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打ち砕くロッカ   作者: ジェームズ・リッチマン
第八章 聳える氷壁
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櫃006 雪崩れ込む好奇心

 噂の回りは、火よりも早い。

 デムハムドではそんな言葉をよく耳にしたし、実感もしたものだけど、それはここ、ミネオマルタでも同じようである。


「ねぇ、あの人……」

「地下水道……」

「目を合わせたら……」

「闇市に……」


 学園に近づくにつれて若者の姿が増えてくると、おそらくは私に対してであろう小声話が、そこら中から聞こえてきた。

 昨日も昨日でそんな声は聞こえていたのだが、今朝はより一層といった具合である。

 皆が声を潜めて話すものだから、話す詳しい内容ですらも聞こえてしまいそうだ。

 かといって、あることないことが混じった噂を、好んで聞きたくはない。

 私が陰で何と言われようとも、やましいことは何一つないのだ。とにかく無視に限る。


「ソーニャ=エスペタル……」

「やっぱり、何か犯罪に……」


 無視したいのに。こんな罵詈雑言、耳に入れたくないってのに。

 畜生、どいつもこいつも、私だけならまだ許せたが、ソーニャのことまで好き勝手に言いやがる。


『よう、ロッカ。おはよう』

「ん、ライカンか……おはよう」


 今朝食べたばかりの燕麦が腹の中で良い感じの粥になりかけた頃、背後から現れたライカンが、大きな影で私を覆った。

 一際目立つ彼の登場と共に周囲の話し声が途絶えると、同時に私の怒りもいくらか冷めてゆく。


 ……昨日、ナタリーに言われたばっかじゃないか。

 予期できたことだ。それを怒ったって、しょうがないだろう。


『せっかくだ、講義室まで俺と一緒に行くか』

「うん……」

『む、どうしたロッカ。難しい顔をして』

「いや、なんか、その言い方が父さんみたいだなって」

『む、むむむ……』


 道すがら、ライカンに出会えたのは幸運だった。

 もしも一人のままだったら、講義室にたどり着くまでに誰かに噛み付いて、トラブルの一つでも起こしていたかもしれない。


『ロッカ、寂しければ父さんと呼んでも良いぞ』

「呼ばねーよ」

『ただ、マコ先生の前ではやめてくれな』

「呼ばねーっつってんだろ」




 講義室に入った私は、すぐにソーニャの姿を探した。

 彼女は昨日のように学園に来ていない……ということはなく、いつものように突っ伏して寝ているようだ。

 いつもの時間に、いつもの場所にソーニャがいる。

 当たり前の事なのに、私はそのことに、大きく安堵したのだった。


 けどその斜め後ろでは珍しく、クラインまでもが突っ伏して眠っている。

 そっちはいつもと違う非日常だけど、だからといって私が不安になるとは限らない。

 むしろ昨日のように変な作業をしていない事に清々した心持ちで、私は自席に腰を下ろすのであった。




 一限目のマコ導師による講義は、数学である。またしても、数学だ。

 ただでさえ静かな講義室は、小難しい内容によって眠気を誘われているのか、いつも以上に意識を手放す学徒の姿が多いように伺える。

 いつもの講義なら、たまにマコ導師が石灰棒で黒板を叩く音に目を覚ます学徒もいるのだが、今日に限っては皆、全てを諦めきっているかのような無反応だ。

 眠っている人が起きないので、当然指名される標的は絞られるし、時に重複する。


「ではここをー、ウィルコークスさん!」

「うわー」


 こういう非日常も、できればそろそろ終わって欲しいものである。




「あら、ロッカ、おはよおー」

「……おー、ソーニャ」

「ん? なんだか具合悪そうね」

「そうかな……」


 一限が終わると、ようやくソーニャは頭を上げた。

 眠そうな目は涙を浮かべ、大きなあくびはちょっとイラッとするくらい和やかだ。

 私はソーニャの大丈夫そうな姿に、日頃の指名の多さが前の席の彼女のせいなんじゃないかと思いながらも、ほっとする。


 ソーニャも学園に来る時には、色々な噂を聞いていただろうに。

 この様子だと、気にしている風でもないのだろう。いつも通りマイペースそうで、何よりだ。


 本人が気にしていなければ、私がどうこうする必要はない。

 むしろ変な事をして火に油を注ぐくらいなら、私は静かに黙っていた方がいいだろう。




「すみませぇん、ユノボイド君はいらっしゃいますかね……?」


 講義で燃えそうになった頭を覚ます、休み時間の最中、入り口から不健康そうな金髪男が、講義室に入ってきた。

 彼とは何度か合ったことがある。

 たしかクラインと話していた、ルゲという学徒だろう。


 彼は私の隣に、未だ起き上がらないままのクラインの姿を認めると、こちらの方に歩いてきた。


「あららー、眠ってらっしゃる……ユノボイド君、お疲れのようですね……」

「クラインに何か用? 伝言なら、聞くけど」

「ん、おおっと、ロッカ=ウィルコークスさん。いえいえ、ワテクシは特別ユノボイド君に用件、というわけではなくてですね……むむっ?」


