温泉(4)
アラージャさんはじっと二人が歩いて行った方を見ていた。
「ありがとうね、アラージャさん。あたしの我儘に付き合ってもらって」
そう言うと、アラージャさんはふるふると首を横に振った。
手にした紙に、鉛筆で文字を書き始めると、あっという間に文章をつづった。
筆が早すぎる。
道を外れた自分が、人の役に立てるのはとても嬉しいという事が、長い言葉で綴ってあった。すごい速さで書いているのにとても読みやすい文字と文章だ。
「もしかしてアラージャさんは喋れないの……?」
恐る恐る聞くと、彼は口元の布を外した。
布で隠されていたその下、彼の喉元には大きな傷跡があった。喉をつぶされ、発声できなくなったのが一目でわかるほど痛々しい傷跡だった。
あたしは口を噤んだ。
アラージャさんはもう一度布を巻きなおした。
「アラージャは俺よりずっと昔から大将と一緒にいる、大将の『目』そのものだ。俺たちの情報のすべてはアラージャから入ってきている。だからずっと大将の近くにいて、情報を紙に起こし続けている。大将はそのすべてを確認して指示を出してる」
「父上が最も近くに置いている側近だと言っていた。本当に信頼されているのだな」
カラハとメイカ様が言った。
「だが、この間の神徒襲撃でアラージャの書き溜めた情報がほとんど焼けちまったな……」
布を巻きなおすと、さらさらと紙にまた絵を描きはじめた。
それは見覚えのある庭で、誰かが佇んで空を見上げているところだった。
「これ……蒼都の神徒狩りの詰所……?」
見上げているのはゴクジョウ師匠だ。
次に描いたのは蒼都の町の様子。見知った顔が並んでいる。通りの真ん中を、相変わらず偉そうに見回り組が闊歩していた。八百屋に並んでいる野菜が冬のものになっている。
つい今しがた見てきたかのように。
「……今も、見えているの?」
アラージャさんの目が細められた。どうやら笑っているようだ。
最後に彼は、机に座って何かを考えているサイショウさんの姿を描いた。その姿は何度も描いているのだろう。迷いない線ではっきりと、悩んでいる表情がわかるくらい鮮明な姿を映し出した。
そういえば、サイショウさんの周りにはいつも紙がいっぱい積んであるなあと思っていたけれど、あれを書いているのはサイショウさんじゃなくアラージャさんの方だったのか。
これはとんでもない能力だ。
この人はいったいどこまで何が見えているのだろう。この大量の情報をどう処理して出力しているのだろう。いったい何があって、喉をつぶされ、外道に落ちてサイショウさんと出会ったのだろう。想像もできないくらいに数奇な運命をたどってきたに違いない。
最後に、アラージャさんは、大きな文字でゆっくり『ありがとう』と記した。
「……あたしこそ、ありがとう。ほとんど見ず知らずのあたしたちのために力を使ってくれて」
そう言うと、アラージャさんは再び筆を走らせた。
描かれたのは、あたしとアギの姿だ。そこにガーシャを書き足して、メイカ様とカラハを描いた。
「見ず知らずどころか、死ぬほど見られてんだよ、俺たちは」
カラハがぼそりと呟いた。
ああ、そうか。
あたしはなんだか嬉しくなった。
「そうかあ、ここまで貴方も一緒に旅をしていたんだね」
「確かにそうかもしれないな」
「羨ましいぜ、ここにいながらどこへでも旅ができるってのは」
メイカ様も同意し、カラハも笑った。
アラージャさんは一瞬、筆を止めた。目を細め、眉が下がり、少し泣きそうな顔をした。
そして、小さく文字を書いた。
いつも楽しそうで、羨ましかった。何を話しているのか聞きたかった。会えて嬉しい。
端的な言葉で綴られたそれは、何より彼の気持ちを表していた。
4人の間でふんわりと和やかな空気が流れた時。
向こうの方から花火もかくやという爆音が響いた。
そして一拍置いた後、木々の向こうから勢いよく何かが下から吹き出してきた。
煙を上げながら吹き出してきたのは、おそらく温泉の源泉だ。
「……湧きだし口がだいぶ変わったな」
遠くの噴水を見ながらメイカ様が遠い目をしていた。
「どうせ力加減の出来ないアギの仕業だろ」
「大丈夫、ガーシャがアギを叱ってるところだと思うよ」
その様子を見て、アラージャさんも楽しそうに笑っていた。
