箪013 打ち上がる餌
感涙している暇はない。
スズメ達が無事なら、もう何の心配もいらないという事である。
出口も無事に確保できているというのであれば、もはやこんな危険な場所に留まっている必要はないのだ。
謎の魔道士、守護像サードニクス、怪物レトケンオルム。
ヒューゴに襲いかかってきたデオルムが霞んで見えてしまうほどの錚々たる陣営との戦いも、これで終局だ。
帰り道の順路は、私が記憶している。
さすがのクラインも道順全てを覚えてはいないようだったので、今度は私が先頭を歩く番ということだ。
「行くぞ」
「うん」
私は涙を拭い、すぐに出口に向かうことにした。
……やっぱり石鹸の匂いが気になるなぁ。
「……」
最後の最後に、レトケンオルムと追いかけっこはしたくない。
慎重に、声は出さず、クラインとのコミュニケーションは、全て身振りでのものとなっていた。
こっちへいく。あっちへいく。よし。
たったそれだけの、黙する会話の繰り返しだ。
さすがにこの状況では、私も“何か話そう”などとは思わない。
クラインの方から申し出てきたとしても、後頭部を右腕で殴って黙らせてやるつもりでいるくらいには、何の話もしたくはなかった。
とにかく、さっさと帰りたいのだ。
さっさと次の階層にいって、話すのはそれからなのだ。
帰り道でぺちゃくちゃと喋って、地上に出たら役人さんに延々と文句をつけてやって、それで、そのあとは、多分酒を飲むことになるだろう。
金は貯めると言ったな。あれは嘘だ。
さすがにここまでの死闘を繰り広げておきながら、直帰して節制食を噛んでおやすみなさいとなるほど、私の精神は頑丈に出来ていない。
どうせこんな事件があったのだ。追加の報酬は、あらかじめ言われている以上に、たんまりといただけることだろう。
その分をふんだんに使って、今日は飲むに限る。おお、そうだ。飲もう。飲むしかない。飲んで、食うさ。
「……」
「……」
私は指で、残りの順路の進み方をいっぺんに示してみせた。
こういって、まがって、まがって、こう。
もう歩く距離も残り少ないことは、きっとクラインにも伝わった事だろう。
彼は無表情を煌灯の明かりで浮き彫りにして、小さく頷いた。
その時だった。
まぁ、起こってしまうものなのだ。
全てが順調に、上手くいっている時に限って、こんな突発的な出来事が。
「うっ!」
突如、水面が激しく暴れたかと思うと、多量の水が跳ねて飛んできた。
大きな音を立てながら水中から歩道側に飛び出してきたそれは、全長一メートルはあろう大きな白い魚である。
腹まである長くカーテンのような尾びれを床にぺったりと貼りつけたその盲目の魚は、自ら飛び出してきたにも関わらず、それ以上動くこともできはしない。
ただ、私たちの数十センチ先の行く手を中途半端に阻み、横倒れになっているだけだった。
これが行きの道中であれば、まな板の鯉と一笑に付していたかもしれない。
だが今、この状況においては、私とクラインが身を固く硬直させて、耳に神経を注ぎ、目の前に魚を睨んでやるには、十分な恨めしさがあったのだ。
ゲロゲロゲロ。
どこか遠くで、まるでカエルが水を呑んで溺れているかのような、不可解な鳴き声が轟いた。
「……」
「……」
私とクラインは、同じような顔を見合わせる。
そうしている間にも、私たちの目の前で倒れる幽魚はじたばたと暴れ、大きな音を立て続けていた。
「まずいよな」
「まずい」
小声の会話は短く、素早い。
「どうする」
「さっさといけ馬鹿」
私はクラインの言葉以上に、彼の焦りきった表情に突き動かされ、すぐに幽魚を飛び越えた。
早歩き、いや、今はそれ以上の足取りで、先を急ぐ。
私の後を追うクラインも、多少の音は気にしてもいないような速さで走っているのがわかった。
「ェォオオオオオォォ……」
すぐ後ろで不気味な鳴き声がして、トンネルの中で強く反響した。
「……走れ! ウィルコークス君!」
「ああ、畜生っ!」
クラインが叫び、私も叫んだ。
それを合図に、私たちは足音を気にせず、全力で走り出す。
後ろは怖いので見ていない。
だけど無数のペタペタという音が迫っているのだけは、目をやらずともすぐに聞こえてきた。
「ォオオオオッ!」
二度目の鳴き声が水路の中に轟いた時、よせばいいのに、私は怖いもの見たさに振り向いてしまった。
「ォオオオッ!」
「ひっ……!」
そこにはやっぱり、奴がいた。
レトケンオルムが無数の腕をトンネル内に這わせながら、こちらを目指して全力で走っていた。
「なっ、なんでこんな、あとちょっとなのにっ!」
「“スティ・カトレット”!」
私が悪態をひとつ吐いている間に、クラインは魔術を一発、後ろに向けて放っていた。
