大神(3)
最初に空間が割れた。
大きな裂け目があたしたちの背後にめりめりめりと音を立てて広がって、そこから白い紙の人型が大量に流れ込んできた。
烏の神徒の風を押し返すようにして背後の裂け目から追い風が吹き荒れる。
結っていた髪が解けて風に流れ、体に合わない着物が脱げんばかりにはためいた。
裂け目から見慣れた鼻先が覗く。真白に発光する毛並みが光に揺れる。
朝日が昇る。
水平線から完全に姿を現した太陽があたしたちを照らし出した。
音もなく着地したのは、純白の毛並みの狼だった
その動きに合わせて色とりどりの光玉があたしたちを取り囲んだ。
蒼、赤、翠、菫、黄、紅、黒。
七色の神々がその降臨を見守り、歓迎するかのように。
「テラス」
あたしの身長より体高の大きな狼に両手を広げると、大きな体を縮めてすり寄ってくれた。
いつもと変わらないおひさまの匂い。
きっとあたしの母は、太陽の神様だったんだ。
瓦礫から顔を出したガオウじいちゃんが、起き上がったカラハが、ハテルマ様が、影の中に怪我人をかくまっていたアケラ様が。神徒と戦っていた皆が手を止め、その光景に見入っていた。
大神の姿を取り戻した母は、アギとガーシャの頬を舐め、健闘をたたえた。
そして父の隣に寄り添って愛しそうに鼻先を擦り寄せた。
一通り戦場を見渡した白狼は、大きく天を見上げて遠吠えした。
その声は、神都だけでなく、紅都にも、もしかすると音ではない何かとして大陸全土へ広がっていく。
新たな神が顕現した、その事実を伝える為に。
優しい瞳で母が見下ろしている。
生まれた時からずっと一緒にいてくれたテラスと同じ目で。
「お願い、お母さん。力を貸して。あの烏を倒したいの」
分かっている、と言うようにあたしの方を見て、天に向かってぐるるる、と警戒の声を上げた。
烏も目の前の狼を敵として見定めたようだ。
眩いばかりに発光する神徒と神が睨み合い、本物の太陽の光に映し出され。
美しい絵巻のように瞼の裏に焼き付いた。
刹那。
力強い手足に力をこめ、白狼は空の烏に向かって飛びあがった。
立て続けに空から雷が落ちてくる――晴れた空なのにいったいどこから落ちているのか。雷の音だけで耳が痺れてしまいそうだ。
それを左右に避けながら光玉を足場にして駆け上がった狼を毒の棘が襲った。
しかし、光玉を盾にして毒を逸らすと、さらに上へと飛び上がり、烏の上空へたどり着いた。
朝日を背にしなやかな手足が躍動する。
烏は天に向かって真っ赤な炎をあげた。
その炎は前足の一振りで振り払われる。
大神が烏の背に鋭い爪を突き立てた。
速い。
疾風怒濤の攻防に、人間たちはただ目を見開くしかなかった。
付近の建物を破壊しながら二体の神がもんどりうって暴れまわる。
人々の避難が済んでいてよかった。
炎が、雷が、毒が、音が、すべての攻撃が無秩序に狼を襲い、三つの首が狼の目を狙う。
が、それらすべてを吹き飛ばし、狼は鋭い牙で烏の首根に噛みついた。
ぶちりと恐ろしい音がして首が飛ぶ。
しかし、あれではすぐに再生してしまう。
すると狼は烏の身体の表面を覆っている光に噛みついて、牙でそれを引き剥がした。
ガーシャが予想していた通りに、あの表面の光が問題なんだ。
「……やっぱり、眷属の烏だ」
ガーシャが呟いた。
あの光は、本体から引き剥がされた瞬間に小さな白烏に変化して飛び去って行く。
「眷属を倒して! あれを全部消せば、おそらく再生は……っ」
大声を出そうとしたガーシャが地面に膝をついた。
そもそも動けるような状態じゃないのに。
大丈夫だ。黒い鼠が駆けて行ったから、このまま全神徒狩りに情報が共有されるはず。
住民の避難を終えた神徒狩りたちがここへ集結し、引き剥がされた眷属の烏たちを順に倒していった。その中には蒼都から移動してきた神徒狩りもいる。赤都の神徒狩りも。懐かしい顔がそこかしこに交じっていた。
本当に、すべての都がこの神徒の討伐に協力しているのだ。
バリバリと光を剥がしながら噛み砕いていく狼が最後の光の膜を剥がして噛み砕き、飲み込んだ。
後に残ったのは薄く発光してはいるものの、先ほどまでのような神々しさはない、大型の烏の姿だった。
光を失った神徒はおそらく――これまでと同じ普通の神徒だ。
倒せる。
その場にいた全員の意思が一致した。
同じ目的を共有すれば言葉を交わさずとも連携することは簡単だ。
ガーシャが全体に新緑色の糸を張り巡らせて全員の足場を確保する。
その上をハテルマ様と師匠が同時に駆け上がった。
雷鳴が轟いたが、じいちゃんの盾が防いでくれていた。
駆ける二人を追い越すように、数十の矢が飛来して円環の翼にぎょろぎょろと目立つ目玉を残らず射抜いた。
その直後、ハテルマ様が翼を刈り取り、師匠が背中に乗って拳で突き落とした。
落ちてきたところへ待ち構えていたカラハとメイカ様が両方の翼を斬り落とす。
喧騒の中で、父はアギに声をかける。
「俺が亀の神徒を斬った時の事は覚えているか?」