 ルゲが青い目を私に向けて、手をポンと叩いた。


「そういえば、ウィルコークスさんも地下水道事件に関わってらっしゃった?」

「え、あ、うん、そうだけど……」

「おお! では、ではでは! レトケンオルムが地下水道に出現したというのは、事実なのですね!?」


 充血した目を興奮に剥き、ルゲは半分机に身を乗り出すようにして私に迫った。

 すごい気迫である。


「お、おお……そうだよ、まぁ、うん……」

「やはり! では、レトケンオルムと実際に闘った!?」

「う、うん。闘ったよ、討伐、とまではいかなかったけど……」

「おおおお!」


 うるさっ、なんだこの男。

 一見大人しそうなルゲの大きな声に、理由の読めない私の頬は引きつった。


「皆さぁん! ウィルコークスさんがレトケンオルムを倒したそうですよぉー!」

「え、皆さんって……」


 ルゲが入り口に迎えって声をかけたその時、戸が勢い良く開いて、そこから十人近い男達が講義室に雪崩れ込んできた。

 どいつもこいつも知的な顔の中に目だけを輝かせて、私の姿を標的に捉えていた。


 一瞬嫌な予感がして、その予感はすぐに現実のものとなった。


「ちょっとその話を詳しくきかせてください!」

「魔族科です! レトケンオルムの姿についてお伺いしたいことが!」

「肋骨は! 肋骨は見ましたか!?」

「う、うわー!」


 男たちは獣のように近づいて私の席を取り囲むと、未だ講義の熱に苛まれている私の頭に精神攻撃を加えてきた。

 それまで比較的穏やかだった講義室が、朝市か祭りのような騒ぎに包まれる。

 中心は、私。


「目は!? 埋没していましたか!?」

「腕はどのように動いていたのかについてちょっと詳しく!」

「や、やめてくれー!」


 質問攻めのこの騒動は、マコ導師が再び講義室にやってくるまでずっと続けられた。

 その間、無関係ではないはずのヒューゴやライカンは、いつもはそんなところにいないくせに、講義室の隅でひっそりと、こちらの様子を微笑ましそうに眺めていた。


 あいつらめ。それでも友達か。




「つ、疲れた……」


 鐘の音に救われた私の半開きの口から、ついに本音が吹きこぼれた。

 数学、質問責め、数学。

 昼前にとんでもないサンドを平らげてしまった今の私は、もはや何の気力もない。

 前はもう少し忍耐強かった気がするけど、最近は鈍ってしまったのか、何につけても集中力が長続きしていないように思う。

 最近のマコ導師の講義内容が難しくなっているせいだと思いたいけれど……。


「ロッカ、今日は大変そうね」

「あー……数学と魔族が嫌いになりそうだよ」


 全方向から魔族の質問を浴びせかけてくる男たちの爛々とした目を思い出して、げんなりする。

 同じ言葉を使っているはずの生き物なのに、彼らがまくし立てる言葉は謎の塊だ。

 矢継ぎ早に放たれる難しい言葉の数々は、頑張って処理しようとする健気な私の頭をたやすくパンクさせてしまった。


 元々ただの鉱夫だった私が、あんな化け物の詳しい生態なんか知るわけないだろうに……。

 ああいう話こそ、物知りなクラインが応対するべきだったのだ。


「なんだ、もう昼か」


 クラインは、たった今ようやく起床したばかりである。


「クライン、ルゲって人が色々と聞きたそうだったよ」

「ああ、ルゲか。どうせレトケンオルムの事だろう。奴は、ああいう高ランクの魔族には目がないからな」

「他にも魔族科の人が沢山押し寄せてきて、大変だったんだぞ。沢山質問されたけど、答えきれねーよ」

「無視すればいいものを」

「簡単に言ってくれるよなぁ……」


 一度話を聞いてやったんだ、そっから無視するなんて、とてもじゃないけどできるはずもない。

 クラインにとってどうかは知らんけどさ。


「けど、今日は本当に良く色々なことを聞かれるよね。僕も、今朝は学園に来るまでに三回くらい呼び止められて大変だったよ」


 会話に混ざってきたのは、私が質問攻めにされている間、ずっと微笑みながら傍観を決め込んでいたヒューゴである。

 私が机に頬をつけたまま恨めしさを込めて睨んでやると、彼は“ははは”と無意味な朗らかさで受け流した。

 本当にこいつ、飄々としてやがるな。憎めない所が憎ったらしい。


「ヒューゴはどういう事聞かれたの」

「うん、顔見知りの露店の人にね、“どうだったんだ”とか、“活躍したんだって?”とか……なんだか、英雄か何かと勘違いされてるみたいだったよ」

「英雄か、良いじゃん」

「いやー、僕は人の噂をするのは好きだけど、噂されるのは苦手だなぁ」


 今なんかサラッと、ものすごく自己中心的な事を言いやがったよ、こいつ。


 ……まぁ、ある意味でそれは真理かもしれないな。

 人の噂をするのが嫌いな人っていうのは、なかなかいるものではない。

 逆に自分が噂をされるのは、それが良いことであれ悪いことであれ、どこかこそばゆかったり、不安になったりするものである。

 今回の事件は、もちろん私達は悪いことをしてないし、むしろミネオマルタのために大活躍をしたと言ってもいいくらいの事をしたけれど、その反面では、説明しづらいソーニャの件もある。

