櫃005 挫かれる鼻
屋外演習場は、学園の庭園の隣に存在する、広大な演習施設だ。
演習場は一平米の石タイルが敷き詰められており、目測で術の飛距離や効果範囲を図ることが容易になっている。
また、石タイルは術によって破損しても、専用の工房で大量に焼かれているため、たとえ一日のうちに全ての石タイルを破壊したとしても、広場は二日も経たずに全て修復されるだろう。
学園の魔道士達は、この演習場で自らの術の出来栄えを量る。
時に飛距離を。時に威力を。
もしくは、未だ成し得たことのない、新たなる魔術を。
「“レイン”!」
ある男子学徒が、十数秒にも及ぶ長い精神統一の末に、短い呪文を詠唱した。
言葉と共に、杖の先石に蓄積された理学式に、意志を込めた分の魔力が殺到する。
理学式に流れ込む、大量の魔力。
果てしなく長い回路は、複雑な理学式の形を保つため堅牢に作られており、しかしそれは頑丈である分だけ、消費される魔力の量を莫大なものにしている。
迂遠かつ低効率な式を辿る、魔力の奔流。
「うっ」
しかし注ぎこんだ魔力が第九環陣に行き着く頃には、男子学徒の魔力は根こそぎ奪い取られてしまっていた。
表情は苦しげに歪み、杖を握る手は緩み、反して身体の筋肉は固く強張る。
高級なロッドが石タイルの上に落ちると、周囲で見守っていた人間はすぐさま彼に駆け寄った。
「おいジェイク、大丈夫か!」
「しっかりしろ!」
ジェイクと呼ばれた男子学徒は、周りの声が聞こえているのか聞こえていないのかもわからないほど、弱々しく憔悴していた。
目は虚ろで、息は荒い。魔術を修めない素人の傍目から見れば、彼が先ほどまでは何の異常もない健康体であったとは信じられない姿であろう。
「どいてどいて、ほら、どくんだ」
人だかりの中に、若い女性が割り入ってきた。
実用性だけを重視した色気のない装いの上に、唯一目立つ純白の外套を羽織るその姿に、ジェイクの安否を気にかける友人たちも一歩身を引いてゆく。
彼女はリゲル=ゾディアトス。
光属性術専門の導師であり、今はこの屋外演習場で行われている実践講義の監督を務めている。
リゲルは人垣をかき分けて、タイルの上に座り込む男子学徒の傍に近づいた。
依然として男子学徒の体調は優れないようで、ずっと浅い呼吸を繰り返すのみである。
リゲルは俯く男子学徒の頭に手を置き、顔を覗き込む。
男子学徒の方には、覗きこむリゲルを気にかけるだけの余裕すらないようだ。
彼はただ、今襲い来る吐き気を抑えるのに必死なのである。
「ふむ、侵食されてるね……“レイン”」
ジェイクの頭を抑えるリゲルの手から、白い輝きが漏れだした。
ただの魔光とは違う、強烈な白の光。これこそが、光魔術特有の輝きなのである。
「う……ううっ……?」
光が収まると、変化はすぐさまジェイクに現れた。
それまで引き攣っていた表情は憑き物が取れたように緩み、汗を拭う程の余裕も生まれたらしい。
リゲルの光魔術によって、魂への侵食が和らいだのだ。
落ち着いた様子の男子学徒を見て、リゲルは何がそんなに面白いのか、いつものように目を細めて、微笑んだ。
「式の構築に魔力を使いすぎたね。構築段階での失敗が多いからといって、魔力量を安易にかさ増しするのは禁物だよ」
「……はい」
「まぁ、途中までは流入もできていたから、いいところまでいってるんじゃないかな?」
「……ありがとう、ございます」
ジェイクは属性科の五年生。あと一年と少しで卒業するか、准導師になるかといった学徒である。
彼は常にAクラスで、長い学園生活の中でBクラスを経験したことは一度としてない。
成績は優秀そのもので、事実、人望も厚く、実技にも秀でた優秀な人間であった。
そんな彼が今日この日、挫折した。
長い間、失敗という言葉と無縁だったジェイクは、魔術による失敗と、それによる手痛い反動を食らったのだ。
「……駄目だったか」
魔力を吸い込まれる感覚と、それによる自身の体調の急激な悪化。
彼が魂への侵食を初めて経験したのは、初等学校での術の練習時のことだっただろうか。
ジェイクは二度と経験したくはなかった苦しみを今一度思い出して、ロッドを握っていた手を小刻みに震わせた。
「くっ……」
未だ新鮮な苦しみと恐怖が脳裏をよぎり、新たなる術へ挑戦する気力が減衰する。
すぐにでも立ち上がりたいが、彼は立ち上がれなかった。
