天井。この世界の真実の姿。
……聖堂? 役目? 不滅の栄光?
……そんなものはない。あれが答えだ。
わかっている。ぼくはこの空間に逃げているだけ。
どれだけ頑張っても身につかない実力から目を背けて、怪しい力に手を伸ばした。それが今ここにいることの簡単な理由だ。
自信が欲しかった。
確かにぼくは強くなったかもしれない。力は手に入ったから。
天才的なあの子、ロッカ=ウィルコークスだって、試合会場で倒してみせた。だから強くはなったはず。
けど、その強さはぼくに何の自信も与えてくれなかった。
その強さはぼくの力ではなくて、その強さで叶えられるかもしれないぼくの夢は、想像してみると、ひどく他人事のようで、色褪せて見えてしまったんだ。
だからぼくはここにいる。ここに逃げた。
師匠に招かれるがままに心を委ね、誰も来ないような聖櫃の奥深くに閉じこもった。
そんなことをしても、何の解決にもならないのに。
……結局、僕はここでも中途半端だったみたいだけど。
気術は手慰み。魔術には向いていない。勉強も必死にやってようやく端っこに食い下がっているだけ。いよいよどん詰まりにまで追い詰められても、この身を捧げることにも迷っている。
……自分が嫌になる。どこまでも。
「若者、よ」
「……」
ぼくの背後、神殿の前に師匠が現れた。
彼は決して人の正面に現れない。彼は必ず、契約者の背後に現れる。
「……!」
ぼくが師匠へ振り向くと、その姿に思わず息を呑んでしまった。
「若者、よ。未来ある、若者よ」
スキラー・ブライオン。比類なき強さと技を持っているはずの彼が。
底知れない力を持ち、見通せないほどの深い叡智を湛える彼の体が、大きく欠けていた。
そればかりか、彼の持つ豪奢なロッドさえも。
「し、師匠。それはっ……その姿は、一体……」
痛々しい。あるのは右腕と頭だけ。それ以外は煙となって辛うじて繋がっているような、そんな姿。
そもそもそれは人間にあるまじき姿だったけれど、小石碑を通じて彼を受け入れた今のぼくには、彼の身を案じることしかできなかった。
「神殿に、霊廟に、危難が来たる。守り人の雛らは聖櫃より消失し、我が依代は大きく崩れた。異物が迫っている。守らねばならぬ。備えよ。若者よ。叡智を守るのだ」
傷つき、ぼろぼろになった師匠。きっと彼がこうなってしまったせいで、青空が剥がれ落ちてしまったのだろう。
彼の魂は聖櫃そのもの。彼が失われてしまえば、その時、ぼくは……。
「師匠……」
守らなければならない。守り人として。
それが、ぼくに残された唯一の存在理由だ。
師匠はぼくの存在を求めている。ぼくが必要とされているのだ。
……でも、ぼくの中にある理性的な部分がおずおずと囁いている。
“けど、結局利用されているだけじゃないか”と。
「異物が来た」
師匠が空を仰ぎ、無感情に呟いた。
それに合わせて、僕も空を見上げた。
「ああ……」
そして、それを見た時、どうしてかぼくは納得したんだ。
どうして師匠がこんなにも傷ついているのか。
聖櫃の人たちが減ったのは何故なのか。
何があったのかは知らない。けど、どうせきみらがやったんだろう?
わかるよ。きみたちは、ぼくの居ない場所でいつだって輝いていたのを知ってるから。
「ロッカ=ウィルコークス。クライン=ユノボイド……」
空から静かに舞い降りる二人が、ぼくたちの姿をじっと見据えている。
ぼくはそれを見てないけれど。きっとその目は、ドラゴンでも見るような目なんだろう。
わかっている。なんとなく、師匠が真っ当な存在でないだろうことは。
ぼくの力がインチキで、その卑怯さは“悪役”じみているということも。
「……きみたちじゃなければ、こんな気分にもならなかったのかもね」
聖櫃なんてどうでもよかった。守り人も。役目も。栄光も。
けど……だけど、きみたちがやって来た。ぼくを打ち破るために、よりにもよってきみたちが。
これは嫉妬だよ。醜いだろう。
ひどい話だよね、きみ達には関係のないわがままだ。
ロッカ。インチキの力に負けたきみにとっては、ぼくは加害者ですらあるだろう。
でも、やだよ。
ぼくは、きみ達にだけは、やられたくない。
「若者よ」
「大丈夫です」
ぼくは今まで握っていたかどうかも定かでなかったスパナロッドを握りしめ、キャスケット帽を深く被り直し、一歩前に出た。
「やっつけてきます」
正しいかどうかなんて関係がなかった。
ここで立ち向かわなきゃ、ぼくは落伍者で、偽物で、ただ何もないだけの悪者になってしまう。
……そんなのは、絶対に嫌だったから。




