箪012 這い寄る幻影
狭い地下水道での、炎を交えた激しい戦闘。
疲弊した身体に、魔力と共にすり減った精神力。
そんな中で目にしてしまったものは、大きなトカゲの口の中でドロドロに溶かされる、惨い死にざまを晒す男の姿であった。
私の疲労と恐怖も、既に限界だった。
クラインとスズメに“逃げろ”と指示されるまでもない。
あの白い巨体を目にしては、それ以外の選択肢を選びようがないからだ。
「はあ、はあ」
走りや呼吸以上に、心臓は激しく鼓動する。
反して、速さは出ない。長時間にも及ぶ身体強化の維持が、限界に達しているためだ。
「畜生」
逃走にほとんど魔力の恩恵が得られていないことに気付くと、私は完全に魔力の保護を解いた。
これでもう、私の能力は完全に常人並みとなってしまったわけだ。
背後を振り向くと、あの巨大な白トカゲの姿は見えない。
いや、この地下道が暗闇なので実際にどうなのかはわからないのだが、少なくとも私の肩のエポーレットに吊るした石灯の輝く範囲で見れば、そういった恐ろしい姿は確認できなかった。
地下道には、音もない。
周りには、みんなの姿も見えない。
どうやらこの一方向には、私一人が走ってきてしまったようだ。
……もしくは、考えたくないことではあるが。
身体強化を使えないような、たとえばヒューゴのような奴の場合は、もしかして、その場であの怪物に……。
「うっ」
想像すると、無残に死んだ魔道士の男の姿が思い浮かんでしまい、唐突に吐き気が込み上げてきた。
人の肉がドロドロに溶かされる、魂までもが拒絶しそうな異臭。
そこにヒューゴの姿を重ねようとしてしまったことを激しく後悔する。
……私は、皆の無事を祈るしかない。
そして、できれば、こっちにあの白いトカゲの姿が現れないことを……。
「レトケンオルムはネムシシ帳討伐難度Aクラスに指定されている――」
「うひゃっ!?」
ゆっくりと歩きながら十字路に差し掛かった時、突然曲がり角から、淡白な声を浴びせかけられる。
油断と警戒が入り混じっていた私の精神に不意の遭遇がもたらした衝撃は、しりもちをついてしまうほどには大きかった。
「……危険な魔族の一種だ」
「お前な……」
クラインは転んだ私から視線を外し、後方を確認しながら続きを説明する。
……少しくらい、ごめんとか謝りようがあるだろうってのに。転んだのは殆ど私のせいかもしれないけどさ。
私はジャケットについた砂を払いながら、十字路の全方向を粗方警戒する。
彼以外には何も姿が見えないことを確認して、ようやく人心地がついた。
「ま、クラインでも一人じゃないだけマシか」
「ふん」
「……で、なんだよその、レトケンオルムっていうのは」
「デオルムと似た姿の両生類の魔族だ。全長は尾部も含めて十メートル前後。八本の細長い腕で洞窟を上下左右、あらゆる方向へと自在に移動し、獲物を捕食する」
「十メートル……」
でかいとは思っていたが、十メートルもあるのか。それはまた、随分と大型の魔族が狭い場所に現れたものだ。
「盲目だが他の感覚は鋭く、特に音に対しては敏感に反応する。獲物を見つけると対象に噛みついて、体内で生成された強力な酸によって瞬時に消化する」
「……あの男が溶かされてたのも、それってわけ」
「そう考えて間違いはないだろう。以前読んだ本には、レトケンオルムは錆蜘蛛すらも捕食すると書いてあったのだが、どうやら誇張ではなさそうだな」
金属質の混じった錆蜘蛛すらも消化するほどの、強力な酸。
それを聞いて、私はデムピックを素早く右腕の中に格納した。
これは母さんの形見で、私の分身でもある大事なピックだ。一片でも溶かされたんじゃ、たまったものではない。
「……で、どうするんだよ、クライン」
「どう、とは」
「これからだよ。私たちはこれから、どうすりゃいいんだ。あのレトケンオルムから逃げればいいのか、立ち向かえば良いのか……」
「逃げる」
クラインは悩むことなく即断した。
「けど、あいつはサードニクスとは違って、魔術が通用する相手なんだろ? スズメとクラインがいれば、なんとかなるんじゃ……」
「君は馬鹿か。ならないから逃げるんだ。確かにレトケンオルムの皮膚は柔らかく軟骨も多いが、生命力が尋常ではないほど高く、Aランクの魔族の中でも特に討伐が難しいと言われているんだぞ」
