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黒竜の御曹司は、運命の伴侶を溺愛する  作者: ルミ


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4/4

運命の相手には、婚約者がいる

 運命の伴侶を見つけた翌朝。


 俺は、久しぶりに気分よく目を覚ました。


 昨夜は帰宅してから、まとまった睡眠を取ることができた。仕事が一区切りついたこともあるが、何より、あの出会いが大きかったのだろう。


 目を閉じれば、今でも鮮明に思い出せる。柔らかな栗色の髪。澄んだ琥珀色の瞳。そして、俺の頬に触れた小さな手。


『これで大丈夫です』


 安心したように微笑んだ彼女の顔が浮かび、自然と口元が緩んだ。


 ……重症だな、これは。


 たった一度会っただけの女性を、これほど思い出す日が来るとは。昨日までの俺が知ったら、さぞ驚くことだろう。


 ***


「朔夜様。ご依頼の件ですが」


 午前中の打ち合わせを終え、執務室へ戻ったところで、柊が一冊の資料を差し出してきた。


「もう調べたのか」

「昨夜、あれほど嬉しそうにご依頼されましたので。優先して確認いたしました」

「助かる」

「……否定はなさらないのですね」


 柊の呆れた声を聞き流し、資料を開く。


 白藤家。表向きは医療関連事業を幅広く展開する名家だが、限られた関係者の間では、代々治癒能力者を輩出してきた家系として知られている。久遠グループとも、いくつかの分野で取引があった。


