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黒竜の御曹司は、運命の伴侶を溺愛する  作者: ルミ


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3/4

婚約者は、私を知らない

 あのパーティーから、三日が経った。


 大学の講義を終えた私は、図書館で借りた本を鞄にしまいながら、小さく息をついた。今日も、なかなか充実した一日だった。


 経営学部の二年生になってから、専門的な講義が増えている。覚えることも考えることも多いけれど、学んだ知識が実際の企業経営にどう結びつくのかを知るのは、とても面白い。特に最近は、医療分野における事業運営に興味があった。


 私たちが暮らすこの世界には、人間のほかに、黒竜族をはじめとする古種と呼ばれる種族が存在している。古種には、人間とは異なる身体能力や、不思議な力を持つ者も多い。けれど、特別な力を使えるのは古種だけではない。


 一般にはほとんど知られていないけれど、人間の中にも、稀に生まれつき特殊な能力を持つ者がいる。その一つが、治癒能力だ。傷ついた身体を癒やす力で、能力の強さや治せる範囲には個人差がある。一般的には外傷の治療が中心で、重い病気や複雑な損傷を治すことは難しいとされている。


 私の生まれた白藤家は、代々そんな治癒能力者を輩出してきた家系だ。ただし、私たちが治癒能力を持つことは、限られた関係者しか知らない。白藤家は医療関連事業も幅広く手がけていて、治癒能力と現代医療の両方に深く関わっている。


 そして、私自身も治癒能力を持っている。


 初めて力が現れたのは、五歳の頃だった。転んで膝を擦りむいたとき、傷に手を当てると、淡い白銀の光がこぼれ、痛みも傷も消えてしまったのだ。あのときは驚いたけれど、治癒能力者の家に生まれた私にとって、傷を治せること自体は特別珍しいことではなかった。


 ただ、治癒の力は万能ではない。使えば体力を消耗するし、一人で助けられる人の数にも限りがある。だからこそ、私は医療を支える仕組みにも興味を持った。


 病院の運営や医療技術の普及、必要な人に適切な医療を届けるための仕組み。そうしたことを学び、いつか実家の事業にも携わりたいと思っている。治癒能力だけでは届かない場所にも、別の形で手を差し伸べられるかもしれないから。