白根温泉の神徒狩りと、温泉街の人々に謝り倒した。何しろ源泉の位置が変わってしまったのだ。湯畑に温泉が入ってこない。
でも、温泉街の人は笑っていた。
「大丈夫、源泉さえ出れば、あとは流す道さえ作ってやればいいだけのことだ」
「それよりも温泉が出ないほうがつらかったよ」
吹き上げる源泉を泣きながら見上げている人さえいた。
そうだよね。観光客が来ないと生活することさえままならないんだもんね。
よし。悪い事より、ぎりぎり良い事の方が多いと結論付ける事にしよう。
「何日かすれば元の温泉の流れに戻せると思うから、そうしたらまた来ておくれ」
数日後、とても天気の良い日に赤都から湖の対岸を見ると、もくもくと湯煙が上がっていた。おそらくこれが本来の姿なのだろう。
桜島の噴煙も絶えず細く上がっている。噴火はなく、地震も完全に落ち着いた。
詰所に残っていた外道衆の人々も、温泉復活の報を受けて療養も兼ねて皆が対岸へと移っていった。
彼らは外道。
お社の中で毘沙門天様の力を受けて暮らす人々と相いれない存在なのだ。
サイショウさんは最後にきっちりと掃除をし、埃ひとつ残していない。また、世話になったお礼のつもりなのだろう。たくさんの古銭が入った袋が残されていた。
がらんとした道場を見ていると感慨深い。
あの日、ほぼ全員が怪我をして運び込まれ、重症者も何人もいたことを考えるとまるで奇跡のようにも感じられた。
そんなある日、初雪が舞った。
積もるほどではないが空気が白く染まり、冬の訪れを告げていく。メイカ様とテラスとお揃いで買った蜻蛉玉を髪に結っているが、冷えて首筋にあたるとびっくりする程度には寒くなっていた。
「本格的に冬になる前に移動したほうがいいかな」
ガーシャは言った。
旅に出ればまた山や谷を突っ切る生活が待っている。雪が積もると移動自体の難易度もかなり高くなり、寒さで体力も奪われる。冬は旅に向かない季節なのだ。
「そろそろサイショウさんと話さなきゃね」
その晩、アギとメイカ様にも旅立ちの旨を告げた。
「そうだな。ラクシャ様のこともある。早めに発つのがよかろう」
「……じゃあ、あと2日だけ待ってくれるか?」
アギが言った。
「今、ガオウじいちゃんの打ってる刀がもう仕上がるんだ。最後まで見届けたい」
ガオウじいちゃん、と呼んだことに驚いた。いつの間にかじいちゃんがアギに、アギがじいちゃんに心を開いている。
あたしが町をうろうろしているだけの間にも、きっとアギは色んな事を学んでいるのだろう。
「もちろんいいよ。心残りがないようにね」
蒼都と一緒で、ここもまた戻ってくると思うけどね、と言い添えて。
「ナユちゃんも町の人に早めにお別れを言っといで。蒼都の時みたいに、餞別に生魚を持たされたんじゃまた苦労するからね」
「あれは大変だったな……」
メイカ様が思い出して遠い目をした。
「オレも挨拶したいし、じゃあ3日後の朝の船で温泉の方に渡ろう。それまでは、各自準備をしておいてね」
「分かった。ここも引き払わねばならないだろう。シャラ様には私から伝えておく。持っていけないものは処分しておくからそれぞれ分けておいてくれ」
蒼都の時ほどではないが、増えてしまった荷物と格闘してかなり減らした。
それでも冬に向けて着物も増えるし、履物も揃えねばならない。夜が長くなるので進めない時間が長くなるだろうし、凍えないように火も絶やせない。
奥の山は深い雪に埋もれる冬だった。ひどい年は外に出られないほどの雪が積もり、皆で集まって冬を越すこともあったほどだ。向こうはとうに雪が積もり始める時期だという事を考えると、赤都のあたりはまだ少し暖かい。雪も、都の中はさほど積もらないそうだ。
そうでなくては、こんな急な坂道に石畳を敷いた都では転んだ怪我人が大量に出てしまうだろう。
気候に合わせて人は住処を作る。
だからいろんな場所で、いろんな景色を見てみたい。どんな人がどんな生活をしているのか見てみたい。
そして、あたしはきっとどこへ行っても誰かのために走り回っているのだろう。
町の皆には事前に出立の事を伝えていたので、餞別をそれなりに断ることが出来た。
硝子細工の器を持たせようとしてくれた工房長の申し出を事前に断れたのはよかった。そんなの、神徒に出会った初日で割ってしまう。同じ理由で暖かそうな布団を持たせようとした綿屋さんに返す事ができたのも助かった。ありがたいけど重すぎる。