黒い刀身の曲剣が、重そうな刃をぐるぐると振り回しながら、背後のレトケンオルムへと襲いかかる。
「ぐ……!」
だがレトケンオルムは何を感じたというのか、張り巡らせた腕の伸縮を調節することで身体の位置を大きくずらし、迫る曲剣を鮮やかに避けてみせたのである。
距離は、わからない。
相手の図体が大きすぎて正確に掴めないが、クラインの煌灯の明かりがほんのわずかに届く程度の距離なので、見かけほどは近くないのだろう。
だが、背後の水路全体を覆ってしまう多足がこちらに向かって全力で駆動している姿は、相手との距離がどれほど離れていたとしても、逃れようのない不安感をこちらに与えてくる。
「クライン、なんとかならない!?」
「君は祈れ! “スティ・リオ・カトレット”」
今度は曲剣の三本同時の射出である。
これはさすがに避けようもないだろう、と思って走りながらわき目で伺っていたが、本当に避けようがなかったらしく、三本のうちの一本は見事、レトケンオルムの額に突き刺さった。
「ェォオォォオオッ!」
「くっ……!」
と思ったけど、刺さっていなかった。
剣は皮膚を数センチ侵食しただけですぐに抜けてしまい、真下の水路へボシャリと落ちてゆく。
魔族が元来持っている強化の魔力が、クラインの放つ曲剣のダメージのほとんどを打ち消してしまったのだ。
当然、レトケンオルムは少しも怯んだ様子はなく、むしろより怒りに狂ったように、激しく走り続ける。
クラインの魔術が通用しない。私が自分の走りに集中するには、それだけで十分な理由となった。
「うおおっ!」
「く、そッ」
全力疾走のまま曲がり角に差し掛かると、私たちは示し合わせたように、水路を挟んで向こう側の通路へと飛び移った。
身体強化しているとはいえ、直線を走り続けた勢いを殺しながら丁寧に歩道を直角に曲がるという真似ができないのだ。
故に私たちは、そのまま二人して同じように向かい側の角の壁を蹴って、右へ曲がり走り出した。
もうこの際、物音を気にする必要も、荒い息を隠す必要もない。
ただただ逃げる。その速さこそが全てであった。
「ォオオオッ!」
しかし当然、レトケンオルムは追ってくる。
奴は八本の脚で支えられているためか、私たち以上に重い体を運んでいても、直角の曲りはほとんど苦にはなっていないようだ。
追ってきたそのままの速度を維持しながらレトケンオルムは直角で身を翻し、高い声で咆哮しながら、こちらに迫る。
もう少しだ。
あと、もう少しで出口なのに。
普通、身体強化と並行して魔術は使えない。
だからさすがのクラインも、このギリギリの状態では大きな魔術を展開できないようだ。
合間を縫って、時折速さを犠牲にして放つのは、小さな魔術ばかり。
自分の走りを犠牲にしながら、大技で迎え撃つという博打は御免らしい。
もちろん、私はそんな彼を責めているわけではない。
私自身はこの状況で、何の魔術も使う気にはなれないし、そんな私が彼の努力の程にケチをつけるなんてことは、あまりにも無責任だろう。
ただ、一発だけ。
一発だけでいいから、レトケンオルムを怯ませるような有効打が決まってほしい。
それもそれで無責任なのだが、そう願うばかりであった。
「無理だ!」
しかしクラインは諦めていた。
「頼む! クラインなんとかならない!?」
「ならない!」
私がゴネても、クラインの判断は変わらない。
あの頑固なクラインが断言するということは、本当に無理なのだろう。
彼は魔術による迎撃を諦めると、魔力の扱いを全て身体強化に回したらしく、ほぼ私に併走するような形で、隣まで追いついてきた。
ちらりと横目に見える表情は、やはり芳しくないものだ。
いや、隣でも顔を動かすのはよそう。
視界の端にレトケンオルムの白い顔が映りそうで、恐ろしい。
「奴の体勢を崩そうにも、走りながら、ではなっ!」
「魔術、使えないって!?」
「そうだ! 八本足を崩すには、到底、及ばない!」
言いながら、最後の曲がり角にさしかかった。
「おりゃあッ!」
「ふッ」
走る勢いのまま、二人で水路を飛び越える。
強化を込めた脚が見せる跳躍は、数メートルの幅を跨ぐには十分すぎるもので、余剰の勢いは、ほとんど向かい側の壁を蹴ることで、吸収させる形となっていた。
「ぐっ」
身体強化による体の保護が、壁への衝突に近い着地による負担を軽減する。
横向きにかかる強い重力は、そのまま壁を数歩歩くことすら可能にし
、私たちは鮮やかに曲がり角を踏破した。
「エォッ」
だが、それでも野生の魔族の素早さには叶わない。