広場を見回せば、そのようにして項垂れる学徒は、何人もいた。
今日は、ミネオマルタ国立理学学園初めての、光属性術の実践講義の日。
雲ひとつ無い珍しい快晴の下、屋外演習場の広場には、多数の優等生が頭を垂れて、各々が長年培ってきた自信や矜持をへし折られていた。
「うん、順調みたいだね」
死屍累々。七転八倒。
長く難解な座学をひとまず終えた学徒は、初めての実践講義で出鼻を挫かれている。
そんな最中、リゲルは愉快そうに笑っている。
彼女には、失敗による苦痛や苦しみは見えておらず、ただひたむきに模索し、追求する者の健気な姿しか見えていないのかもしれない。
「……できるか」
「あのさ、見ればわかるでしょ」
「ごめん、悪かった」
広場のそこら中から、へたり込む魔道士たちのつぶやき声が聞こえてくる。
魔力を一時的に使い果たした者は、魂と同時に精神を摩耗し、吐き気や目眩に襲われてしまう。
しかしそういった一時的な症状よりも、この場の学徒にとっては、魔術の失敗による精神的なショックが、最も大きく響いていることだろう。
未だ、一人を置いて他に習得した者のいない光属性術。
二番手とはいえ、それを目指す意義は多分にあるし、十分に名誉な事だ。
魔道士を名乗る以上、誰もが夢見る栄光に違いない。
だからこそ彼らは、座学に励んだ。頭を掻きむしりたくなるような難解な理学式や記号を、昼夜問わず脳に叩き込み続けた。
誰もが今日この日に、その苦労がある程度報われることを期待していたのだろう。
少しは、発動するかしないかくらいの所までは。いいや、もしかすれば、自分は、これほどまでに努力した自分ならば、成功するのではないか。
苦難を乗り越えた彼らは、そんな期待を抱いていたのだろう。
淡い期待である。
ひどく淡い、そして単純な、埋もれるに十分なほど平凡な期待である。
「一回目は、まぁ、いきなりできるようになった人はいないみたいだね」
リゲルは数分前とは打って変わって、静かになった屋外演習場を見回して、そう言った。
初の実践講義での成功者は、無し。
成績首位の属性科六年の優等生も、影魔術を得意とする杖士隊志望者も、等しく失敗した。
魔力が尽きた者、何度か試した末に不可能を悟った者、友人が苦しむさまを見て怖気づいた者。
この場にいる多くの学徒は、大なり小なり成功を夢見て挑戦したが、誰も例外に漏れず、光魔術に辿りつけなかったのである。
多くの魔道士がこの時、向上心を折られた。
難解な座学に光属性術を諦めた者は多かったが、今この場に残る者は、それに食らいつく精神力を持っている。
しかしそれでも、心を折られてしまった。
彼らは心の中で、思っていたのだろう。
ここまで来れた自分たちは、特別なのだと。自分たちには、光属性術を習得するだけの器があるのだと。
「……」
一人、魔力を使い果たした少女が膝を抱え、諦念の涙を流した。
まだ、“ふるい”はかけられ続けている。
まだ、試練は終わっていない。
光属性術習得への道は、想像以上に険しい。
それを再確認せざるを得ない一日だった。
「……」
挫折する学徒の間を、一人の背の低い少女が縫って進む。
腰まで届く長い濃紺の髪は風に靡かず、表情は陶器人形のように固まり、一切の感情を示していない。
漆黒の埋鉛帽のロッドを握る手先はローブの袖に隠れ、唯一早い足取りだけが、彼女の心の僅かな脈動をすくい取れるものだった。
「クライン」
そうして歩くうちに彼女、ミスイ=ススガレは、目的の人物の傍に辿り着いた。
集中するために人気の多い場所を離れたクラインは、背後から声をかけたミスイを放置したまま、目を閉じて精神統一を続けている。
対するミスイは、呼びかけを無視されたことに少しの怒りも感じていない。
精神を練りに練り続けるクラインの様子を、ただじっと眺めているだけだった。
「……よし」
しばらくして、クラインが目を開ける。
たっぷり数分間の休息で、精神はかなり落ち着いた様子だ。
彼はそのまま、虚空に右手を差し出すと、指にかかるリングに魔力を込め始めた。
光属性術講義唯一の特異科学徒、クライン=ユノボイド。
学徒の中でも最多の、今日七回目の挑戦である。
「“レイン”」
指輪に埋め込まれた暗がりの結晶内に、理学式が形作られ、魔力が注がれる。
「うっ」
