運命の相手には、婚約者がいる
運命の伴侶を見つけた翌朝。
俺は、久しぶりに気分よく目を覚ました。
昨夜は帰宅してから、まとまった睡眠を取ることができた。仕事が一区切りついたこともあるが、何より、あの出会いが大きかったのだろう。
目を閉じれば、今でも鮮明に思い出せる。柔らかな栗色の髪。澄んだ琥珀色の瞳。そして、俺の頬に触れた小さな手。
『これで大丈夫です』
安心したように微笑んだ彼女の顔が浮かび、自然と口元が緩んだ。
……重症だな、これは。
たった一度会っただけの女性を、これほど思い出す日が来るとは。昨日までの俺が知ったら、さぞ驚くことだろう。
***
「朔夜様。ご依頼の件ですが」
午前中の打ち合わせを終え、執務室へ戻ったところで、柊が一冊の資料を差し出してきた。
「もう調べたのか」
「昨夜、あれほど嬉しそうにご依頼されましたので。優先して確認いたしました」
「助かる」
「……否定はなさらないのですね」
柊の呆れた声を聞き流し、資料を開く。
白藤家。表向きは医療関連事業を幅広く展開する名家だが、限られた関係者の間では、代々治癒能力者を輩出してきた家系として知られている。久遠グループとも、いくつかの分野で取引があった。
そして、その長女。
白藤乃愛。二十歳。
名門私立大学の経営学部に在籍する二年生。成績は優秀で、学内での評判もいい。人柄についても、目立った問題は見当たらない。
資料に添えられた写真には、昨日と同じ琥珀色の瞳をした乃愛が写っていた。
……可愛いな。
思わず見入っていると、向かいに立つ柊が小さく咳払いをした。
「朔夜様。続きがございます」
「ああ」
ページをめくる。そこで、指が止まった。
――婚約者あり。
一条悠真。二十二歳。
一条家の嫡男で、乃愛とは幼少期から婚約関係にあるという。
……なるほど。そういうことか。
「ご存じなかったのですね」
柊が静かに尋ねてきた。
「昨日、初めて会ったばかりだからな」
「そうでしたね」
資料に目を落としたまま、しばらく考える。一条家なら、俺も知っている。政財界に広い人脈を持つ名家だ。白藤家との婚約も、両家の関係を考えれば不思議ではない。
だが、彼女にはすでに婚約者がいる。その事実は、予想していた以上に胸の奥へ重く沈んだ。
「……朔夜様」
柊の声に顔を上げる。
「昨日のお話ですが。まさか、白藤乃愛様が……」
「ああ」
資料を閉じ、柊を見た。
「俺のリュエルだ」
柊が目を見開いた。幼い頃から一緒に育ってきた彼でさえ、しばらく言葉が出てこないらしい。
「……本当、ですか」
「こんなことで冗談は言わない」
「それは、そうでしょうが……」
柊は珍しく額に手を当てた。
「ようやく見つかったのですね」
「ああ」
「おめでとうございます、と申し上げたいところですが……」
彼の視線が、机の上の資料へ落ちる。
「婚約者がいらっしゃる」
「そうだな」
柊は少し考え込んでから、慎重に口を開いた。
「朔夜様は、どうなさるおつもりですか?」
昨日の夜と、よく似た質問だった。だが、今度は答えがある。
「まずは、彼女のことを知りたい」
柊が静かに続きを待つ。
「婚約者がいるからといって、彼女を知ることまで諦める理由にはならないだろう」
「……承知いたしました。ですが、朔夜様」
柊の表情が、わずかに引き締まった。
「もし朔夜様がお望みでしたら、白藤家と一条家の婚約について、こちらで動くことも可能です」
その言葉に、俺は柊を見た。彼が本気で言っていることは、わかっている。久遠家の力を使えば、両家の婚約に働きかけることも不可能ではないだろう。
だが。
「必要ない」
迷わず答えると、柊が静かに目を伏せた。
「……よろしいのですか?」
「ああ。乃愛の意思を無視してまで、彼女を手に入れるつもりはない」
リュエルは、黒竜にとって生涯でただ一人の存在だ。だからこそ、彼女自身の幸せを何よりも大切にしたい。
「彼女が今の婚約を望んでいるのなら、俺が口を出すことじゃない」
「……承知いたしました」
柊は一礼した。その表情には、どこか安堵したような色も見える。
「ですが、朔夜様。もし彼女自身が婚約解消を望んでいた場合は?」
「そのときは、話が別だな」
思わず笑みが浮かぶ。
「彼女が助けを求めるなら、もちろん力になる。ただし、決めるのは乃愛自身だ」
「……なるほど」
柊が小さく息をついた。
「それを聞いて、少し安心いたしました」
「俺が無理やり奪うとでも思ったか?」
「いいえ。ただ、初めての恋でいらっしゃいますので」
