箪014 払い飛ばす足
通路の向こうから来るレトケンオルムを睨む。
この体勢になっては、もう後戻りは不可能だ。
地面を突いたこのピックに、私の全てを賭けるしかない。
「“スティ・ラギロ・アブローム”!」
今や慣れ親しんだ詠唱と理学式に魔力が流れる。
床から石柱がグンと伸びて、トンネルのアーチがかった天井の曲面にぴったりと張り付くように、真上いっぱい成長した。
二メートルの歩道のギリギリ水路いっぱいまで寄せて生み出した石柱だ。
こいつをかわして進むのは、レトケンオルムの本体の大きさと足の数から考えて、まず不可能。
相手が盲目であれば、意図的に避けるのも難しいはずである。
「ふッ」
アブロームさえ成功すれば、こちらのものだ。
石柱が天井いっぱいまで伸びたのを確認すると、私は素早くデムピックを構え直し、今度は石柱に突き立てた。
石の表面が砕け、地に落ち、ピックの先端が内部に埋まる。
レトケンオルムの水気を帯びた足音がすぐそこまで迫るが、ここが正念場だ。
「ウィルコークス君!」
もう後には退けねえんだよ。
クラインの怒号を無視して、私は石柱に魔力を注いだ。
「“スティ・ガミル・ステイ・ボウ”……」
魔力がピックから石柱へ流れ込み、石柱の頂点部分で術は発動した。
通路の向きに沿うようにして、天井に接した石柱の頂点部分から、岩の牙が突出する。
つまり、ただ横向きの梁が伸びただけである。石柱に対して、ただ垂直に。
岩の槍は、射線上に人がいたならば、貫いて余りある勢いで急成長したが、その範囲内にはまだレトケンオルムの姿がない。
が、これでいい。これでいいのだ。
「“スティ・ガミル”……“ステイ・ボウ”!」
仕上げにもう一本、今度は石柱の反対側にもガミルを突出させる。
全体の見た目は、まるで直歯の鶴嘴。
頂点部分から丁字に伸びる二本の岩は、見方を変えれば十メートルほどの、重く巨大な一本の石柱だ。
それは一本の石柱によって支えられ、天井に貼りつけられた小規模な“岩盤”も同じことだ。
「っしゃ、逃げろッ!」
二本目が伸びたのを確認して、私はすぐに身を翻した。
ほぼ途切れなく、早口で呪文を巻くし立てたとはいえ、魔術は立派に三発分。
私が足を止めた分のツケを取り立てに、レトケンオルムはすぐそこまで迫っていた。
交互に動く八本足の、途切れない雑踏のような足音。
間近に迫っているからこそわかる、怪物の鰓が発する荒い息遣い。
次の瞬間には大きな口が私に食らいつくかという絶望的なこの一瞬、背後で岩が砕ける大きな音が響き渡った。
バレガヤリ。
主に、坑道の岩盤を支える坑木が折れることによって発生する落盤事故のひとつである。
規模は大小様々だが、いずれも岩盤が垂直に落ちるという大事故ではなく、左右のどちらかに傾くようにして落ちてくる形の事故を指す。
その際には左右に立てた坑木の片方だけが無残に折れて、岩盤が斜めに落ちるため、層がバレて返る、バレガヤリという呼び名がつけられた。
巨大な岩盤は、不均衡な自らの重さによって崩れる。
それは魔族であっても同じこと。
「そうか、わかったぞウィルコークス君」
レトケンオルムの足の一本が私の石柱を薙ぎ砕き、破片が宙に舞う。
石柱を真っ二つにへし折る魔族の脚力には底知れない恐怖を覚えるが、今はその馬鹿力も、作戦を仕上げるための好都合な要素でしかない。
天井と床とでその場に固定されていた石柱は、中ほどから折れて崩れ落ちる。
普通の金属魔術であれば、なぎ倒されれば芯を傷つけられて消滅するだろう。
けど私の魔術の場合は、砕いたところで全てが消滅することはない。
天井で横倒しに張り付けられていた長さ十メートルの蜂起の石柱は、折られながらもその身を残した石柱と共に、そのまま下へ落下するのだ。
壁を這う細い四本の脚の上へと、真っ逆さまに。
「ェオッ」
