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神徒奇譚  作者: 早村友裕
終章 神都編
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大神(2)

 耳元で母の声を聞いたその瞬間、目の前に不思議な光景が広がった。

 見渡す限り真っ白の世界。まるで『白』の境界に入った時のように、白い空気が周囲を満たしていた。じわりじわりと肌から侵食してくるような白の圧力に思わず肩を抱いた。

 その中で、遠くから子供の泣き声がする。

 誰の声だろう。

 とてもよく知っている声のような気がする。

 すすり泣く声は徐々に大きくなり、とうとう、わーんわーんと声を上げて泣き出した。


「どうしたの?」

 不意に大人の声がした。

 こちらもよく知っている声だ。穏やかな優しい声。

「……寂しい」

 涙声で答えたのは幼い子供だった。

「何故寂しいの?」

「……アギが……忘れちゃうんだ、オレのこと」

 その言葉でわかった。この子供は――

「何回やっても……忘れちゃうんだ。楽しかった事も、しんどかったことも、怖かったことも、全部、オレしか覚えてない」

「そうか、それは悲しいね」

 ああ、そうだ。これはガーシャとカシギの声だ。

 気づいたら真っ白な世界の中で、カシギが金色の髪の幼い子を抱いていた。

 抱き上げて、背をとんとんと優しく撫でながら、カシギはゆらゆらと揺れた。

 少し落ち着いたのか、幼いガーシャはすんすんと鼻をすすりながらも泣くのをやめた。

 そうしたら、周囲からはまたいくつもの泣き声が聞こえた。

「この世界には泣いている子がたくさんいるんだね。とても……とても悲しい事だ」

 穏やかな声でカシギは言う。

 でもその裏には悲痛な感情が隠れていた。

「皆、泣かないで」

 たくさんの泣き声を聞きながらカシギは静かに目を閉じた。

「僕はこの世界に大きく干渉する事は出来ない。けど……少しだけなら手助けすることは出来るかもしれないから」

 そう言って目の前でうずくまって泣いている黒髪の子の頭を優しく撫でた。

「君には弟を。本当は母の腹の中で死んでしまうはずだった子に命を与えよう。弟は賢い子になるはずだった。きっと世界に生を受ければ新しい仕組みを作ってくれる。それは、人を統べる使命を持った君の助けになるだろう」

 そう言いながら、ガーシャを抱いたまま掌を上に向けた。

 掌から優しい淡い黒の光がほわほわと上へ向かって飛んでいく。

「それから、君には息子を。本当は獣になるはずだったが……人であれば本当なら神徒に喰われてしまうはずの娘を救ってくれる存在になるかもしれない」

 次々にカシギの前に現れる、泣いている子どもたち一人一人に声をかけながら。

 何人も何人も見送りながら。

 黒い光を飛ばしていった。

 ほんの少しずつでいい、誰かの心を救えますように。

 そう願いながら。


「……ねえ、僕らは無力だと思わない?」

 不意にカシギがこちらを振り向いたのでびっくりした。

 が、あたしの喉からはあたしのものではない声が出た。鈴を転がすような可憐な声。

「貴方がいつもすべての世界を救おうとするからですよ――大国主命(おおくにぬしのみこと)。これで幾度目ですか」

 視界の端にさらりと白銀の髪が揺れた。

 自分の意思で体が動かせない。

 まるで誰かの目を通して過去の世界を見ているかのようだった。

 カシギはガーシャを抱いたまま困ったように笑った。

「どうしても放っておけないんだ。泣いている子供を見たら助けたくなってしまう」

 あたしの視点の誰かはため息をついた。

「君も来てくれないか、アマテラス。この子にも救いを与えたいんだ」

 その名を聞いて、理解した。

 これは、母の記憶だ。


 カシギは世界に対していくつかの種を蒔いたあと、自らも地上へ降りていった。

 地上に降りる為の器を探し、大山脈の奥で力尽き、息絶えようとしていた神徒狩りの元へ降臨した――その身体を現世の器として譲ってほしい、と懇願した。

 心も体も弱り果て息絶えようとしていたその人は、神の役に立てるならと快諾し、黄泉路へ旅立った。

 ああ、そうか。この時にカシギはカシギになったのだ。

 あたしは納得した。

 どこかうまく繋がらなかった一つ一つの出来事がようやく大きな流れになっていく。

 カシギの身体はもともと菫都(キント)の衰退の原因になった強い力を持つ神徒狩りだった。でもその中身はこの世界を、泣く子どもたちを救おうとしてくれた神様だったのだ。

 カシギになったその神はまっすぐに翠都(スイト)へと向かった。

 そして、陽だまりの中で泣いていたガーシャと再会した。

「やっと会えたね。これからは僕が一緒にいるからね」

 穏やかに笑いながらガーシャを愛おしそうに抱き上げて、抱きしめて、そして奥の山の集落への道を歩み始めた。


 母はあの時、一緒に来て欲しいと言ったカシギに対して明確に返答をしなかった。

 その代わりに、旅をするカシギの事をずっと見守っていた。まるで心配する家族のような感情で。

 カシギは奥の山に辿り着いて、最初に大黒天様のお社(やしろ)を作った。そして薬師として菫都(キント)から持ってきた本や薬草をもとにして薬屋を建てた。

 この集落には、産後まもなく妻を亡くしたあたしの父ラクシャがいて、同じ年の男の子を一人で育てていた。似た立場のカシギは父と自然と仲良くなり、その子らも仲良くなっていった。