 どうしてもソーニャの話が頭の片隅に引っかかっているせいで、人の噂の全てを快く聞いていられないのが、どことなく嫌な感じだ。


 ……それでも昨日、ナタリーは、自分で抑えられるところは抑えると言っていた。

 実際に彼女の影響力がどれほどあるのかは未知数だけど、見えない所で力が及んでいるのだと、安心しておきたいところだ。

 これから、何の事情も知らない奴が色々言ってきたりする事もあるかもしれないけど、ソーニャの味方が学園に居てくれるというのは、とても嬉しいことである。

 それがたとえ、ナタリーであっても。


「あのーすみません」


 なんてことを考えている間に、また講義室の入り口から見慣れない人が入ってきた。

 一日の間にこうも珍しい来客が続けば、何事かは容易に想像がつくものである。


「あっ」


 また私達に話を聞きに来たんだろう、と思ってため息混じりに眺めていたら、私の呼吸は驚きのあまりに詰まってしまった。


「ああ、ロッカさん。どうも」


 部屋に入ってきたのは、以前学園の庭園でゴーレムの試運転を行っていた魔具科の学徒、イツェンさんだった。

 講義室を見回した彼は、部屋の隅に私とクラインの姿を認めると、こちらにつかつかと歩いてくる。


 私は以前に彼の作ったゴーレムを壊してしまったこともあり、どんな態度を取っていいものか、全くわからなかった。

 とりあえず失礼だけはないように、椅子の上で背筋を伸ばし、膝の上に手を置いておく。

 あと顎も引く。念の為に歯も食いしばった。


「そしてクライン君、こんにちは」

「ああ、イツェン」

「……ええと、ロッカさん、どうかされましたか? 顔色が……」

「落ちてる物でも拾い食いしたんだろう、気にすることはない」

「おい、なんだとテメエ」

「はは、大丈夫そうですね、何より」


 イツェンさんはそれまでのギラギラした目の男たちとは違い、知的で理性的なふうに、控えめに微笑んだ。

 私みたいな若輩者にも丁寧な言葉を使う辺り、イツェンさんは育ちが良いのかもしれない。いや、もちろんこの学園にいる人のほとんどは、

私よりもずっと育ちが良いんだろうけど。


「もしかしたら、既に色々な人から聞かれていることかもしれないのですが……」

「あ、イツェンさんも、地下水道の話を……」

「はい。特異科の皆さんが、守護像サードニクスと闘ったと聞き及んだので、どうしても気になってしまいましてね」

「ああ、サードニクス……あの大きなゴーレムですか」


 巨大な両生類の魔族、レトケンオルムについて訊ねる人は多かったけど、もう一方の強敵、サードニクスについて訊かれたのはこれが初めてだった。

 しかし、その興味もやはり、魔具科だからなのだろう。魔族科の人といい、皆知的探究心が旺盛で感心してしまう。


 ……けど誰か一人くらい、地下で遭遇した謎の魔導士について訊ねてきたって良いと思うんだけどな……。

 事件そのものには興味がないって、どうなんだ。


「イツェンさん、こんにちは。僕も見ましたよ、サードニクス」

「ああ、あなたは確か……ヒューゴさんでしたね、どうもこんにちは。サードニクスはどうでしたか? 実物は、私も見たことがないもので……」


 話しやすい相手だからか、今度はヒューゴも積極的に話に参加している。

 それとも、彼もゴーレムのことについては、多少の関心があるのかもしれない。


「サードニクスは、大きいものでしたよ。なにせ、地下水道の広い通路をぴったり塞いでしまう程でしたから」

「おお……」

「守護像サードニクスというのは、古代に多く造られていたゴーレムらしいですね。難攻不落の球体門番ゴーレム、いや、苦戦を強いられましたよ」

「おー、苦戦しましたか」


 イツェンさんは悪気は無いんだろうけど、私達の苦戦をどこか喜んでいるようだった。

 いや、結構洒落にならないくらい追い込まれてたんだけどね、イツェンさんよ。


「イツェン。苦戦といえば、その倒したサードニクスについてなんだが」

「おお、クラインさん。まさか、サードニクスについて何か発見が?」

「発見というわけではないが……オレたちが討伐した事になっているから、もしかしたら、サードニクスの反駁石を調査中の杖士隊から譲ってもらえるかもしれない、という話を伝えておきたくてな」

「サードニクスの反駁石を!?」


 クラインの言葉に、イツェンさんは火がついたように大きな声をあげた。

 ……だめだ、この人もなんだかんだで、熱が入るとうるさくなるタイプの人らしい。


「前にそこの馬鹿がドライア(ゴーレム)の反駁石を破壊しただろう。もしも譲ってもらえるとしたら、それをイツェンに譲ろうかと思ってな」

「さ、サードニクスの反駁石を、私にですか!」

「サイズは、今のドライアに積めるものではないかもしれないが……」

「いえいえ、構いません! サードニクスのような巨大な反駁石さえあれば、ドライアよりも高性能で大型のゴーレムを製作できるかもしれませんからね! 是非、いただけるのであれば!」


 イツェンさんは夢見心地といった具合で、嬉しそうに笑っていた。

 サードニクスの反駁石とやらの価値は、どうやら私が破壊したものよりもずっと価値が高い物のようだけど、彼がそこまで喜ぶくらいの物なのであれば、私としては喜んで譲ってあげたいと思う。


