黒竜は、運命に出会う
運命の伴侶に出会ったら、どうするのか。
昨夜、柊にそう尋ねられたとき、俺は「そのときに考える」と答えた。今思えば、ずいぶんと呑気な返事だった。
まさか、その翌日に答えを知ることになるとは、思ってもいなかったのだから。
***
「朔夜様。お顔の色が優れませんが、本当に大丈夫ですか?」
ホテルのエントランスに足を踏み入れたところで、柊が声をかけてきた。
「問題ない」
「昨夜も結局、お休みにならなかったでしょう」
「少しは眠った」
「一時間を睡眠と呼ぶのは、いかがなものかと」
隣を歩く柊の声には、隠しきれない呆れが滲んでいる。
ここ数日、大きな案件が重なっていた。今朝になってようやく一区切りついたものの、まともな睡眠を取る時間はなかった。
もっとも、黒竜の身体は人間より頑丈だ。多少の睡眠不足で倒れるほど、俺は軟弱ではない。
「会合が終われば休む」
「そのお言葉、今度こそ信じてもよろしいのですね?」
「ああ。善処する」
「……信用できませんね」
柊のため息を聞き流しながら、俺は会場へ向かった。
今夜の会合は、各界の有力者が集まる交流の場だ。企業経営者や政財界の関係者、その家族たちも招かれている。
広々としたホールには、華やかな衣装に身を包んだ招待客が集い、穏やかな音楽が流れていた。
「久遠様。本日はお越しいただき、ありがとうございます」
主催者に挨拶を済ませると、次々に声をかけられる。
事業の話。新たな提携の打診。形式的な世間話。いつもと変わらない時間が過ぎていった。
ようやく人の輪から離れた頃には、少しばかり疲労が増していた。
「朔夜様、少々よろしいでしょうか」
柊が近づき、声を落とす。
「先ほどの件で、先方の担当者から確認したいことがあるそうです」
「急ぎか?」
「はい。私が対応してまいります」
「任せる」
柊は一礼すると、人混みの向こうへ姿を消した。
俺はグラスを手に、ホールの端へ移動する。少し静かな場所で休もうと思った、そのときだった。
「……久遠朔夜」
背後から、低い声がした。
振り返ると、見覚えのある男が立っていた。以前、久遠グループとの取引を打ち切られた企業の関係者だ。契約上の問題が発覚し、継続は難しいと判断した案件だった。
「何かご用でしょうか」
仕事用の笑みを浮かべる。だが、男の表情は険しかった。
「お前のせいで、全部めちゃくちゃになった」
「契約については、すでに正式な説明を差し上げたはずですが」
「ふざけるな……!」
男が突然、懐に手を入れた。
刃物。
そう認識した瞬間には、すでに身体が動いていた。
本来なら、何の問題もなく避けられる程度の動きだった。だが、疲労で反応がわずかに鈍っていたのだろう。
頬に、鋭い痛みが走った。
次の瞬間、俺は男の手首をつかみ、刃物を床へ落とさせた。
「……随分と短絡的ですね」
声を荒らげる必要もない。男の腕を押さえたまま、周囲の警備員に視線を向ける。
「この方をお願いします」
駆けつけた警備員たちが男を取り押さえ、騒ぎを聞きつけた関係者が集まってくる。
男はなおも何か叫んでいたが、興味はなかった。頬に指先を当てると、わずかに血がついた。
……面倒なことになった。
大した傷ではない。黒竜の回復力なら、放っておいてもすぐに治るだろう。
そう思いながら顔を上げた、その瞬間だった。
人垣の向こうに、一人の女性が見えた。
柔らかな栗色の髪。こちらを見つめる、澄んだ琥珀色の瞳。
淡い色のドレスをまとった彼女は、周囲の騒ぎを気にするように、少し不安げな表情を浮かべていた。
ただ、それだけだった。特別なことをしたわけでもない。名前さえ知らない、初めて見る女性。
それなのに。
――見つけた。
胸の奥で、何かが目を覚ました。
心臓が強く脈打つ。視線を逸らすことができない。今まで感じたことのない衝動が、身体の奥底から湧き上がってくる。
彼女だ。間違いない。
理屈など必要なかった。俺の中に流れる黒竜の血が、たった一つの答えを告げていた。
――リュエル。