その時点で彼の意識は、ほとんど途切れたと言っても差し支えない程に大きく遮断された。
魔力の過剰消費による魂への反動が、身体への変調となって、容赦なく襲いかかる。
「ああもう、言わんこっちゃないな」
そこにすぐさま、リゲルが駆けつけた。
対応が早かったのは、既に何度も応急処置を施しているからであり、密かに彼の様子を遠目から見守っていたからである。
「よろしくおねがいします」
「ありがとう、すまないね」
クラインはミスイによって受けとめられ、地面に顔をぶつける事なく済んでいた。
女性に支えられる男性。その様子をやれやれといった風に眺めつつ、しかし抱え持つミスイの負担を減らすためになるべく手早く、リゲルは呪文を紡いだ。
「“レイン”」
「ふむ」
「おおっと」
光魔術による処置を意受けたクラインは、まるで何事もなかったかのように、すぐに起き上がった。
「どうも、ゾディアトス導師」
「構わないけど、無茶はいけないな。不屈の精神は、奨励されるべきだとは思うけども」
「自分で術を使い、直に術を受ける。これ以上効率のいい練習の機会はそうそうありません。逃す手はないでしょう」
「いや、あのね。そこに君自身の身体の安否が考慮されてないのだが……」
クラインは復帰するや、すぐさま再び瞑想の姿勢に入り込む。
最上の精神的苦痛とも揶揄される魂への侵食を受けてもなお、彼の向上心は折れることがない。
むしろそのような痛みやリスクなどは構わないとでも言った風に、喜んで苦行に身を投じているかのようだった。
遠目にそれを眺めていた学徒らは、“ありえない”と言いたげに首を振っている。
「クライン、無茶は……」
「黙れススガレ、邪魔をするな」
「あっ……」
彼を案じるミスイの手は、ぞんざいに振り払われた。
差し伸べられた好意を弾いたクラインは、再び人から離れた場所に移り、瞑想をやり直す。
魔力は、魂より溢れ出る力。
魔術は、溢れた魔力を操る術。
魔力無しに、魔術は使えない。
効率よく魔力を生み出すには、生物が無意識のうちに消費する魔力の無駄を意図的に省く事が必要だと言われている。
しかし、それはあくまでも俗説の内のこと。
魔力とは何なのか。それは量れるものなのか。どう見えるのか。
人はまだ、それを完全に理解するには至っていない。
理学や魔学という学問が興っても、根幹は依然として、謎多きままだ。
それでも見えざる力の上質な行使を夢見て、人は迷信じみた深い冷静さの中に、魔力の源泉を信じている。
「クライン……」
「ミスイ、構うことはない」
振り払われた手を絶望的な表情で見つめていたミスイの肩に、イズヴェルの手が乗せられた。
「イズヴェル」
まだまだ幼い顔立ちの少年は、ミスイの縋るような弱々しい目に、断固として首を横に振る。
「やめておいた方がいい。彼は集中しているんだ」
「でも、これ以上無茶をしたら……」
「だとしても、人の努力を邪魔する権利は、何者にもない」
イズヴェルはミスイの手を握り、クラインから引き離すように歩く。
一歩一歩クラインから離れてゆく度に、普段は固い無表情のミスイの顔色は、どんどん曇っていった。
「これは以前、君に話した事があったと思う。ミスイ、覚えているかな」
「……イズヴェルの話かしら」
「うん、僕の話だ」
周りに誰もいない開けた場所で、二人はロッドの石突きを垂直に立てて、向かい合っている。
ミスイの持つ埋鉛帽のロッドは、漆黒。
ただでさえ黒い鉛帽が炭に染まった、深海の闇の如き杖。
対するイズヴェルの晶沈鱗のロッドは、赤と黒とが入り交じる、極彩色。
結晶化した柄のほとんどは薄汚れた包帯が巻かれ、無骨に補強されているが、露出した先端は鉱石のように複雑な色合いで輝いていた。
重々しい黒と、鮮やかな極彩色。
対極的な二人のロッドだが、その持ち主の関係は、決して悪いものではない。
学園の中で唯一、その二人がお互いに、気を許すくらいには。
「僕の故郷……風の国のジロンジャという町は、とても貧しい所だった」
「……砂漠の只中にあるのでしたね」
「うん。食べ物は少ないし、綺麗な水も、きっと、ミスイが想像できないくらい、全然ない。そんな、不毛な土地だった」
広大な風の国は、そのほとんどが砂漠で構成されている。
ミネオマルタからは、性質も距離もかけ離れた大陸の国だ。
その辺境の田舎ともなれば、博識なミスイといえど、貧困の程は容易に想像できるものではない。