「……柊」
「失礼いたしました」
そう言いながらも、柊の口元にはわずかな笑みが浮かんでいた。
「ただし」
俺がそう続けると、柊が顔を上げる。
「彼女に会う機会があるなら、逃すつもりもない」
「……でしょうね」
即答だった。
「まだ何もしていないだろう?」
「そのお顔を拝見すれば、これから何かをなさることくらいわかります」
「ひどい言い方だな」
「長い付き合いですので」
俺は笑いながら、もう一度資料を開いた。
白藤家の医療事業。久遠グループとの取引内容を確認しているうちに、一つの案件が目に留まった。
「柊。白藤家との共同事業について、今後の予定は?」
「来月、医療関連部門との協議がございます。新たな提携の可能性も含め、先方と意見交換を行う予定です」
「そうか」
ちょうどいい。
久遠グループは医療分野にも事業を展開している。白藤家との協力関係を深めることには、十分な意味があった。もともと検討されていた案件なら、俺が関わっても不自然ではない。
「その件、俺も参加しよう」
「……朔夜様が、ですか?」
「ああ。今後の事業展開を考えれば、一度直接話をしておきたい」
「それは確かに、そうですが……」
柊がじっとこちらを見る。
「まさか、乃愛様にお会いするためではありませんよね?」
「事業の話をしているんだが?」
「……そういうことにしておきます」
失礼な。俺は本当に、事業の話をしている。もっとも、白藤家の人間と顔を合わせる機会が増えれば、乃愛と再会できる可能性も高くなる。それは否定しないけれど。
「それから、柊」
「まだ何か?」
「白藤家との協議について、先方の意向を確認してくれ。今後の事業に関心があるなら、乃愛にも話を聞いてみたい」
「……大学生の乃愛様に、ですか?」
「経営学を学んでいるそうだろう。若い世代の意見が参考になることもある」
これは、決して口実だけではない。
資料を見る限り、彼女は自分の将来について、しっかり考えているようだった。俺が知りたいのは、運命の伴侶という存在だけではない。乃愛が何を好きで、何を大切にして、どんな未来を思い描いているのか。
彼女自身のことを、知りたかった。
「もちろん、無理に参加してもらう必要はない。先方にも、本人にも都合があるだろうからな」
「承知いたしました」
柊は一礼しかけて、ふと動きを止めた。
「ですが、朔夜様」
「何だ?」
「くれぐれも、先走らないでくださいね」
「俺が?」
「はい。朔夜様が、です」
念を押すように言われ、思わず苦笑する。
「信用がないな」
「仕事に関しては、誰よりも信用しております」
「それは光栄だ」
「ですが、恋愛に関しては未知数ですので」
……なるほど。確かに、そのとおりだ。俺自身、こんな感情を抱くのは初めてなのだから。
「心配するな。彼女を困らせるようなことはしない」
「そのお言葉、信じております」
柊はようやく納得したのか、資料を手に執務室を出ていった。
一人になった部屋で、俺は椅子の背にもたれる。
婚約者。改めて、その言葉を思い浮かべた。乃愛には、長い時間をともに過ごしてきた相手がいる。俺の知らない彼女を知っている男がいる。
そう考えただけで、胸の奥に面白くない感情が生まれた。
……嫉妬、か。
自分でも意外だった。これまで、誰かを羨ましいと思ったことなど、ほとんどない。それなのに、昨日初めて会った女性のことで、こんなにも心が揺れる。
黒竜の本能とは、厄介なものだ。
いや。それだけではないのだろう。
俺は、昨日の彼女の笑顔を思い出した。傷ついた見知らぬ相手を放っておけず、迷わず手を差し伸べた女性。そして、傷が治ったことを自分のことのように喜んでくれた女性。
あの笑顔を、もう一度見たい。できることなら、今度はもっと長く話してみたい。
「……乃愛」
誰もいない部屋で、その名前を口にする。昨日まで知らなかった名前が、もう特別な響きを持っていた。
君には、婚約者がいる。だから、今はまだ何も望まない。ただ、君がどんな人なのか、もっと知りたい。
そして、もしもいつか。君が自分の意思で、新しい未来を選ぶ日が来るのなら。そのときは、俺のことも選択肢の一つに入れてほしい。
……もっとも。
そのために、俺という男を知ってもらう努力くらいは、させてもらうつもりだけれど。
俺は机の上の資料を閉じ、次の仕事へと意識を切り替えた。再会の機会は、きっと作れる。焦る必要はない。
運命は、ようやく動き始めたばかりなのだから。