「ただ、杖士隊が頷けばの話だからな。期待しすぎないようにしてくれ」

「いえいえ、期待させていただきますよ! 特異科のみなさん、ありがとうございます!」


 イツェンさんは講義室中の人に向かって、何度も頭を下げた。

 地下水道に行ってもいない学徒にまで感謝している姿を見るに、よほど舞い上がっているのだろう。


「あ、あの、イツェンさん」

「ん? あ、はい、なんでしょうか、ロッカさん」


 謝るのなら、今しかない。


「あの、ゴーレ……ドライアの事、本当にすいませんでした」

「いや、良いんだよ、ロッカさん。むしろ、次はロッカさんに負けないくらいの強いゴーレムを作ってみせるからね」

「え? あ、はい」


 私はこの時、とりあえずイツェンさんに許してもらえた事に安堵して、彼の言った言葉の意味を、深く考えることはなかった。




 ゴーレム作りの意欲を刺激されたイツェンさんは、しばらくクラインやヒューゴと一緒に専門的な分野について語らっていたが、そのうちに居ても立ってもいられなくなったのか、私達に再度の感謝を述べると、興奮した様子で講義室を後にした。

 そして帰り際にも、また“ありがとう”と感謝された。

 お礼なら、いくらしつこく言われても悪い気にはならないものである。


「あー」

「? なに、どうしたんだい、ロッカ」


 けど一通り状況に流されきってから、私はイツェンさんにメルゲコの石鹸をねだるのを忘れてしまった事に気が付いた。

 袖を顔に寄せて香りを確かめ、自分の感情を値踏みしながら、少し考え込む。


「……いや、なんでもない」

「そう? なら良いんだけど」


 今のイツェンさんの勢いなら、石鹸くらい簡単にもらえそうな気がするけども……機会は、後々にもあるはずだ。

 許してもらってすぐに物を要求するのも、ちょっと不躾だしね。

 またいつか、近いうちに頼んでみるとしよう。


 大丈夫、私はまだ耐えられる……。




『ふむ……よし、皆。俺から提案がある』


 来客も途絶え、講義室内に残る学徒も私達だけになった時、ライカンが思い切ったように膝を叩いた。

 無駄に重苦しい切り出し方に、私達は他愛ない話を打ち切って、彼に注目する。


「なんだーライカン、飯の話かぁ?」

『いかにも』

「おー!」


 ライカンの飯。つまり、みんなで一緒に食べる豪華な晩飯の事だ。

 ここしばらく期を逃し続けていた提案だが、ついにその時がやってきたというわけである。

 胃袋に正直な私達はライカンの近くに集まって、話し合いの体勢を整え始めた。


「ライカンの作る料理、ねえ。失礼だけど、なんだか想像できないわね」


 ボウマやヒューゴはもちろん、今回はソーニャも一緒だ。

 うとうと頭を揺らしたまま講義室に残っていたので、自然と参加することになっている。皆は何も文句は言わないし、言ったとしても私が言えなくさせるので、何も問題はない。


「ん、クラインは来ないのかい?」


 全員集まったかのように思われたが、重要な人物が一人、欠けていたようである。


「おーい、クライン?」


 ヒューゴは遠くで一人座ったまま本をめくるクラインに声をかけるが、彼は本に目を落としたまま、動こうとしない。

 ただひらひらと片手間。


「オレは遠慮する。今は忙しいんだ」

「おいおい。地下水道から生還できたお祝いなんだからさ、クラインがいなくちゃ始まらないでしょ」


 今回の集まりの趣旨は、地下水道の仕事で得た大金を使って、パーっとやろうというものである。

 それには当然、貰ったお金並みに味わった苦労や憂さを晴らそうという理由がある。ここで飲まずして、いつ飲むというのか。

 金の使い道について語らい、美味い飯に舌鼓を打ち、お互いを労う。


 地下水道でゴーレムにトドメを刺したのは、クラインだ。

 そういった話もするのに、彼がいないんじゃあちょっと決まりが悪いだろう。


「今は光属性術の講義に集中したいんだ。君達は気兼ねなく、動物由来の食事を楽しむが良いだろう」

「動物由来……って、まぁ、忙しいなら仕方ないか」

「なんでー、クラインこねーのかよう」

「しょうがないよ、本当に時間が無さそうだからね」


 光属性術の講義。

 リゲル導師が開いている、天才秀才達を対象とした特別な理学講義だ。

 私は初日のお試し講義の最初の方で諦めたクチだから、本講義がどれほど難解なのかはわからない。

 ただ、クラインがこの所ずっとそれだけに執着し続けているところを見るに、それだけ気の抜けないものなのだろう。


「じゃあ、今度誘った時には来いよな」

「今度?」

「ああ、そん時は息抜きがてらに、参加しときなよ」

「別にオレ」

「いいから。酒も入らないんだから、いいでしょ」


 クラインは付き合いが悪い。

 多少強引にでもきっかけを作って誘ってやらなければ、なかなか来ないようなタイプだ。

 彼にも都合はあるだろうけど、友達として飯のひとつくらいは来てもらわないと。


「……」


 クラインは眼鏡のレンズを指でなぞりながら、少し考えた後に、小さく頷いた。


「まぁ、いつかな」

「よし」


 約束は取り付けた。

 その前向きな返事、ちゃんと聞いたからな、クライン。




 と、言うわけでクラインは不在だ。

 光属性術の講義。結構である。ただし、次回にはなんとか参加してもらう。

 そういうことで、今回はちょっとだけいつもと違った五人が集まった。

 クラインはリゲル導師の講義に赴いたので、代わりにソーニャが入った形である。

 確かにクラインがいないと、少し寂しいところはあるのだが、今回の食事において、それを打ち消すくらいの良いことも、あるにはある。


『クラインがいないということは、遠慮なく肉を入れられるということだな』


 そういうことだ。

 クラインは肉を食べない……というか大嫌いらしく、自分の皿の中に少しでも肉片が入っていると、かなり機嫌を悪くしてしまう。

 なので、彼がいる場合にはそういった事故を未然にある程度防ぐために、料理に使う肉は必要最小限に留めていた。


「おっしゃークラインいないから肉食べ放題だじぇ!」


 そういうことだった。

 クラインの不在は一人欠けた状態であると同時に、料理が私達の多数の好みにより近づくということでもあるのだ。


「クラインには悪いけど、せっかくの機会だ。今日は肉を多めにっていうのも有りかもね」

『うむ、そのつもりだ。異論はあるか?』

「ないじぇ!」

「私も無いけど、ソーニャは?」

「え? うん、私も別に。そんなに沢山は食べないけど、嫌いじゃないし」


 よし、問題ない。満場一致と見て良いだろう。

 肉だ肉。肉をよこせ、肉。


『市場で材料を買って、じっくり下ごしらえして、そうだな……夕時ちょっと前くらいには支度も整うだろうか』

「おっとライカン待ってくれ。先にどんな料理にするかが重要だろ?」

『おお、そうだったな』


 これまで食べたものは、ライカンらしい男の料理と呼ぶに相応しい鍋物が多かった。

 一見すると雑切りにした材料をぶち込んで、土色の調味料を加えただけの料理に見えなくもないのだが、味付けや調理が良かったのか、見た目より数段上の美味しさはある。

 どんなものが出てくるにせよ、今までの信頼は厚い。

 だからライカンの腕を疑うわけではないが、どうも彼の意気込みからは“満を持してのの新作”というような気配が漂っているので、できればあらかじめ、内容だけは聞いておきたい所だ。


