黒竜は、まだ愛を知らない
この世界には、人間と共に暮らす、古種と呼ばれる存在がいる。
人間とは異なる力を持ち、種族によっては数百年もの時を生きる彼らには、生涯でただ一人、運命によって定められた伴侶が存在する。
リュエルに出会えば、古種はその瞬間に相手を認識するという。理屈でも感情でもなく、本能がその存在を教えるのだと。
そして、一度認識してしまえば、相手を強く求めずにはいられなくなる。
誰にも渡したくない。自分だけを見てほしい。できることなら、ずっとそばに置いておきたい。
それが恋なのか、執着なのか。あるいは、その両方なのか。
さらに、リュエルと結ばれた古種は、その力が安定し、本来の能力をより強く発揮できるようになるといわれている。また、二人の間に生まれる子どもは、優れた資質を受け継ぎやすいとも伝えられていた。
そのため、古種社会においてリュエルとの出会いは、本人だけでなく、一族の繁栄にもつながる特別な出来事とされている。
ただし、すべての古種がリュエルに出会えるわけではない。生涯出会うことなく終わる者もいれば、運命の相手を待たず、自ら選んだ相手と幸福な人生を送る者もいる。
久遠朔夜は、そんな運命の伴侶という存在に、特別な関心を持っていなかった。
朔夜は、古種の頂点に君臨する、最強の種族である黒竜の一族に生まれた。父が総帥を務める久遠グループで、二十八歳にして経営の中枢を担い、その手腕は社内外から高く評価されている。
仕事は嫌いではない。複雑に絡み合った利害関係を整理し、最善の結果へ導くことには、それなりの面白さがあった。
努力も、才能も、必要なものは持っている。
だからこそ、朔夜には理解できなかった。
たった一人の相手に出会っただけで、人生が変わるなどという話が。
「朔夜様。そろそろお休みになられてはいかがですか」
深夜の執務室に、控えめな声が響いた。
書類から視線を上げると、秘書の冬月柊が呆れたような顔で立っていた。
柊は朔夜と同じ黒竜であり、幼い頃からの付き合いでもある。現在は秘書として、朔夜の右腕を務めていた。
「まだ終わっていない」
「承知しております。ですが、ここ二日、まともにお休みになっていません」
「あと少しだ」
「そのお言葉を、昨日も伺いました」
朔夜は小さく笑った。
「よく覚えているな」
「忘れたくても忘れられません」
柊は昔から、朔夜に対して必要以上に遠慮しない。それが心地よくもあり、ときには少々うるさくもあった。
「明日の夜は、例の会合でしたね」
「ああ」
「先方からは、ぜひ朔夜様にご出席いただきたいと」
「わかっている」
朔夜は書類に目を戻した。
正直なところ、気乗りはしない。形式的な挨拶と腹の探り合い。いつもと変わらない社交の場だ。
もっとも、久遠家の嫡男である以上、そうした付き合いも仕事のうちだった。
「それから、奥様からご連絡がありました」
「母さんから?」
「はい。そろそろ素敵な方を紹介してほしい、とのことです」
「……またか」
「今回で三度目です」
朔夜は思わず苦笑した。
母の桜華も、父の暁も、朔夜と同じ黒竜だ。二人は今でも仲がよく、互いをリュエルとして認識したわけではないものの、深く愛し合い、長い年月を共に歩んできた。
その姿を見て育った朔夜は、運命を否定しているわけではなかった。ただ、自分には必要ないと思っているだけだ。
「母さんには、期待しないでくれと伝えておいてくれ」
「よろしいのですか?」
「何が?」
「リュエルを探そうとは思われないのですか」
朔夜はペンを止めた。そして、静かに微笑む。
「探して見つかるものでもないだろう?」
「それは、そうですが」
「それに、今の生活に不満はない」
仕事も、地位も、財産もある。家族にも恵まれ、信頼できる友人もいる。何かが欠けていると感じたことなど、一度もなかった。
「……もし、出会われたら?」
柊が何気なく尋ねる。
「リュエルに?」
「はい」
朔夜は少し考え、それから肩をすくめた。
「そのときに考える」
あまりにも軽い返事だった。柊は何か言いたげだったが、結局、口を閉じた。
朔夜は再び書類へ視線を落とす。
運命の伴侶。その存在を否定するつもりはない。けれど、たった一人の女性のために理性を失い、何もかもを捧げたいと願うなど、自分には縁のない話だと思っていた。
ましてや、自分の中に眠っていた本能が、理性さえ揺るがすほどの衝動となって目覚めるなど、想像すらしていなかった。
このときの朔夜は、まだ知らない。
翌日の夜、何の期待もせずに足を運んだ会場で、一人の女性と出会うことを。
そして、その出会いが、これまで当たり前だった日常を静かに変えていくことを。
黒竜は、まだ愛を知らない。
けれど、運命はもう、すぐそこまで近づいていた。