生涯でただ一人、運命によって定められた伴侶。
昨夜まで、出会うことなど考えもしなかった存在が、今、目の前にいる。
女性がこちらへ歩いてきた。
「あの……大丈夫ですか?」
柔らかな声だった。彼女の視線が、俺の頬に向けられる。
「血が……」
彼女は小さく息を呑み、ためらうことなくそっと手を伸ばした。
柔らかな手のひらが、そっと俺の頬に触れる。
不意の接触に、思わず息を止めた。
誰かに触れられたことなど、これまで何度もある。だが、こんなふうに心臓が跳ねたことは、一度もなかった。
彼女の手のひらから、淡い白銀の光がこぼれる。細かな光の粒が静かに舞い、傷口を優しい温もりが包んだ。
痛みが消えていく。
ほんの数秒後、彼女が手を離すと、傷は跡形もなく消えていた。
「これで大丈夫です」
彼女は、安心したようにふわりと微笑んだ。
その笑顔に、思わず見惚れる。
……ああ。
これは、困ったことになった。
運命の相手だと認識しただけでも、十分すぎるほどの衝撃だったというのに。こんなふうに無防備に触れられて、優しく微笑まれてしまったら。
――もっと、触れてほしいと思ってしまうじゃないか。
「ありがとうございます。助かりました」
どうにか平静を保って礼を告げると、彼女は小さく首を振った。
「いいえ。大したことはしていませんから」
「お名前を伺っても?」
問いかけると、彼女は少し驚いたように瞬きをした。そして、丁寧に微笑む。
「白藤乃愛と申します」
白藤。聞き覚えのある家名だった。
医療関連事業を営む名家で、久遠グループとも接点がある。
だが、今はそんなことよりも。
――乃愛。
その名前を、心の中で繰り返した。
「久遠朔夜です」
「存じております。久遠グループの……」
「ええ。ですが、今は仕事の話より、あなたとお話ししたいですね」
そう告げると、乃愛は少し困ったように笑った。
「ありがとうございます。でも、そろそろ家族のところへ戻らないと」
「そうですか」
引き止めたい。もっと話したい。彼女のことを知りたい。
自分でも驚くほど、次々に欲が湧いてくる。だが、初対面の女性を困らせるつもりはなかった。
「では、またお会いできることを願っています」
「はい。失礼いたします」
乃愛は丁寧に一礼し、人混みの向こうへ歩いていった。
その後ろ姿が見えなくなるまで、俺は視線を逸らせなかった。
「……朔夜様?」
聞き慣れた声に、ようやく我に返る。
振り返ると、戻ってきた柊が眉をひそめていた。
「何があったのですか。先ほど、騒ぎがあったと聞きましたが」
「少しな。もう片づいた」
「少し、で済ませないでいただきたいのですが……」
柊は周囲を見回し、それから俺の顔をじっと見つめた。
「……何か、ございましたか?」
「どうしてそう思う?」
「妙に機嫌がよろしいので」
俺は思わず笑った。
よく見ている。さすが、幼い頃から俺のそばにいる男だ。
「柊」
「はい」
「白藤家について、調べてくれ」
柊が瞬きをした。
「白藤家、ですか?」
「ああ。特に、白藤乃愛という女性について」
「……承知しました。何か問題でも?」
「いや」
俺は、乃愛が消えた方向へもう一度目を向けた。
先ほどまで退屈でしかなかった会場が、まるで違う場所のように思える。
彼女がいた。それだけで、こんなにも世界が変わるものなのか。
「問題どころか……」
自然と、口元が緩んだ。
「ようやく、見つけたんだ」
柊が息を呑む気配がした。
その反応を確かめるより先に、俺は静かに微笑む。
昨夜の俺は、リュエルに出会ったらどうするかなど、そのときに考えればいいと思っていた。
だが、今ならわかる。
彼女を知りたい。もう一度会いたい。できることなら、あの笑顔を自分だけに向けてほしい。
――乃愛。
君はまだ、何も知らないだろう。
俺にとって、君がどれほど特別な存在なのか。
まずは、もう一度会いたい。そして、少しずつ君のことを知っていきたい。
……もっとも。
ただ黙って待っているだけのつもりも、なかったけれど。