シャラさんは最初に一緒に食べた赤都名物をあたしとメイカ様にこっそり持たせてくれた。朝早く、お願いしてわざわざ作っていただいたらしい。これは嬉しすぎる。大事に食べよう。
ガオウじいちゃんは、立派に拵えた一振りの刀をアギに渡した。
「これ、昨日までずっとじいちゃんが打ってたやつじゃ」
「お前用だ」
「でも俺、剣術は……」
「ラクシャは剣術の達人だった。迎えに行くのだろう、ならば持っておけ。会えたなら、教えを乞え」
アギは受け取った刀をすらりと抜いた。
カラハが持つものよりほんの少し長い。確かに、アギの体格に合わせて打ったのだろう。一滴の曇りもない美しい直刃が朝日を反射した。
「……ありがとう」
ゆっくりと刀を納め、アギは声を震わせた。
刀の背を額に当てて、何かを祈るように頭を下げた。
「帰ってきたら、また教えて欲しい」
「当たり前じゃ」
じいちゃんは、アギの背中をバンと叩いた。
「死ぬなよ」
船に乗り込んでも、アギはずっと刀を抱えて座り込み、赤都の方を見ていた。
あたしはそっとその背中に寄り添った。
「どうした、ナユタ」
「赤都を離れるのが寂しくなったの」
「……俺もだ」
アギは優しく笑ってあたしの頭を撫でた。
「村にいた時は二人だったのにね。蒼都でも赤都でも、みんな優しくて、楽しくて……ずっとここに居たくなっちゃうね」
「ずっと居てもいいんだぞ」
「それもいいけどね」
このまま赤都でずっと暮らすことだってできるだろう。
いつだったか考えていたように、たまにアギと外に出て神徒を倒して、アギはこのままじいちゃんのところに弟子入りして。都のお社の範囲から出なかったらもしかしたら穏やかな暮らしが出来るのかもしれない。メイカ様が蒼都に帰るのなら、一緒に帰って蒼都で暮らしたっていいんだ。きっと楽しい暮らしが出来るだろう。
「でも、もっと遠くに行きたいって思っちゃったからなあ」
見果てるまでの地平線。瑠璃紺色の水平線。噴煙を上げる活火山。湯煙に隠れる温泉地。異形の神徒がいる景色でさえ、あたしの中にくっきりと焼き付いている。
アラージャさんのように美しい絵を描けるわけではない。美しい言葉を綴れるわけではない。
それでも、絵でも言葉でもない何かとして魂に刻まれていく。
「ねえお兄ちゃん。もしあたしの体質がどうにかできて、もし世界も壊れなかったら、お兄ちゃんは好きに生きていいからね。あたしも勝手に好きな場所に行くから」
「ナユタ」
「だけど、それまでは絶対に一緒にいてね」
アギは何か言いたそうにしていたけれど、目を閉じて、やっぱり優しく笑ってくれた。
「……大きくなったなあ、ナユタ」
「急にどうしたの」
言いながら、刀を抱えたままあたしのことも膝の上に乗せた。
「じゃあ、それまでは甘えとけ。気は遣うなよ」
「うん、もちろん」
子供のころから変わらない、温かくて大きな手があたしの頭を撫でていた。
「アギ、ナユタ。もう到着するぞ」
メイカ様の声がしたので手を繋いで立ち上がった。
アギはあたしの兄で、一番の護り手だ。残念ながらまだあたしの位置を誰かに譲る気はないし、アギ以外の誰かにその役目を押し付ける気もない。
そう思ったら心が落ち着いた。
大人になる覚悟はしたけれど、ゆっくりでいい。急に大人になる必要はないし、何かを突き放したり何かを縛る必要もない。ただ少しずつ進めばいいのだ。
船を降りると、なんと湯畑が復活していた。
これまで源泉が湧いていた辺りは玄武岩がむき出しになっていて、別の樋を伸ばして新しい経路を作ったようだ。湯畑にうまく流し込めたようで、宿に向かう湯量も完全に復活している。
これなら近いうち、またお客さんが増えていくだろう。
「よう、来たか」
湯畑の近くでカラハが待っていた。
「じゃあ、大将が待ってるから案内するぜ」
カラハが先導して、その隣をテラスが歩いて、メイカ様とアギが続いて、あたしとガーシャが後ろをついていく。
「蒼都から引きずった任務がようやく終わるな……」
感慨深くカラハが言った。
確かに。
すでにサイショウさんとは会っていたものの、本来の目的は全く果たしていなかったのだ。
父親のラクシャを助けに行く、と言っていたが、いったい何が起きているのだろう。




