婚約者は、私を知らない
あのパーティーから、三日が経った。
大学の講義を終えた私は、図書館で借りた本を鞄にしまいながら、小さく息をついた。今日も、なかなか充実した一日だった。
経営学部の二年生になってから、専門的な講義が増えている。覚えることも考えることも多いけれど、学んだ知識が実際の企業経営にどう結びつくのかを知るのは、とても面白い。特に最近は、医療分野における事業運営に興味があった。
私たちが暮らすこの世界には、人間のほかに、黒竜族をはじめとする古種と呼ばれる種族が存在している。古種には、人間とは異なる身体能力や、不思議な力を持つ者も多い。けれど、特別な力を使えるのは古種だけではない。
一般にはほとんど知られていないけれど、人間の中にも、稀に生まれつき特殊な能力を持つ者がいる。その一つが、治癒能力だ。傷ついた身体を癒やす力で、能力の強さや治せる範囲には個人差がある。一般的には外傷の治療が中心で、重い病気や複雑な損傷を治すことは難しいとされている。
私の生まれた白藤家は、代々そんな治癒能力者を輩出してきた家系だ。ただし、私たちが治癒能力を持つことは、限られた関係者しか知らない。白藤家は医療関連事業も幅広く手がけていて、治癒能力と現代医療の両方に深く関わっている。
そして、私自身も治癒能力を持っている。
初めて力が現れたのは、五歳の頃だった。転んで膝を擦りむいたとき、傷に手を当てると、淡い白銀の光がこぼれ、痛みも傷も消えてしまったのだ。あのときは驚いたけれど、治癒能力者の家に生まれた私にとって、傷を治せること自体は特別珍しいことではなかった。
ただ、治癒の力は万能ではない。使えば体力を消耗するし、一人で助けられる人の数にも限りがある。だからこそ、私は医療を支える仕組みにも興味を持った。
病院の運営や医療技術の普及、必要な人に適切な医療を届けるための仕組み。そうしたことを学び、いつか実家の事業にも携わりたいと思っている。治癒能力だけでは届かない場所にも、別の形で手を差し伸べられるかもしれないから。
そんなことを考えながら校舎を出たところで、スマートフォンが震えた。画面に表示された名前を見て、足を止める。
――悠真。
幼い頃からの婚約者だった。
『今、大学か?』
短いメッセージに、私は返信する。
『うん。講義が終わったところだよ』
すぐに既読がついた。
『じゃあ、今から会えるか? 近くまで来てる』
少し迷ったものの、私は了承した。悠真には、きちんと話したいことがある。それは、もう何度も伝えてきたことだったけれど。
***
「乃愛、こっち」
大学近くのカフェに入ると、窓際の席に座っていた悠真が手を上げた。
一条悠真。二十二歳。
一条家の一人息子で、私の二つ年上。幼い頃から家族ぐるみの付き合いがあり、私たちは私が六歳の頃に婚約した。
昔は、一緒に遊ぶことも多かった。優しくて頼りになるお兄さんのような存在だったと思う。けれど、成長するにつれて、少しずつ考え方が合わなくなっていった。
「待たせちゃった?」
「いや、今来たところ。何か飲むか?」
「ありがとう。紅茶にするね」
注文を済ませると、悠真は私の鞄に目を向けた。
「また勉強してたのか?」
「うん。今日は医療経営についての資料を読んでたの」
「相変わらず真面目だな」
悠真は笑いながら、コーヒーを口に運ぶ。
「でも、そんなに頑張らなくてもいいんじゃないか?」
「どうして?」
「だって、卒業したら結婚するんだろ?俺の妻になるんだから、無理して仕事を覚える必要なんてないよ」
……また、その話。
私は膝の上で、そっと手を握った。
「悠真。前にも話したけど、私は結婚しても仕事がしたいの」
「わかってるって。でも、別に働かなくても生活には困らないだろ?」
「そういうことじゃないの」
できるだけ穏やかに答える。
「私は、自分で学んだことを生かしたいの。白藤家の仕事にも関わってみたいし、医療に携わる人たちを支える仕事がしたいと思ってる」
「乃愛は優しいからな。でも、そういう難しいことは専門の人間に任せればいいだろ?」