 そして、その長女。


 白藤乃愛《しらふじのあ》。二十歳。


 名門私立大学の経営学部に在籍する二年生。成績は優秀で、学内での評判もいい。人柄についても、目立った問題は見当たらない。


 資料に添えられた写真には、昨日と同じ琥珀色の瞳をした乃愛が写っていた。


 ……可愛いな。


 思わず見入っていると、向かいに立つ柊が小さく咳払いをした。


「朔夜様。続きがございます」

「ああ」


 ページをめくる。そこで、指が止まった。


 ――婚約者あり。


 一条悠真《いちじょうゆうま》。二十二歳。


 一条家の嫡男で、乃愛とは幼少期から婚約関係にあるという。


 ……なるほど。そういうことか。


「ご存じなかったのですね」


 柊が静かに尋ねてきた。


「昨日、初めて会ったばかりだからな」

「そうでしたね」


 資料に目を落としたまま、しばらく考える。一条家なら、俺も知っている。政財界に広い人脈を持つ名家だ。白藤家との婚約も、両家の関係を考えれば不思議ではない。


 だが、彼女にはすでに婚約者がいる。その事実は、予想していた以上に胸の奥へ重く沈んだ。


「……朔夜様」


 柊の声に顔を上げる。


「昨日のお話ですが。まさか、白藤乃愛様が……」

「ああ」


 資料を閉じ、柊を見た。


「俺のリュエルだ」


 柊が目を見開いた。幼い頃から一緒に育ってきた彼でさえ、しばらく言葉が出てこないらしい。


「……本当、ですか」

「こんなことで冗談は言わない」

「それは、そうでしょうが……」


 柊は珍しく額に手を当てた。


「ようやく見つかったのですね」

「ああ」

「おめでとうございます、と申し上げたいところですが……」


 彼の視線が、机の上の資料へ落ちる。


「婚約者がいらっしゃる」

「そうだな」


 柊は少し考え込んでから、慎重に口を開いた。


「朔夜様は、どうなさるおつもりですか?」


 昨日の夜と、よく似た質問だった。だが、今度は答えがある。


「まずは、彼女のことを知りたい」


 柊が静かに続きを待つ。


「婚約者がいるからといって、彼女を知ることまで諦める理由にはならないだろう」

「……承知いたしました。ですが、朔夜様」


 柊の表情が、わずかに引き締まった。


「もし朔夜様がお望みでしたら、白藤家と一条家の婚約について、こちらで動くことも可能です」


 その言葉に、俺は柊を見た。彼が本気で言っていることは、わかっている。久遠家の力を使えば、両家の婚約に働きかけることも不可能ではないだろう。


 だが。


「必要ない」


 迷わず答えると、柊が静かに目を伏せた。


「……よろしいのですか?」

「ああ。乃愛の意思を無視してまで、彼女を手に入れるつもりはない」


 リュエルは、黒竜にとって生涯でただ一人の存在だ。だからこそ、彼女自身の幸せを何よりも大切にしたい。


「彼女が今の婚約を望んでいるのなら、俺が口を出すことじゃない」

「……承知いたしました」


 柊は一礼した。その表情には、どこか安堵したような色も見える。


「ですが、朔夜様。もし彼女自身が婚約解消を望んでいた場合は?」

「そのときは、話が別だな」


 思わず笑みが浮かぶ。


「彼女が助けを求めるなら、もちろん力になる。ただし、決めるのは乃愛自身だ」

「……なるほど」


 柊が小さく息をついた。


「それを聞いて、少し安心いたしました」

「俺が無理やり奪うとでも思ったか?」

「いいえ。ただ、初めての恋でいらっしゃいますので」

「……柊」

「失礼いたしました」


 そう言いながらも、柊の口元にはわずかな笑みが浮かんでいた。


「ただし」


 俺がそう続けると、柊が顔を上げる。


「彼女に会う機会があるなら、逃すつもりもない」

「……でしょうね」


 即答だった。


「まだ何もしていないだろう?」

「そのお顔を拝見すれば、これから何かをなさることくらいわかります」

「ひどい言い方だな」

「長い付き合いですので」


 俺は笑いながら、もう一度資料を開いた。


 白藤家の医療事業。久遠グループとの取引内容を確認しているうちに、一つの案件が目に留まった。


「柊。白藤家との共同事業について、今後の予定は?」

「来月、医療関連部門との協議がございます。新たな提携の可能性も含め、先方と意見交換を行う予定です」

「そうか」


 ちょうどいい。


 久遠グループは医療分野にも事業を展開している。白藤家との協力関係を深めることには、十分な意味があった。もともと検討されていた案件なら、俺が関わっても不自然ではない。


「その件、俺も参加しよう」

「……朔夜様が、ですか?」

「ああ。今後の事業展開を考えれば、一度直接話をしておきたい」

「それは確かに、そうですが……」


 柊がじっとこちらを見る。


「まさか、乃愛様にお会いするためではありませんよね?」

「事業の話をしているんだが?」

「……そういうことにしておきます」


 失礼な。俺は本当に、事業の話をしている。もっとも、白藤家の人間と顔を合わせる機会が増えれば、乃愛と再会できる可能性も高くなる。それは否定しないけれど。


「それから、柊」

「まだ何か?」

「白藤家との協議について、先方の意向を確認してくれ。今後の事業に関心があるなら、乃愛にも話を聞いてみたい」

「……大学生の乃愛様に、ですか?」

「経営学を学んでいるそうだろう。若い世代の意見が参考になることもある」


 これは、決して口実だけではない。


 資料を見る限り、彼女は自分の将来について、しっかり考えているようだった。俺が知りたいのは、運命の伴侶という存在だけではない。乃愛が何を好きで、何を大切にして、どんな未来を思い描いているのか。


 彼女自身のことを、知りたかった。


「もちろん、無理に参加してもらう必要はない。先方にも、本人にも都合があるだろうからな」

「承知いたしました」


 柊は一礼しかけて、ふと動きを止めた。


「ですが、朔夜様」

「何だ?」

「くれぐれも、先走らないでくださいね」

「俺が?」

「はい。朔夜様が、です」


 念を押すように言われ、思わず苦笑する。


「信用がないな」

「仕事に関しては、誰よりも信用しております」

「それは光栄だ」

「ですが、恋愛に関しては未知数ですので」


 ……なるほど。確かに、そのとおりだ。俺自身、こんな感情を抱くのは初めてなのだから。


「心配するな。彼女を困らせるようなことはしない」

「そのお言葉、信じております」


 柊はようやく納得したのか、資料を手に執務室を出ていった。


 一人になった部屋で、俺は椅子の背にもたれる。


 婚約者。改めて、その言葉を思い浮かべた。乃愛には、長い時間をともに過ごしてきた相手がいる。俺の知らない彼女を知っている男がいる。


 そう考えただけで、胸の奥に面白くない感情が生まれた。


 ……嫉妬、か。


 自分でも意外だった。これまで、誰かを羨ましいと思ったことなど、ほとんどない。それなのに、昨日初めて会った女性のことで、こんなにも心が揺れる。


 黒竜の本能とは、厄介なものだ。


 いや。それだけではないのだろう。


 俺は、昨日の彼女の笑顔を思い出した。傷ついた見知らぬ相手を放っておけず、迷わず手を差し伸べた女性。そして、傷が治ったことを自分のことのように喜んでくれた女性。


 あの笑顔を、もう一度見たい。できることなら、今度はもっと長く話してみたい。


「……乃愛」


 誰もいない部屋で、その名前を口にする。昨日まで知らなかった名前が、もう特別な響きを持っていた。


 君には、婚約者がいる。だから、今はまだ何も望まない。ただ、君がどんな人なのか、もっと知りたい。


 そして、もしもいつか。君が自分の意思で、新しい未来を選ぶ日が来るのなら。そのときは、俺のことも選択肢の一つに入れてほしい。


 ……もっとも。


 そのために、俺という男を知ってもらう努力くらいは、させてもらうつもりだけれど。


 俺は机の上の資料を閉じ、次の仕事へと意識を切り替えた。再会の機会は、きっと作れる。焦る必要はない。


 運命は、ようやく動き始めたばかりなのだから。

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