“過去どれほどの犠牲が出たことか”と言いながら、クラインは癖の強い髪をばりばりと掻き毟る。
「……確かにレトケンオルムの骨髄は魅力的だ。しかも新鮮なそのままの……それも大量に……だがここは万全を期して逃げるしか……」
「なんかよくわかんないけど、欲を出すべきじゃないって事だな」
「ああ、そうだ。残念なことに、それが賢明だ」
また何か、おぞましい薬品の研究でもしているのだろうか。
この期に及んで欲を出す彼の精神力には、もはや感心するしかない。
事態は、あまり良くはない。
私の頭の中にはまだこの階層の地図が記憶されているので、上り階段の扉の位置は把握できているのだが、いかんせん格子戸を開けるための鍵を持っていなかった。
格子戸の鍵を持っているのは、スズメだけだ。
レトケンオルムが徘徊しているであろうこの階層から脱出するためにも、とにかくスズメと合流しなくてはならない。
私とクラインが同じような方向に逃げたということは、スズメはスズメで、ヒューゴ、ボウマ、ライカン達と同じ方向に逃げたということである。
四人が一緒になって行動している可能性は、無くはない。そうであれば、スズメたちと合流して、早々にこの地下から脱出するだけで事が済む。
これは私の願望だが、全員がバラバラの方向に逃げている……という事態には、なっていてほしくない。
あまりレトケンオルムがうろつく地下水道を散策して回りたくはないし、それに、最悪の事態が起こっているかもしれないという不安に苛まれるのは、嫌なのだ。
「スズメ=ウィンバートがいれば、あちら側も問題はないはずだ」
先頭を忍び足で歩くクラインが、私の心中を察したかのように呟いた。
「あの魔道士にはレトケンオルムの知識が備わっているようだし、優秀な六属性術士とも聞いている。ゾディアトス導師の護衛であれば、何も心配はいるまい」
「六属性術士……」
全部で八つある魔術の属性のうちの六つを収める魔道士。
以前に一度だけ受けたリゲル導師の講義で、闇と光属性の異常さは怖いほど覚えさせられている。六属性が、闇と光を除いた六つであることは、さすがに無知な私でも察しがついた。
「クラインは、何種類使えるの?」
私は呟きとさほど変わらない小さな声で、前のクラインに訊ねた。
彼は振り向かず、ただ頭では少し考えているのか、しばらく歩調を緩いものにしてから、そのまま答える。
「六種類だ」
「そうか、やっぱそうだよな」
これまでクラインの魔術は、何度も目にしている。
中には不可解な効果を及ぼすものもあったけど、それらを含めて六種類が披露されていたに違いない。
スズメがいれば向こうは安心だし、こっちにもクラインがいるので、私も安心だ。
そう思うと、前を歩くクラインの猫背がちょっとだけ頼もしく見えた。
広い地下水道だ。適当に歩いていても、スズメ達と出会えないことはわかりきっていた。
お互いが反対方向に逃げた以上、再び出会うためには、また同じ道を引き返さなくてはならない。
すなわち、レトケンオルムがいる可能性のある区画に近付く必要がある。
危険は当然あるものの、出会う見込みの薄い区画を延々と二人で彷徨うよりは、そちらの方が良いだろうという、私とクラインで一致した方向性であった。
……ただ壁の傷を調査しに来たのに、次々と厄介な問題が立ちはだかってくる。
私はなんとなく荒事に慣れてしまったからある程度すんなりと受け入れられるけど、もしもこういうことに慣れていない普通の人が調査隊で派遣されていたらと思うと、空恐ろしいことである。
「壁に、鉛筆で書置きを残しておくぞ。“サードニクスを通り入口へ向かう”……と」
クラインはポーチに入っていた短い鉛筆で、カンテラを持つ高さの壁に、そう書き置きした。
これから一定間隔で、似たようなメモを残しておくのだという。
「……気付いてくれるかな」
「無いよりはマシだろう」
石灯の明かりを間近に寄せれば、壁に書かれた鉛筆文字は光を反射するので、気付けなくもない。
だが壁の傷を探しているような時ならばともかく、辺りの白い影に警戒する最中では、とても認識できないような、儚げな書置きであった。