横倒しに落下する石柱の圧力は、レトケンオルムの細長い脚を払うには十分な重さがあった。
どんな大男だって、真正面からの拳は防げても、足を掬う一発に耐えるのは難しいものだろう。
一本、また一本とレトケンオルムの足は石柱の重さを支えきれずに払い落とされ、辛うじて走りながらも、見る間にその体勢を崩してゆく。
左上から数えて三本の足は壁から滑り落ちて、もはや無力と化していた。
今レトケンオルムがその巨体を支えられているのは、唯一左下に残った細い一本の足の必死の努力によるものだろう。
「“ティレブ・シェット”」
そしてその最後の一本を崩すのは、クラインの仕事だ。
遠距離から放たれた黒光りする大きな鉄の杭は風を切り、真下から巨体を支える最後の足をへし折って、それを見事に打ち払った。
「エォ……」
レトケンオルムには、まだ足が四本残されている。
しかし八本の足で支えられていた体を、その半分の四本で支えられるとは限らない。
失った足が全て右半分に偏っているならば、なおさらだ。
壁を押し出すように伸ばしていた左足は、支えの無い右側へと重心を傾ける仇となり……。
「崩れ落ちろ、怪物め」
そしてレトケンオルムは、体を半回転させるようにして、不格好な体勢で墜落した。
真下は幅の広い水路。とはいえ、巨大なレトケンオルムにとっては中途半端な大きさの、窮屈な側溝のようなものだろう。
落とし穴にかけられたも同然の体勢で、レトケンオルムはいくつかの足と半身を水路の中にうずめたまま、その場を動くことができなかった。
落下の大きな衝撃と身悶えるレトケンオルムの足掻きが、荒波のような飛沫となって私に降りかかる。
水の中には多分、明るい場所で見れば顔を顰めるようなものも混ざっているだろう。
「やった……!」
そんな得体の知れない地下水道水を顔に浴びながらも、しかし私は大物を獲った達成感に震え、思わずその場で立ち止まってしまった。
咄嗟に思いついた作戦が上手くいった。
その場の機転で、魔術で、Aランクの魔族を手玉に取った。
この喜びは、何に喩えようもないほど、デカかった。
「馬鹿、立ち止まるな! まだ生きてるんだぞ!」
「あっ、やべ」
既にクラインは通路の最奥部まで走っていたらしい。
急かす声が狭い空間に何度も反響して、ここまで聞こえてきた。
『いつまた起き上がるかわからん! さっさと来い!』
「ロッカぁ、ぼさっとすんなよぉ!」
「ごめん、すぐ行く!」
皆も心配そうに私を呼んでいる。
そりゃそうか。こんな大きな怪物が近くにいれば、他人だってやきもきするだろうな。
私はクラインの後を追うように、急いで一歩を踏み出した。
「っ、あれっ……」
踏み出した。
私の気持ちの中では。
「あれ、なんで……」
けど実際の私の右足は、その場から動こうとしない。
靴底が質の悪い膠を踏んでしまったように、床に張り付いたまま動かないのだ。
「ウィルコークス君、何をしてるんだ!」
「足が、離れないっ……!?」
何度引いても、回そうとしても、びくともしない。
まるでブーツが、床と一体化してしまったかのようだ。
「ェォオオォオッ……」
「……う!」
その原因は、すぐにわかった。
右足のブーツの底からわずかにではあるが、煙が上がっていたのである。
その生臭さと、危険な異臭には覚えがあった。
私はゆっくりと振り向き、真後ろのヤツに顔を向ける。
「ォオオォッ」
「てめぇ……畜生てめぇ!」
酸だ。レトケンオルムがこの期に及んで、口からダラダラとまるでヨダレのように、酸を流し込んでいやがった。
強力な酸は私のブーツの底を溶かし、一部を強力に、床に固着させてしまったのだ。
「くっ、そ……!」
「ロッカさん!?」
とにかくこのブーツは、もう駄目だ。脱ぎ捨てて片足跳びをしてでも、さっさとここから逃げるしかない。
ところが、探索だからとブーツのベルトを全てきつく締めておいたのが仇になっている。