『今回は、フライをやるつもりだ』

「フライ」

「フライか」

「フライ」

「フライ……」


 みんな“ふむ”といった風に頷いている。


 うん。

 フライ? ってのは、つまり、何だ。


 どういうことだライカン、説明しろ。




 フライ。

 つまりそれは、油で揚げたもの、ということらしい。


 小洒落た言い方をしやがる。

 要するに、肉やナッツを揚げたりした、脂っこい料理ってわけだ。

 けど私もコビンの腿肉を揚げた奴は好物だし、悪くない選択だと思う。


 しかしライカンが言うには、フライは肉やナッツのような酒のつまみだけじゃないらしく、魚の骨でも野菜の葉っぱでも、何だってフライになるとのこと。

 野菜に油がついてるのって、どうなのよ、それ。

 とは思いつつも、ライカンはやる気らしいし、任せてみるしかないんだけど。


 ライカンは調理器具の準備と、それに必要な様々な物を買い足すために忙しいらしいので、材料の買い出しはソーニャを除く私達に任された。

 ソーニャはライカンの料理の腕前に疑問が残るのか、彼の買い物をしっかり見ておくとの事だ。要は、監視である。

 ライカンに限って、とんでもない間違いを起こすとも思えないが……。




 そんなわけで、肉と野菜とその他何でもいいから大量に色々な物を買って来いというライカンの大雑把すぎる指示を受け、私たちは市場に躍り出たのであった。


「まずは肉だよね」

「肉だなぁ」


 私とボウマは一言目に意気投合した。

 対して残ったヒューゴは、野菜みたいな顔をしている。


「まぁ、肉は良いんだけどさ。けど、もうしばらく買い歩くじゃないか」

「あ」


 そうだった。

 干し肉であれば長時間の持ち運びに問題は無いが、生肉となると、調理までに腐る場合もある。

 生肉が市場で売られる際には、保存用の香辛料が混ぜられた水に浸されているのである程度大丈夫だけど、そこから出すと、途端に劣化が始まってしまう。

 川で晒すには人目が多くてちょっと無防備だし、氷と一緒に持ち運んでも、長くは持たない。

 最初に肉を買うのは、あまり良い判断ではないか。


「一応、有料で氷冷保管庫っていうのがあるにはあるよ。食材を保管しておける所なんだけどさ」

「……高そう」

「高いねぇ……通常の冷蔵庫だと、一日の鍵の貸し出しが、確か二百YENだったかな」

「無理無理、論外だそんなの」


 一日物入れるだけで二百YEN取るとか、ふざけるな。ぼったくりじゃねえか。


「くっそー……仕方ない、肉は後回しにしよう。まずは野菜とかそこらへんを買い揃えようか」

「えぇー、やさいぃ?」

「ボウマ、野菜は大事だぞ。好き嫌いするんじゃない」

「うげへぇー」


 夢のない始まりだけど、まぁ、野菜も立派な食材の一つだ。

 それにライカンは、サラダ用にもするので、沢山あればあるほど良いと言っていた。

 手元には大量の金がある。せっかくだし、片手じゃ持てないくらい、ギッシリ買いこんでやろう。




 野菜といえば、私としては肉と相性の良い物しか浮かばない。

 シソ、バジル……香りの強いものばかりだ。

 サラダ自体あまり食べないから、いざ自分で買おうとなると、ちょっと困る。


「こういうものが、サラダ向きだね」


 私とボウマが編み籠の中の似たような葉物を見比べていると、ヒューゴがひとつの籠を手にとって、私達に教えてくれた。

 青々とした大きい緑の葉。とげとげしい見た目の葉。深緑色の葉……。


「んー、悪い、こういうのはちょっと、わかんないや」

「あたしもわからんじぇ……」

「おいおい、二人とも風の国出身じゃないんだから、少しくらい知っておこうよ……」


 役に立てず申し訳ない。

 デムハムドでも野菜はあるにはあるんだけど、根菜と香草ばっかりだったんだ。


「じゃあ野菜は僕が選ぶから、二人はそれ以外の……そうだなぁ、キノコとか、魚介とか……それ以外でもなんでもいいから、面白い食材を集めてきてよ」

「魚介は大丈夫なの? 足早くない?」

「あ、そっか。じゃあ、魚介は保ちそうなやつだけってことで」

「オッケー、任せて。そういうものなら選べるよ」

「任せとけ!」


 とりあえずこれで、役割分担はできた。

 買い物が上手いわけでもない私が役に立てるといえば、せいぜいここくらいのものだろう。

 食材は何でも良いのだから、この際なので、面白いものを積極的に狙っていこうと思う。


「よし、それじゃあボウマ、一緒に探してくか」