しかし、これも一縷の望みのひとつだ。運良くスズメが気づいてくれることを祈っておこう。
私たちはここに書き記した通り、一度サードニクスと戦った場所に戻り、それから元来た道を引き返して、出口に向かうしかない。
「歩くぞ、ウィルコークス君。ただしその吊るしたカンテラは手に持っておけ。音をさせると厄介だ」
「あ、うん」
クラインの性格は、最低の最悪と表現してもお釣りが戻ってくるほど歪んでいるだろうけど、彼はその分を補うくらい知的で、行動力にも長けている。
属性術は六属性も習得している上に、姉との喧嘩のために光属性まで修めようというのだ。行動原理はどうかと思うが、その積極性の高さは紛れもない本物である。
私も、水の国にやってきてからは自分なりに慣れないことに打ち込んで、努力はしているつもりだ。
マコ導師の講義を受けて、難解な本を読んで、屋外では術の実践をやってみて。
ただ、それも休み休み。ソーニャと約束した日なんかは、講義が終わると早々に街へ繰り出すし、わずかなお金は本来なら学生らしく指導書を買うべきところを、ビールや屋台に注ぎ込んでいる。
彼が特別やりすぎなのだとはわかっていても、しかしクラインほど偏執的には、理学というものに真正面から取り組んでいないのも、確かな事実なのだ。
「ねえ、クライン」
「何だ」
緊迫した沈黙に弱気を誘われたのか、本当に気になったのかは定かではない。
ともかく、私はクラインに訊ねた。
「クラインは将来、何になりたいのさ」
「オレの将来を聞いてどうする」
「気になっただけ」
「何だそれは」
「そういうもんなんだよ。あるだろ、そういうの」
クラインはしばらく押し黙り、歩調を緩めた。
「……光属性術を習得する」
「いや、そういうことじゃなくて」
やっぱりなんというか、いちいちズレるんだよな。クラインって。
頭は良いはずなのに、不思議だ。
「学園とかの事じゃなくて。もっと先の、学園を出て、仕事についたらの話だよ」
「そういう意味か」
「そう」
普通なら一発で通じると思うんだけどなぁ。
クラインは再び考えたようで、今度は長めの沈黙が訪れた。
彼が考え悩んでいる姿というものは新鮮で、それはただの空白であるにも関わらず、私にとっては悪くない時間であった。
「……わからない」
「え?」
十字路に差し掛かり、クラインは表情の無い横顔を私に見せた。
「学園で理学を学び、見知らぬ術を習得し、本を熟読し、新たな戦術を取り入れ、魔具科に顔を出し、魔族科の手伝いに赴き……だが、その果てが、オレには見えない」
表情にこそ出ていないものの、しんみりと話すクラインはどこか、寂しそうだった。
「クリームや、ウィスプ母さまでさえ、オレには理学研究者の道が向いていると言う。学園内でも、その声は大きい」
「え、じゃあクラインは導師になるっていうこと……」
「けど、それって負けじゃあないか」
負け。よくわからない単語に、私は閉口した。
「オレは特異魔術を使わなくとも強くなれることを証明するために、クリームを超えられることを証明するために、力をつけている最中なんだ。術を覚えるのも、戦術を覚えるのも、全て、奴を倒すためで……」
「……」
「だが、学べば学ぶほどに、実践すればするほどに、オレの中にある潜在能力の傾向は、顕著に表れる。悔しいが、認めるしかあるまい。誰もが言う通り……オレはどちらかといえば、研究する導師向きの人間なのだと」
強さを求めると同時に見えてくる、自分の中の異なる才能。
その才能を存分に活かすべき場所は見えているが、彼はそれを目指すつもりがない。
彼は、勝たなければならないからだ。
それが歪んでいて、偏執的とは自覚していながらも、自分を貫くために。
「……ということは、クラインが将来何を目指すにしても、やっぱりクリームさんを倒さなきゃいけないのか」
「そうだ。奴を倒さなければ……オレは、過去と決別できない」
まるで親の仇みたいな言い方をしてるけど、多分両親は普通にご存命なのだろう。
彼の実家で何があったのかは、この際聞くことはあるまい。
しかし、彼の話を聞いていて、私の中で思うことはある。