「覚えてる」
忘れるはずがない。
一挙手一投足、父がどんな動きをしていたのか瞼の裏にくっきりと焼き付いている。
父はただ、烏を指さした。
「今なら、出来るな」
「押忍」
まるで師匠に応えるように。
あの神徒は固い。何故なら亀の神徒の力を吸収しているからだ。
けれど、今のアギならきっとできる。
正眼に構えた刀をすうっと烏の方向へ向け、深い呼吸で整え、集中した。
父はアギに最後に何か言葉をかけた。
それを聞いた兄は微笑み、肩の力を抜いた。
新緑色の糸が伸びて、ガーシャがぐっと拳を握ると三つの首を一つに固定する。
全員の気持ちがその一点に集中した。
アギは刀を振り下ろした。
その背中は寸分違わず、あの時の父と重なった。
瞬刻。
空気まで切れたかのような断絶。
一瞬の静寂。
次の瞬間には、全員の目の前で烏の身体が崩壊した。
じゃらじゃらじゃらじゃら……止まらない古銭の音が響き渡る。
視界を埋めるほどの白い紙があたしたちの前をうねり通り過ぎていく。
空を見上げると登り始めた朝日が照らして、無数の虹色をした光玉に光を反射していた。
風を巻き上げ蒼天に白い紙が吸い込まれていく。
先ほどまで場を支配していた圧力が消え、ふわりと春の風が吹いた。
神徒がすべて消えた後、残っていたのは大量の古銭だけだった。
「終わった……のか」
アギが刀を納め、どさりと尻餅をついた。
「終わったの?」
「終わったみたい」
周囲から徐々に歓声があがり始める。
それは少しずつ伝わって、いつしか神都全体が歓喜に湧いていた。
研究所の方に拠点を移した司令部にも伝わっているだろうか。人知れず、誰よりも戦っていたあの人たちにもすぐに伝えてあげたい。
けれど、喜びは一瞬で、アギの視線を追って、あたしは息を止めた。
父が、地面に横たわっていた。
分かっていた事だ。
もう最後だって覚悟していたから。
それでも――
「……お父さん」
いつも優しく撫でてくれた手を握るとひやりとしていて、瞼は固く閉じられていた。
でもその顔は安らかで、ひどく満足げに見えた。
ガーシャが確かめて、首を横に振った。
近くで見ていた全員が言葉を失った。
アギが唇を噛みしめた。
「お父さん」
ぼろぼろと涙が零れた。冷たい手を握り締めてただ涙を流した。
アギが隣に座って同じように父の手を握った。
祈りを捧げるように額に手を当てて、何か小さく呟いていた。
嫌だ。
嫌だよ。
もっともっと一緒にいろんな場所へ行きたかった。いろんな事を教えて欲しかった。たくさん話を聞いてほしかった。もっともっと……
歓喜に湧いた都の中で、慟哭が響き渡った。
ふ、とあたしたちの手に白い手が重なった。
「アギ、ナユタ」
鈴を転がすような可憐な声。
見上げると母が微笑んでいた。
「二人ともよく頑張りました。世界は大丈夫。これで私もこちらに根を下ろすことができます」
「そうだね。じきに古銭の流入も安定して世界は循環を始めるだろう」
カシギが言う。
「僕の本体は少し眠るよ。アマテラス、後は頼んでもいいかい?」
「ええ、この大地はこれから私の加護に。それから――」
母は、父の胸元にすうっと手を入れて、両手で大事そうに何かを取り出した。
「いつか、貴方達の父も目覚めるかもしれません。その時はきっと人ではなくなっているでしょうが、壊れぬように私が守ります」
二人の神様が何を言っているのかは分からないが、世界が滅びる危機を乗り越えたのだけは分かった。
そして、母が父をどこかへ連れて行ってしまう事も。
ああ、行ってしまうんだ。
父の亡骸を置いて、母は神の立場に戻るのだ。
「……お母さん」
柔らかく微笑んだ母があたしを抱きしめる。
「ナユタ、元気で。ラクシャ様が祈ったように、幸せに生きて」
涙が止まらない。
たくさんの感情で胸がいっぱいになって声が出ない。
「アギ、ガーシャ。貴方達も元気で」
息子として育てた二人を両手で抱きしめて、母は笑う。
母はその姿を再び狼へと変えた。
狼の姿をした新しい神が遠吠えをあげる。
勝鬨の声は大きく大きく響き渡り、大陸全土に戦いの終わりを告げた。
そして、白い狼は最初に現れた空間の裂け目にゆっくりと戻っていく。
いつも暗闇を照らして進む道を示してくれた尻尾がゆらゆらと揺れている。
いつだって道標だった灯りが去っていく。
無意識のうちに手を伸ばしていた。
家族がいなくなってしまう事が怖くて。
「ナユちゃん!」
ガーシャが慌ててあたしの腕をつかんだが一瞬遅く。
次元の狭間に入り込んだあたしの左腕が、手首辺りで消失した。
一瞬の間をおいて、滝のように血が流れ落ちた。
何かが麻痺してしまっているのか、痛みは不思議と感じなかった。
酷い喪失感だけがあたしを包み込んでいた。
そこからの記憶は曖昧だ。
皆の叫ぶ声が聞こえた気がしたが意味は聞き取れず、麻痺した耳は音を拾うのを止め、感情は動きを止めた。
父の遺体に縋りついていた気もするが、
あたしはそのまま意識を深い底に沈めてしまった。