 そんなことを考えながら校舎を出たところで、スマートフォンが震えた。画面に表示された名前を見て、足を止める。


 ――悠真。


 幼い頃からの婚約者だった。


『今、大学か?』


 短いメッセージに、私は返信する。


『うん。講義が終わったところだよ』


 すぐに既読がついた。


『じゃあ、今から会えるか? 近くまで来てる』


 少し迷ったものの、私は了承した。悠真には、きちんと話したいことがある。それは、もう何度も伝えてきたことだったけれど。


 ***


「乃愛、こっち」


 大学近くのカフェに入ると、窓際の席に座っていた悠真が手を上げた。


 一条悠真。二十二歳。


 一条家の一人息子で、私の二つ年上。幼い頃から家族ぐるみの付き合いがあり、私たちは私が六歳の頃に婚約した。


 昔は、一緒に遊ぶことも多かった。優しくて頼りになるお兄さんのような存在だったと思う。けれど、成長するにつれて、少しずつ考え方が合わなくなっていった。


「待たせちゃった?」

「いや、今来たところ。何か飲むか?」

「ありがとう。紅茶にするね」


 注文を済ませると、悠真は私の鞄に目を向けた。


「また勉強してたのか?」

「うん。今日は医療経営についての資料を読んでたの」

「相変わらず真面目だな」


 悠真は笑いながら、コーヒーを口に運ぶ。


「でも、そんなに頑張らなくてもいいんじゃないか?」

「どうして?」

「だって、卒業したら結婚するんだろ?俺の妻になるんだから、無理して仕事を覚える必要なんてないよ」


 ……また、その話。


 私は膝の上で、そっと手を握った。


「悠真。前にも話したけど、私は結婚しても仕事がしたいの」

「わかってるって。でも、別に働かなくても生活には困らないだろ?」

「そういうことじゃないの」


 できるだけ穏やかに答える。


「私は、自分で学んだことを生かしたいの。白藤家の仕事にも関わってみたいし、医療に携わる人たちを支える仕事がしたいと思ってる」

「乃愛は優しいからな。でも、そういう難しいことは専門の人間に任せればいいだろ?」


 悪気がないことは、わかっている。悠真はきっと、私に苦労をさせたくないのだろう。何不自由なく暮らせることが、幸せだと思っているのかもしれない。


 でも、私が望んでいるのは、そういうことじゃない。


「……悠真。私の話、ちゃんと聞いてる?」

「聞いてるよ。乃愛が頑張り屋なのは昔から知ってるし」

「だったら……」


 言いかけて、口を閉じた。このまま話しても、きっと同じことの繰り返しになる。


 それでも、伝えなければいけない。


「悠真。私、やっぱり婚約を解消したい」


 悠真の表情が、わずかに曇った。


「……またその話か」

「また、じゃないよ。私はずっと本気で言ってる」

「乃愛、落ち着けって。そんなに深刻に考えることじゃないだろ」

「深刻なことだよ。私たちの将来の話なんだから」


 悠真は困ったように笑った。


「俺たち、昔からずっと一緒だっただろ?今さら婚約をやめるなんて、変だって」

「昔から一緒だったことと、これからも夫婦でいることは別だと思う」

「……乃愛」


 少しだけ、声が低くなった。


「そんなに意地を張るなよ。結婚したら、きっと気持ちも落ち着くって」


 胸の奥が、静かに冷えていく。


 意地を張っているわけじゃない。ただ、自分の人生を、自分で選びたいだけなのに。


「……今日は、もう帰るね」


 私は席を立った。


「乃愛、待てよ」

「ごめん。でも、私の気持ちは変わらないから」


 悠真は何か言いかけたけれど、結局、引き止めることはなかった。


 店を出ると、午後の風が頬を撫でた。


 昔は、悠真と話すのが楽しかった。私が新しいことを覚えると、一緒に喜んでくれた。何かに挑戦すると、頑張れと言ってくれた。


 いつからだろう。私の「やりたいこと」を、あんなふうに笑って受け流すようになったのは。


 もう、昔の関係には戻れないのかもしれない。そう思うと、少しだけ寂しかった。


 ***


 帰宅して自室に戻った私は、机の上に鞄を置いた。気持ちを切り替えようと、講義の資料を取り出す。けれど、なかなか集中できない。


 ふと、三日前のパーティーを思い出した。


 突然の騒ぎ。頬に傷を負っていた男性。


 そして、深い黄金色の瞳。


 ――久遠朔夜さん。


 久遠家の次期当主として知られる人物だった。父からも何度か名前を聞いたことがある。


 あんな状況でも落ち着いていて、怪我を治した私に丁寧にお礼を言ってくれた。


『ですが、今は仕事の話より、あなたとお話ししたいですね』


 その言葉を思い出して、少しだけ頬が緩む。


 ずいぶん自然に、あんなことを言える人だった。きっと、女性の扱いにも慣れているのだろう。


 それでも、不思議と嫌な感じはしなかった。こちらの都合を伝えると、無理に引き止めることもなく、穏やかに見送ってくれたからかもしれない。


 ……また、お会いすることもあるのかな。


 そう考えてから、私は小さく首を振った。久遠家の次期当主と、大学生の私。家同士のつながりはあっても、そう簡単に会う機会があるとは思えない。


 それに、今は自分のことで精いっぱいだ。


 私は机に向き直り、開いた資料へ目を落とした。まずは、目の前のことを一つずつ。自分が望む未来のために、できることをしていこう。


 そう決めたとき、スマートフォンが短く震えた。父からのメッセージだった。


『乃愛、今度の週末に少し時間を取れるか?仕事のことで、意見を聞きたいことがあるんだ』


 私は思わず目を輝かせた。父が、仕事について私に意見を求めてくれるなんて。


『もちろん!ぜひ聞かせてください』


 すぐに返信すると、ほどなくして返事が届いた。


『ありがとう。来月予定している久遠グループとの協議についても、少し意見を聞きたいと思っている』


 ……久遠グループ?


 私は画面を見つめた。つい先ほど思い出していた名前が、こんなところで出てくるなんて。


 偶然って、あるものなのね。


 そう思いながら、私は父から届いたメッセージをもう一度読み返した。


 このときの私は、まだ知らなかった。


 その偶然の向こうで、再会を心待ちにしている黒竜がいることを。

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