以前は険悪な雰囲気になったきり、聞くことをやめていたことだったけど……二人きりだし、丁度いい機会だ。
私は思い切って、踏み込むことにした。
「……クラインは、自分の特異魔術を使おうと思ったことはないの?」
「ない」
私が思い切った割に、相手からは即答が返ってきた。
「何度でも言おう、特異性は個性などではない。所詮は理学的な欠陥だ」
「でもそれを上手く」
「ヒューゴはそう言うだろう。だがオレは特異魔術などというものは認めていないし、理学界の考え方だって未来永劫変わりはしない」
こちらを振り向くクラインは、眼鏡の奥の碧眼に冷徹な光を湛えていた。
正論。定説。自らの経験。
特異性を拒絶する彼の言葉は様々なものに裏打ちされて、確かな重みを持っている。
無学な私では、断言する彼を正面から言い負かすことなんてできないだろう。
けど私は、そんな彼に対して、どうしても言ってやりたいことがあるのだ。
「でもさ、クライン」
「何だ」
「それなら、どうして私に魔術を……闘い方を教えてくれたんだよ」
「……!」
クラインの目が、強い驚きに見開かれる。
それは私が初めて見る、彼の表情。
「特異魔術に可能性が無いなんて言うなら、どうして……」
「黙れ」
クラインは鋭い目で睨んだまま、私の両肩を強く掴んだ。
魔力を込めた万力のような彼の握力に、私は声も出せずに、肺と喉の中だけで呻く。
突然の彼の暴力に呆気に取られたのも束の間、クラインは私の肩を掴んだまま、格子戸が据えられた狭く短い通路の窪みへと、私を押し込んでゆく。
彼の腕力でされるがままに壁へと押し付けられて、そして、クライン自身もまた、私に強く身体を密着させ、押し付けてきた。
「ちょっ……」
ぎらつく至近距離の眼差しに、荒い息遣い。
ジャケット越しに当たる私の胸は、それは私のものか彼のものか、速く強い心臓の鼓動を感じ取っていた。
「……クラ」
「黙れ」
数センチ手前まで迫ってきたクラインの必死の形相に、私は非難の言葉さえ忘れてしまった。
ただ唐突な暴力に対する戸惑いと、それゆえの恐怖が、思考と呼吸と心拍を支配する。
だが沈黙によって次第に頭が冴えるとともに、私の中で強い怒りと不満が、沸々と込み上げてきた。
なんだよ、これは。
ちょっと変な事を言われたからって、何もこうまですることはないんじゃないか。
どうして私がこんなことされなきゃいけないんだ。
私が怒りに任せて魔力を噴出させようと拳を握った時、ギラギラした目で私を睨むクラインの肩ごしに、大きな影が姿を現した。
「……」
「……」
その時、何故クラインが私を格子戸の窪みへと押し込んだのかが、ようやく理解できた。
クラインの背後で、八本の足を壁や天井に這わせて歩く白い巨体、レトケンオルムが、水路を通過していったのだ。
ペタペタと控えめな音を立てて壁を歩くレトケンオルムの不気味な姿に、私は彼が言う通り、彼の眼力が訴える通り、全力で黙り込んだ。
レトケンオルムの十メートルを超えるであろう巨体が、ゆっくりと横切ってゆく。
ゆっくりに見えるものの、全体的な速さは私たちがどう早歩きしても追い付けない程度だ。
もしも私たちがこのレトケンオルムに背後を取られたとしたら、音を立てないように歩きながら、しかし奴の速さに負けないように、最大限脚に力を入れなくてはならないだろう。
……仮定を想うと、明るい未来は見えてこない。
沢山の足は、その一本ずつが交互に歩みに用いられており、壁や床や天井に着くごとにぺたぺたと湿っぽい音を鳴らすので、近くではその音が、無数の奇妙な“何か”が跳ねているように聞こえてしまう。
間近で見るレトケンオルムの腕は薄めの象牙色で、長い脚は外を出歩かない老人の腕ように白く、筋張っていた。
気持ち悪い。
それが、レトケンオルムが過ぎ去ってゆくまでに私が抱いた唯一の感想だった。
「ふむ」
レトケンオルムの気配が消えてしばらく経って、クラインはもう不要だとばかりに私の肩を押しのけて、水路に顔を出した。
左右を素早く確認して、彼は心底詰まってたであろう一息をつく。
「死ぬかと思った」
「私も」
もしも私が不用意に声を出していたら、どうなっていたことか。
レトケンオルムの存在に気付かなかっただけに私は気楽で良かったが、私の背後にその姿を認めていたクラインにとっては、さぞ恐ろしかったことだろう。