人間がどれほど工夫を凝らしても、魔力の量を偏らせてみせても、そのような努力をあざ笑うかのように、魔族という法外な存在は、易々とそれを踏みつぶしてしまうのだ。
後続のレトケンオルムは、私達の何倍もの速さで直角を曲がりきり、ついにその張り付くような湿っぽい足音を、私たちの耳に届かせる距離にまで追いついてきた。
「ひっ……」
振り向けば、白い影。
盲目の巨大アホロウトルは、すぐそこまで迫っている。
「ロッカさんっ!」
「クライン、ロッカ! 早く、こっちだ!」
『急げ!』
私たちのカンテラの明かりが見えたのだろう。
最後の長い直線の先で、開かれた格子戸の前にいる四人の姿がぼんやりと浮き彫りにされている。
あとちょっとで、逃げ切れる。
この直線さえ乗り切れば、あと少し。
「くそっ、間に合わないか」
だけど、今さっき振り向いたレトケンオルムとの距離と、走らなければならない直線距離とを比べると、目的の格子戸までギリギリで間に合わないことは確実だった。
きっと、間違いなく、私たちは向こう側にたどり着く前に、レトケンオルムに食われるか、踏み潰されてしまうだろう。
死ぬ。
そう思うと、まったく不思議なのだが、逆に頭が良く回った。
諦めざるを得ない状況に直面して、思考が合理的に動いたのかどうかは、馬鹿な私にはわからない。
ただ今この時、私が生き残るための道筋を模索し、そのためだけに考えを巡らせたのが、紛れもないひとつの事実である。
走る先で、みんなの呼ぶ声が聞こえる。
皆の声援は嬉しいが、現時点で全力疾走している私に更なる加速を求める声達は、今は遮断だ。
追いつかれることが明白である以上、私の考えは、背後のレトケンオルムに向けなくてはならない。
レトケンオルムは強力な魔族だ。
十メートルの長い巨体、八本の長い足。漲る魔力によって全身が硬質化しており、クラインの鉄魔術でもまともな一撃を与えることは叶わなかった。
だから、痛みで怯ませるという考え方はダメだ。相手の防御能力が高い以上、サードニクスを倒した時のように、デムピックを突き立てるのも悪手に違いない。
同じ理由で、蜂起による攻撃も絶望的だ。
術の芯を媒体として岩の棘を突きだす蜂起は、私の中では唯一攻撃的な魔術ではあるが、クラインの鉄魔術が活躍しなかった以上、その槍衾がどこまでの効果を挙げるかといえば、不安が大きすぎる。
堅い守り、素早い動き、強力な酸、安定した多足……。
どれを取っても完全無欠。つけ入る隙は全く……。
いや、待てよ。
あるじゃないか、決定的な隙が。
レトケンオルムの決定的な隙……“盲目”という、五感の中でも取り分け重要な感覚が、奴には備わっていないじゃないか。
「……」
盲目という事は、目が見えないということ。
目が見えないという事は、こちらが何をするのか、全くわからないということ。
先ほどまでのクラインの投擲魔術を回避できたのは、きっとそれが風切り音を発していたからで、それを察知することで、レトケンオルムは飛来するものを避けたのだろう。
三発のうちの一発に当たってしまう中途半端な不注意さが、目に頼らない劣った察知能力であることを証明している。
つまりレトケンオルムは、こちらが大きな物音を立てない限りには、私たちの動向を察知も、それを見越した回避行動もできないのだ。
「……」
暗い地下水道が、デムハムドの果てなき坑道と重なる。
想い起こすのは、坑道深部の平凡な道中、末端の切羽。
広く空間を設けることのできない深き底で、狭い空洞を支えるために凝らされた、鉱夫達の知恵。
「……バレガヤリ」
名案として浮かんだのは皮肉にも、忌々しい鉱夫殺しの現象だった。
「なんだ、どうした!?」
私の小さなつぶやきを、クラインが拾ったらしい。
だが、それを丁寧に返してやるほど、時間に余裕はない。こうしている間にも私達とレトケンオルムは、じわじわと距離を詰められているのだ。
今こそが、唯一の好機。
「クライン、左下の足を狙って」
「は」
だから、私は躊躇うことなく動いた。
踵を返し、地を軽く蹴って、宙を浅く跳ぶ。
レトケンオルムとの対面だ。私たちを追い続けるその白い姿も、カンテラの明かりに照らされて、ほとんどが明らかとなっていた。
正直この世のものとは思えないほどに恐ろしいが、今の私の頭のほとんどは、こいつをぶっ倒すための算段で埋め尽くされている。
だから、右腕からデムピックを抜き放つのにも、さほど躊躇はなかった。
強い集中は思考を研ぎ澄まし、精神の中に理学式を形成してゆく。
日々の繰り返しの修練がある程度微笑んでくれたのか、理学式はこの土壇場でも、難なく構築された。
式に魔力を流し込んで、あとはそれを放つだけ。
私は着地の瞬間、ピックの先を床に突き立てた。