「おー!」


 というわけで、私とボウマは適当な食材集めを始めたのだった。




「で、集まったのがそれかい」

「うん」

「どやぁ」


 葉物を沢山袋に詰めたヒューゴと再会した頃には、私達の持つ布袋も、かなり沢山の食材で膨らんでいた。

 ヒューゴは覗き込んだ袋の上辺だけを見て、何故か顔をしかめている。

 袋の奥の方は、選びに選び抜いた逸品ばかりだし、そっちを見れば彼も納得するはずだけど……。


「ブレポの乾ヒダ……マインタインの若ヒレ……カンデバルの裂き身……すごいや、この中で一番マトモなのがクシポスの貝柱だよ」

「水で戻せば元通りになるんだってさ、その貝柱」

「でけーよな、それ!」

「うん、魔獣と魔族の食材ばかりだね……で、このマインタインの若ヒレ、生の魚介系みたいだけど……?」

「ああ、それは店の人が言ってたけど、常温でもなかなか腐らないらしいんだ」

「そうか……なるほど……」


 私達も、ただ適当に選んだわけではない。

 店主に話しを聞きながら、しっかり使えるものを選んできたつもりである。


 今頃私たちのチョイスが絶妙であることに気付いたのか、ヒューゴは袋の中に目を落としながら、難しそうな顔で何度も頷いている。


「まぁ良いんじゃないかな。良いと思うよ」

「だろ?」

「だろぉ?」

「うん、ただ調理はライカンに任せるから、全ては彼の判断に委ねるけどね」

「わかってるよ」


 ライカンがこれらの食材をどう調理するのか、楽しみだ。

 まぁ、私としてはこの後買い漁る肉の方が重要なんだけどね。そっちの方が沢山食べることになるだろうし。




「だから、我々はこんなもの身に覚えが……!」

『まだシラを切るつもりか! これほどの証拠が出揃っているというのに!』


 私達が最後の肉と魚介のために動き出そうとしたその時、近くの大きな建物から、いくつかの罵声が響いて来た。

 老年の男性の声と、機人特有の電子音声である。


「うわぁ、うっさいねぇ。喧嘩かな?」

「駐在所、だね。警官さんが小悪党でも捕縛したのかな」


 建物から洩れる声は大きく、駐在所の入り口前を歩いていれば、騒がしい通りの喧噪にも勝って聞こえるほどだった。

 そんな騒ぎを聞きつけてか、入り口付近を窺う野次馬の姿もちらほらと見られる。


「……でも、なんか聞き覚えのある声なんだよなぁ」

「ん? ロッカぁ、どうかしたの?」

「いや、ちょっと今の声、聞いたことがあるっていうか……」


 野次馬達の後ろで私は立ち止まり、首を傾げる。

 これから肉の選定と確保という大事な仕事が待っているというのに、なかなか私の脚は、この場から動こうとしない。

 この首をもたげる疑問を、なんとか解消せずにはいられなかったのだ。


『いいか、俺はこの街で三十年やってきたデカだ! その直感が、犯人はお前だと囁いている!』


 再び轟いた電子音声に、私の記憶はスッと呼び覚まされた。


「あーっ! この声、あいつじゃねーか!」

「うおっ」


 同時に少しの怒りと、使命感が沸いて出る。

 肉、と思ったが、こうしちゃいられねえ。


「ごめん、ヒューゴ。ちょっと駐在所に寄らせてもらうね!」

「お、おいおい! ロッカ!?」


 私は心のままに急ぎ、駐在所の中に入っていった。




 駐在所に踏み入り、大きな声のする方に歩いてゆく。

 途中で声をかけられても、“地下水道の事で”と言えば簡単に納得してくれた。


 目的の人物の元に辿り着くまではそれほど時間はかからなかった。

 聴取室には、声を張り上げる機人の男と、ぐったりと項垂れる老人の姿がある。

 老人の疲れ果てた様子を見るに、ちょっと手遅れだったのかもしれない。


「おい!」


 だけど、そのままにしておくわけにもいくまい。

 私は大柄な警官に向けて、声を張り上げた。


『ん? 何だお前は、勝手に……おや、これはこれは』


 椅子に座っていた警官はのそりと熊のように立ち上がり、古びた眼光ランプを私に差し向け、睨みつけてくる。


『お前は学園の特異科学徒……ロッカ=ウィルコークスじゃあないか』


 現役警官の威圧は、確かにちょっと恐ろしい。

 少しでも間違えれば、檻の中にぶちこまれるんじゃないかって不安も、浮かんでくる。


「ロッカ! どうしたんだよ急に」

「なんだーロッカぁ、肉買わないのかぁー……?」


 後ろでは、ついてきた友人たちが、あまり関わりたくなさそうな顔をしている。