「そこで生きていくためには、男なら魔獣を乗りこなす勇猛さが、女なら水を運ぶ忍耐強さが必要だ。男も女も、腕と脚が強くなければ、生きていけない世界なんだ」
腕と脚の力。
ミスイからすれば、それは別世界のおとぎ話のよう。
実際、話を聞いているミスイは、話の中にイズヴェルの故郷の苛酷さを夢想しつつも、どこか現実感の希薄な遠い目をしていた。
「僕の生まれたカーンという家は、もちろん、貧乏だった。父さんも兄さんたちも、毎日砂丘に登っては、虫や蜥蜴たちの視線を頼りに、災いをもたらす悪しき魔族、嵐鳥を狩っていたけど……それでも、どうしようもなく貧乏な生活だったよ」
「狩猟を生業とする家なのね」
「うん。父さんも兄さんたちも、みんな猟は上手いんだ。けど、家族五人が食べていくためには、どうしても食べ物が足りなくて……」
砂漠の空に浮かぶ巨大な鳥。
しかし相手が巨大なだけに、そうそう沢山の数と出会えるわけでもない。
気性の荒い嵐鳥は果敢に反撃するし、半矢になれば逃げもする。
獲物を逃して数日が続き、家族が窮地に立たされることも少なくはない。
「三男の僕は、いつだってお荷物だった。弓も下手だし、魔獣を上手く乗りこなすこともできなかった。父さんからはそれで、よく殴られたよ」
「……」
「けど、背を借りる僕の魔獣もいなければ、自分用の良い弓だってない。猟の練習ができなかった僕がお荷物になるのは、ほとんど必然だったんだ」
イズヴェルの顔には、悔しさが滲んでいた。
しかし兄弟のいないミスイにとっては、その感情もまた、どこか想像できないものである。
「役立たずと言われ続けた僕の仕事は、道具の手直しと、水運びだけ。母さんと一緒に、女と同じ作業を続ける毎日だった。あれは、悔しかったよ」
「……そう」
「だって、そうだろう。僕だって、ちゃんと練習すれば、兄さんたちと同じ道具や魔獣がいれば、きっと立派な、聖なる狩人になれたのに」
「努力を、させてもらえなかったのね」
「ああ、そうだ。だから僕は猟をやめて、魔術の道に進む決心を固めたんだ」
イズヴェルのロッドの先石に、火の基本魔術、“イアノス”が静かに灯る。
「あの日、水を運ぶ長い長い道の途中で、旅する魔導師さんに出会えていなければ……小さな杖と、古びた魔導書を譲ってもらえてなかったなら……僕の人生は、全く別のものになっていただろう」
運命の出会いは、華美な杖を持った大柄の魔導師だった。
何もない手のひらから炎が滾るあの一瞬の衝撃を、巨大な装飾過多のロッドから放たれる巨大な炎の渦を、彼は一度たりとも忘れたことはない。
「ミスイ、確かに光属性術は、難しい。僕は今日も、君でさえ、全く発動させられなかった」
「……ええ」
「そんな属性術を彼が、クラインが使えるとは……確かに、そう思ってしまうかもしれない。その気持ちは、僕にもわかるよ、でもね」
イズヴェルは、視界の隅で片手を伸ばすクラインの姿を、ちらりと伺った。
クラインは何か呪文を詠唱した様子だが、ついさっきと同じで、また膝からガクンと崩れ落ちている。
また慌ただしく、リゲル導師によって介抱されているようだ。
「……努力すること、そのものを邪魔する権利は何者にもない。僕は、そう考えている」
イズヴェルの目は、ともすれば僅かに怒りを孕んでいるかのように、真剣だ。
彼は怒りっぽい性格である。その怒りが発露すること自体は、決して珍しいことではない。
しかしその矛先が、ほんの僅かにでもミスイに対して向くことなどは、ほとんど有り得ないことだった。
しばらく真剣な眼差しを向けていたイズヴェルだったが、その表情は突然、いつもミスイに向けるような、柔らかなものに変わった。
「ごめんな、ミスイ。僕、偉そうに言っちゃったかな」
イズヴェルがタイルを石突きで軽く突き、恥ずかしそうに訊く。
「いいえ、イズヴェル。私が冷静ではなかったのよ。ありがとう」
ミスイはそれに、いつも通りの冷淡な声と表情で返した。
「そうか……良かった。どういたしまして、ミスイ」
日頃と同じ彼女の能面に、イズヴェルは再び安堵を取り戻したのであった。
しかしイズヴェルは、気づいていない。
彼が安心してミスイから目を反らした直後、彼女がまたすぐにクラインの方へ目線を戻した事に。
「クライン……あなたは、やっぱり駄目よ……」