悪気がないことは、わかっている。悠真はきっと、私に苦労をさせたくないのだろう。何不自由なく暮らせることが、幸せだと思っているのかもしれない。
でも、私が望んでいるのは、そういうことじゃない。
「……悠真。私の話、ちゃんと聞いてる?」
「聞いてるよ。乃愛が頑張り屋なのは昔から知ってるし」
「だったら……」
言いかけて、口を閉じた。このまま話しても、きっと同じことの繰り返しになる。
それでも、伝えなければいけない。
「悠真。私、やっぱり婚約を解消したい」
悠真の表情が、わずかに曇った。
「……またその話か」
「また、じゃないよ。私はずっと本気で言ってる」
「乃愛、落ち着けって。そんなに深刻に考えることじゃないだろ」
「深刻なことだよ。私たちの将来の話なんだから」
悠真は困ったように笑った。
「俺たち、昔からずっと一緒だっただろ?今さら婚約をやめるなんて、変だって」
「昔から一緒だったことと、これからも夫婦でいることは別だと思う」
「……乃愛」
少しだけ、声が低くなった。
「そんなに意地を張るなよ。結婚したら、きっと気持ちも落ち着くって」
胸の奥が、静かに冷えていく。
意地を張っているわけじゃない。ただ、自分の人生を、自分で選びたいだけなのに。
「……今日は、もう帰るね」
私は席を立った。
「乃愛、待てよ」
「ごめん。でも、私の気持ちは変わらないから」
悠真は何か言いかけたけれど、結局、引き止めることはなかった。
店を出ると、午後の風が頬を撫でた。
昔は、悠真と話すのが楽しかった。私が新しいことを覚えると、一緒に喜んでくれた。何かに挑戦すると、頑張れと言ってくれた。
いつからだろう。私の「やりたいこと」を、あんなふうに笑って受け流すようになったのは。
もう、昔の関係には戻れないのかもしれない。そう思うと、少しだけ寂しかった。
***
帰宅して自室に戻った私は、机の上に鞄を置いた。気持ちを切り替えようと、講義の資料を取り出す。けれど、なかなか集中できない。
ふと、三日前のパーティーを思い出した。
突然の騒ぎ。頬に傷を負っていた男性。
そして、深い黄金色の瞳。
――久遠朔夜さん。
久遠家の次期当主として知られる人物だった。父からも何度か名前を聞いたことがある。
あんな状況でも落ち着いていて、怪我を治した私に丁寧にお礼を言ってくれた。
『ですが、今は仕事の話より、あなたとお話ししたいですね』
その言葉を思い出して、少しだけ頬が緩む。
ずいぶん自然に、あんなことを言える人だった。きっと、女性の扱いにも慣れているのだろう。
それでも、不思議と嫌な感じはしなかった。こちらの都合を伝えると、無理に引き止めることもなく、穏やかに見送ってくれたからかもしれない。
……また、お会いすることもあるのかな。
そう考えてから、私は小さく首を振った。久遠家の次期当主と、大学生の私。家同士のつながりはあっても、そう簡単に会う機会があるとは思えない。
それに、今は自分のことで精いっぱいだ。
私は机に向き直り、開いた資料へ目を落とした。まずは、目の前のことを一つずつ。自分が望む未来のために、できることをしていこう。
そう決めたとき、スマートフォンが短く震えた。父からのメッセージだった。
『乃愛、今度の週末に少し時間を取れるか?仕事のことで、意見を聞きたいことがあるんだ』
私は思わず目を輝かせた。父が、仕事について私に意見を求めてくれるなんて。
『もちろん!ぜひ聞かせてください』
すぐに返信すると、ほどなくして返事が届いた。
『ありがとう。来月予定している久遠グループとの協議についても、少し意見を聞きたいと思っている』
……久遠グループ?
私は画面を見つめた。つい先ほど思い出していた名前が、こんなところで出てくるなんて。
偶然って、あるものなのね。
そう思いながら、私は父から届いたメッセージをもう一度読み返した。
このときの私は、まだ知らなかった。
その偶然の向こうで、再会を心待ちにしている黒竜がいることを。