 けど、それでも私はこいつにだけは、絶対に退くわけにはいかない。

 私は勇み足を後悔しない。心を決めた。


「あんた、あん時の署長だろ。私がミネオマルタに来た時、馬車荒らしを捕まえた夜の」


 私はあの夜のことを覚えている。

 ミネオマルタにやってきて早々に出くわした、盗人の事を。

 そいつをぶん殴って捕まえてやったら、逆に私が怪しい人物に見られて、長い時間取り調べを受けていたことを。


 結局お咎め無しで終わったのだが、警官共が曲がった報告をしたのだろう、私は学園から一週間の謹慎というとばっちりを受け取ってしまったのだ。

 そうさせたのがどいつの仕業かはわかっている。


 あの夜私に何度も疑惑を吹っかけてきた、目の前の腐れ署長だ。


『いかにも、私は警備署長のウェスターだ。で、だからどうしたね。私に疑念を抱かれたことが、そんなに気に食わんのか』

「ああ気に食わないね。お前の根も葉もない疑いのせいで、一週間も割を食ったんだからな」

『ふん、そんなこと、私の知ったことではない』


 こいつ……。

 電子音声からして歳はジジイだが、頭のボケは機人にもあるってか。

 人を証拠もなしに疑うだけ疑っておいて、違けりゃ謝りもせずにポイ。よくもまぁ、そんな外道じみた真似を続けられるものだ。


「おいロッカ、なんとなく因縁はわかったけど、今はまずいって」

「でもさぁ……」


 姿がほとんど同じ機体で統一されている機人警官の中から個人を探すなど、先ほどのように偶然声を拾うなどしなければできないことだ。

 この性悪な署長にガツンと言ってやるのは、今を逃せばもう無いかもしれない。

 そう思うと、この場で一気に毒を吐いてやりたかったのだ。


「お取り込み中のところすみませんね、うちのロッカが騒々しくて」

「おい」


 ヒューゴが私を手のかかる子供のような扱いで引き取ろうとしている。

 別にここから連れ出そうとするのは構わないけど、その言い方はなんか、やめろよ。


『ふん、こっちは地下水道事件の聴取で忙しい。わかっているなら、さっさと帰れ』

「違う! だから、私は地下水道事件になど関わっていない!」


 今まで項垂れていた老人がカッと顔をあげ、唸るように叫んだ。

 長い白髪は乱れ、見開かれた目は不健康そうに充血している。叫びの内容も相まって、なんだか幸薄そうな男性である。


「……おい、署長さんよ。この人は」

『ふん、知れたこと。今回お前たちが巻き込まれた地下水道事件の魔道士と関わりがあるであろう、容疑者だ』

「ええっ!?」


 思わず私は、老人の顔を再び覗きこんだ。

 憔悴した表情に、知性ある顔立ち。とても悪さをするような人間とは思えないが……。


「ほう、そうなんですか。事件に巻き込まれた張本人としては、興味深い話ですね」

「なんでぇこいつ犯人かよ。結構しょぼいなぁ」

「だから、違うと……!」


 老人は力なく首を振り、更に髪を乱した。


「あの、僕たちは学徒なので、警官さんや杖士隊さんの調査報告も聞いていないので全く状況が読めないんですが……一体この人は、どのような経緯で容疑者に?」

『無論、私の長年培ってきた勘だ』

「はっ?」


 私とヒューゴの声は、同時に漏れた。

 それだけ、署長がさらりと吐き出した言葉は素頓狂なものだったのである。


「ま、まさかそれだけで? こんな尋問じみた取り調べを?」

『そんなわけなかろう、こっちにもそれなりの確証はあるのだ』


 署長は装甲の蓋を開き、中から一枚の紙を取り出した。

 一部は黒縁に欠けているところを見るに、少しだけ燃えたのだろう。だが本体のほとんどは残っていて、そこに書かれている細かな文字も、滲んではいるが、明瞭だった。


『これは、近年新たに創設された理学学校の入学案内だ』

「入学案内? ってなんだぁ、ヒューゴ」

「あれ、それどこかで……」

「それが何だっていうんだよ」

『ふん、この入学案内の広告用紙がな、例の地下水道の地下四階の水路の中から発見されたのだ』


 地下水道の地下四階……それって私達が謎の魔道士と出会った時の……。

 あ、ていうかその紙、私も見覚えが。


「ま、まてよ、それって……」


 私はジャケットのポケットを弄った。外側、内側と、無駄に多いポケットを改める。

 その間も、どこか得意気に眼光を光らせた署長は、話を続ける。


『この男は、マルタ杖士理学研修院という理学校の長をやっている。地下で活動していた謎の魔道士、そして理学校。怪しいとは思わんかね』