これをほどくには、まだもうちょっとだけ時間がかかりそうだ。
「あ……」
果たして私は残りの二本のベルトを……高く掲げられたレトケンオルムの前足が振り下ろされるまでに、解除できるだろうか。
「ウィルコークス!」
答えは、そうだな。
迫りくるその足をぼさっと眺めている時点で、決まっていたのだろう。
筋張った強靭な白い足が、私の頭に振り落ちた。
「“スティ・レット”ォ!」
だが完全に顔を覆っていた影は、勢いよく飛来した一本の鉄針に突き刺され、動きを止めた。
「え……!?」
前足は衝突の影響により、わずかに後退している。
だが、レトケンオルムの力によって振り下ろされていた足だ。完全に後ろに持っていかれることはなく、再び私をひねり潰そうと差し出され……。
「“スティグマ・スティ・レット”ォ!」
そして、また後ろへと弾き返された。
突き刺さった鉄針が再び推進力を与えられ、もう一度足を穿ったのである。
私は魔術について全くの無知なのだが、この術にだけは覚えがある。
「ぉおおい、アタシが抑えててやってんだからさっさと戦線離脱してくれませんかねぇウスノロさんよぉ……!」
「ナタリー!?」
振り向くと、すぐ五メートルちょっとの場所に、なんとナタリーが立っていた。
黒く丈の短いドレスコルセットに、棘つきの鉄製メイス。
臥来系の白髪に、意地の悪そうな人相。
間違いない、こんな柄の悪そうな女は他にいるはずがない。
本物のナタリーだ。
「どうしてここにィ、とかバカみてーなこと訊く前にさっさと来いやアホ女! ここの格子戸は開いてンだ、さっさとズラかんぞ!」
「お、おおッ!」
憎まれ口を叩きながらも、ナタリーは重いメイスを振り回して鉄針を放ち続ける。
正確に打ち込まれる重質量の針はレトケンオルムの足による攻撃をことごとく跳ね返し、私がブーツを脱ぐまでの時間を稼いでくれた。
「っしゃ、よっ、ほっ……!」
なんでこんな場所にナタリーが。
なんで鍵のついた格子戸が。
そんな疑問は、今の命と比べればこの際どうだっていい。
私は左足だけでひょこひょこ跳ねながら、ナタリーと一緒に開かれた格子戸へと退散した。
「エオッ、エオオオオオッ!」
背後からは、次第に這い上がり始めたレトケンオルムが、上体を引きずりながらこちらに向かってくる。
「っしゃぁ!」
けど、一歩私の方が早かった。
私は片足に魔力を込めて格子戸に飛び込み、狭い階段通路の中へと逃げおおせたのだ。
「おわっ!」
「いてっ!? んだテメェ、恩ってもんを知らねえのかよ!」
勢い余ってナタリーに抱きついてしまったが、この際それも、どうだっていいことだ。
「エォッ、ォオオオッ!」
格子戸の向こう側では、レトケンオルムが大口を開けて鳴いている。
口からは酸性の涎をゴボゴボとこぼしているが、特別製の格子戸は溶かせないらしく、これ以上こちらに踏み入ってくる気配はない。
助かったのだ。
レトケンオルムから、無事に逃げ切れたのである。
「ロッカ」
私が格子戸越しにレトケンオルムの白い顔に顔を引き攣らせていると、不意に背後から、首元に手を回された。
一瞬、ナタリーに首でも絞められ殺されるのかと身をこわばらせたが、どこかで嗅いだことのある柔らかな香りに、勘違いの緊張はすぐに解けた。
「え……」
「無事でよかった……!」
代わりに視界に飛び込んできたのは、もっと大きな疑問だ。
目に涙を浮かべて私を強く抱きしめたのは、ナタリーではなかったのである。
それは、いつも学園で顔を合わせ、時々一緒に買い物に出かける、私の親友。
ここにいる理由が全く見当たらない、ソーニャ=エスペタルだったのだ。
「な……なんで?」
私を抱きしめてくるソーニャの顔の横で疑問を口にすると、ナタリーは呆れたような、疲れたような顔で、私と同じように首をかしげていた。
ともかく、命は助かったみたいなんだけど……?