「……思った以上にレトケンオルムが動き回っているようだ。あっちに向かったならしばらくは出くわすこともないだろうが、これからは慎重に歩かなければな」
「ああ、そうだね」
レトケンオルムはあの巨体でいて、ほとんど物音を立てずに移動する。
ある程度近づかなければ姿は見えないし、通りの角でバッタリと出くわした時には、最悪だ。
これからはより一層、音に気を付けて歩かなければならないだろう。
私とクラインはそれまでの会話を謹み、再び黙々と歩き始めた。
時々後ろを気にしながらも、黙って歩いていればすぐに、目的の場所に辿り着けた。
動かなくなったサードニクスが横たわり、レトケンオルムが出現し、魔道士の男が溶けて死んだ場所である。
一度レトケンオルムと遭遇して遠回りをしてしまったが、なんとか最初の不意打ち以降は沙汰もなく、ここまでやって来られた。
「うっわ……」
未だ、強い酸と人が溶かされた匂いは鼻につく。通路上に溜まっているあの水たまりが、悪臭の根源だろう。
男の服の端から握っていた杖に至るまで、男の証と成りうる全てが酸に溶かされているようで、辺りには何も落ちていない。
クラインも魔道士の男の持ち物を探していたのだろう。
しばらく近くを見回していたが、目当てのものが見つからなかったようで、水路内に響かないよう小さな舌打ちを零していた。
「レトケンオルムを召喚したのは、偶然ではないな。証拠隠滅が図れるよう、隔離したレトケンオルムが潜む場所に、自らを投げ込んだに違いない」
「自殺、か」
「不愉快極まりないことだが、水国の魔道士には、家柄というものがある。後ろ暗い自らの行いで、家名に傷をつけるわけにはいかなかったのだろう。衝紋を記録されないように火属性ばかり使っていたのが、その証拠だ」
顔や魔力、つまり遁衝紋を見られてしまえば、どのような人物かが特定されてしまうかもしれない。
あの魔道士の男は、それだけは絶対に避けたかったのだろう。ゴーレムをけしかけて、属性に気を遣いながら戦って、自分の存在さえ消して……。
「……んなことするくらいなら、最初からマトモに生きろってんだ」
執念は、認める。
自分の家族や、先祖を守ろうという堅い意志は、良いだろう。認めてやろう。
けどそうして人の誇りを気にかけることができたのなら、どうしてこんな、あくどい事に手を染めたんだ。
魔術も使えて、複雑そうなゴーレムも作れて、地下に籠って……そんなことができるなら、いくらでもこの世の中、生きていけただろうによ。
「水国の魔道士には、下らない矜持があるという事なのだ。ウィルコークス君」
「……矜持ねぇ」
クラインはゴーレムの瓦礫を調べながら、無感情にそう言った。
いや、くだらないって、そこまで無慈悲に一蹴してやるほど憤ってはいないけどさ。
「む」
「ん?」
そうこうしているうちにクラインが何かを見つけたらしく、私に目配せして、多分“来い”と言った。
手招きはされていないが私が近づいてゆくと、彼は壁を指さして、ニヤリと微笑んだ。
「おお」
私も思わず、笑みを浮かべてしまった。
壁には几帳面な文字で、“最初に使った猫の格子戸に向かっています 四人”と書かれていたのだ。
「これ、きっとスズメの字だよ」
こんな丸っこい文字をヒューゴやライカンが書くとも思えないし、ボウマがここまで丁寧に書けるとも思えない。スズメが書いたに違いない。
それに、最後に書いてある“四人”という文字。
「どうやら、あちらは全員揃っているようだな」
「……良かった」
皆、生きているんだ。
誰もレトケンオルムにやられていない。
全員、無事でいてくれたのだ。
「良かったぁ」
「……? おい」
安心したら、思いがけず涙が出てきてしまった。
誰かが死んでいたら、誰かが欠けていたら。そんな最悪な想像もしてしまったが、みんな無事らしい。
今の私にとって、これ以上の嬉しい書置きは無いだろう。
私は本当にほんの少しの間だけ、しばらく怪訝そうな顔のクラインに見守られながら、感情から溢れ出た涙を拭っていた。
「……大袈裟だな」
ああ、もう。
こいつは本当に、わっかんないやつだなぁ。