「あ、あった」

『しかもその理学校と事件が起きた地下水道は上下の位置が非常に近く……何だと?』


 胸の内ポケットから、くしゃくしゃの紙が出てきた。

 手で伸ばしてみると、やはり間違いない。署長が持っている紙と同じ、理学校の学徒募集の広告である。


『……なぜそれをお前が持っている?』

「前に、もらった」


 としか言いようがないんだけど……。


「あー、その紙は、ロッカと一緒に僕も受け取ったんですよ」


 ヒューゴが申し訳なさそうに手を低く上げた。


「で、僕はその紙を、あー……地下水道の事件があった時に、捨てたんですよね。水路の中に」

「あー!」


 確か、魔道士に地下水道の地図が燃えたと思わせるためにわざと紙を投げ捨てたんだっけ。

 でも実は地図は捨てていなくて、そのおかげでヒューゴは迷路のような地下水道を移動し、魔道士の後ろに回り込んで、奇襲に成功したのだ。

 その作戦の時に、地図の代わりとして投げ捨てたのが……。


『……それは、この、これの事か?』

「ええ、多分。水面には炎もあったので、その焦げ跡もついてますし、まず間違いないです」

『……』


 機人の署長の表情は探りきれないが、極端に弱まった眼光ランプの輝きを見るに、多分彼は今、愉快な心境にあるのだろう。


「……ふう」


 聴取室に訪れた沈黙の中、“ようやく終わったか”と言いたげな老人のため息が、虚しく響いた。




「いや、君たちのお陰で助かった。礼を言わせてもらうよ、ありがとう」

「いえいえ、そんな。僕のせいで、何やら面倒なことに巻き込んでしまったみたいで」

「や、構わんさ。全てはあのけったいな署長のせいですからな、はっはっは」


 盛大な勘違いが露呈されたベテラン署長はさておき、駐在所から抜けだした私達は、目の前の老人から厚い礼を貰っていた。

 それまでの取り調べがかなり強引だったのだろう。ようやく人心地がつけたのか、安堵した顔の中には隠し切れない疲れが見て取れる。


「でも、災難……でしたね」

「ああ、君たちが来てくれなければ、研修院はどうなっていたことか……全く、考えるだけで恐ろしいよ」


 理学校の長の冤罪。

 逮捕。そして学園の不信。崩壊。

 単純な思考回路が導いたもしもの話だが、あの署長の横暴さを考えると、そんな未来もあり得ていただろうから、恐ろしい話である。


「ところで、君たちは地下水道の事件に関わりが? ということは、例の特異科の学徒さんかね?」

「うん、そだじぇ」

「ほうほう……」


 細い目を更に細めて、一見すると険しい目つきで、老人は私達を見回した。

 どこか商品を見るような目つきで、ちょっと怖い。


「……どうかね? 今いるミネオマルタの学園から、こっちの研修院に移ってみないかね?」

「えっ」


 急な提案に、肺が縮む。


「我々は杖士隊入隊のための、より実践的な魔術を研究、訓練する機関でな……ただミネオマルタで研究材料の扱いを受けるよりも、ずっとためになる講義を受けられると思うが……」


 杖士隊入隊。実践的な魔術の訓練。

 考えもしなかった輝かしい夢と、将来への道を同時に差し出されて、私は思わず、現状の緩やかな学園生活を比べてしまった。


「ありがたいお話ですが、お断りします。僕たちは、今の学園が好きなので」


 私が“そんなの嫌だ”と振り切るより早く、ヒューゴが毅然とした態度で断った。

 しかしキッパリと断られた老人は、そもそも最初から期待していなかったのか、ほほほと笑っている。


「はは、そうかそうか。ならば、仕方ないか……学徒が増えてくれるかと思ったが、いや、残念だ」

「お気持ちだけ、ありがたく頂戴します」

「うんうん、あたしも、ルウナ達と離れるのは嫌だからなぁ」

「うむ、まぁ、あまりかしこまらないでおくれ。こちらも、駄目で元々で言ってみただけなのだ」

「そう言っていただけると」


 三人は朗らかに笑い、先程よりも深く打ち解けている。

 ただ私だけが、自分の中に一瞬だけ生まれてしまった汚い気持ちに後ろめたさを抱き、口数を減らしていた。


 みんなと一緒に遊んで、講義を受けて、たまに、仕事なんかもして。

 この生活に少しも不満なんてないし、友達はみんないい人達だし、毎日が楽しい事ばかりなのに。

 一瞬でも、こっちに来ないかと言われて迷ってしまうなんて。

 私って、最低だ。




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