 けれど、ある日事件が起きた。

 アギが姿を消したのだ。

 亡き妻の忘れ形見だ。ラクシャは昼夜問わず子を探し回ったが見つからない。

 あたしは『白』の境界に落ちたことを知っているが、そんな事を父ラクシャは知る由もないだろう。

 日に日に憔悴していくラクシャを見て、ようやく、母は立ち上がった。


 真っ白な世界で泣きもせず一人で遊んでいた小さな子を抱きあげて、母はゆっくりと歩いていった。

 白い平原を抜け、色のある世界へと入り込み、親の元へと幼い子を届けた。

 子を渡すと、父は泣き崩れた。

 よかった、本当によかったと。

 そして子を返して去ろうとした母を、父が呼び止めた。

「礼がしたい。それにもう少しこいつと遊んでやってはくれないか」

 アギはすでに母に懐いていた。

 抱っこされてにこにこ笑っていたし、後を追ってよたよたと歩いていた。

 それを見た母はほんの少し人間に興味を持った。


 男一人で子供を育てるのは大変だ。

 乳飲み子の時もかなり苦労したが、大きくなってくるとそれもまた大変な事が多い。

 母はいつの間にか父の隣にいて、一緒にアギを育てていた。苦労している姿も、悩む姿も、妻を失った寂しさに襲われる姿もいつも隣で見ていた。

 そして巡る季節の中で愛情を育んでいった。

 あたしが生まれたのはそれからしばらく経ってからだ。

 生まれたばかりの小さな命。アギは大切そうに小さな小さなあたしの指を握り締めた。

 こうしてあたしたちは4人家族になった。


 けれど、幸せな日々は長くは続かなかった。

 カシギと違ってこの世界に依り代を持たない母は、少しずつ存在が不安定になっていった。傍目には病弱でどこか浮世離れしているようにも映っただろう。

 村の人たちは若い夫婦を心配し、見守りながらもどこか少し違和感を覚えていたようだ。

 誤魔化しながら子供たちとの生活を続けてきたが、限界を迎えたある日、母はカシギの元を訪れた。

 カシギも察していたのだろう、深夜に一人で薬屋を訪れた母を、奥の部屋へ迎え入れた。


 静かな部屋に人間の姿をした神が二人、向かい合っている、薄暗い行燈の灯りだけが光源だった。

「まさか君が人間と恋に落ちて、子供まで作るとは予想もしていなかったよ」

 カシギが言う。

 母は答えなかった。自分自身もこんなにも地上に心を残すとは思ってもいなかったのだろう。

 だからこそ心を痛めていた。

 まだ幼い子を二人遺して存在が消えてしまう事に。

 何より、愛した人と別れなければいけない事に。

 けれどそれは逃れ得ぬ運命だ。母がこの世界の者でない以上、いつかは訪れる別れだった。

「大国主命(おおくにぬしのみこと)。今なら貴方の言っていた事がわかります――私も、泣く子を助けたい」

 母の言葉でカシギは笑った。

「うまくいくか分からないが……あの子供たちに賭けてみてもいいかい?」

「アギとナユタに?」

「うん。それから、僕の子にも」

 他にもたくさん種は蒔いてあるからね、と言い添えて。

「いつか君を再びこの世界に呼べるように」


 皆が寝静まった集落の中を二人は音もなく移動した。

 お社を越えてさらに奥、ぽつりぽつりと粗末な家が点在しているうちの一つ。

 あたしたちの家にそっと入った。

 父を真ん中にして、小さい頃のあたしとアギが転がって寝ていた。夏近い季節、布団を蹴飛ばしていても風邪をひきはしない。

 けれど母は優しく布団をかけ直した。

「ナユタ。貴方には大神の朱印を授けます」

 母はあたしの勾玉に指を添えると、真っ白な朱印を描き出した。

 あれは神徒を呼ぶ朱印。

「私をこの世界に顕現するにはこの世界に古銭が不足しています。この朱印でこちらの世界へ古銭を流入させ、閾値を超えれば私は再びこの世界に存在できるようになるでしょう」

 母はあたしの頭を撫でた。

 小さな顔を両手で包み込んで、愛おしそうに撫でまわした。

 まだ赤子だったあたしは夢の中でくすぐったそうに嬉しそうに笑っていた。

「こんなに小さな体にこんな大きな朱印を課してごめんなさい。貴方の周りには神徒が現れてしまうでしょう。けれど、成長すればいつかきっと私を呼ぶことも出来るようになるでしょう」

「大変かもしれないが……きっと大丈夫。この子の兄と、僕の子がきっと守ってくれる」

 カシギは――『黒』の力を持つ大黒天(ダイコクテン)様は炎を司る三叉戟を取り出した。

「これは、君の息子のアギに。かつて僕が別の世界の神だった時に使っていたものだ。力をつけるまでは少し時間がかかるだろうから、それまではこの武器に頼るといい」

 アギが持つ三叉戟。

 これも大黒天様にいただいたものだったのか。

 本来ならば剣術を学ぶはずだったアギがこの武器を使っている理由をやっと知った。


 その時、自分の手が半分透明になってしまっているのに気づいた。

 もう猶予はない。

 母は最期に、父の額にそっと口づけた。

「愛しています、ラクシャ様。一緒にいられなくてごめんなさい」

 それを見たカシギが告げる。

「向こうの東の山に、子を亡くした母狼がいる。獣ではあるが、もしかすると君の一部をこの世界に残すことが出来るかもしれない」

「ありがとう――カシギ」

 母はそう言い残すと、扉を閉めた。

 カシギが告げた東の山に向かうため。



 はっとすると、目の前には地獄のような光景が広がっていた。

 鳴り響く破壊音、烏(カラス)から放たれる衝撃波のような鳴き声。

 その中で、母の声ははっきりと聞こえた。

「貴方達に一つだけ謝らなくてはいけない。それは――『白』の境界に落ちたラクシャ様の事」

 10年間ずっと『白』の境界にいた父。その所為で今、肺を蝕まれ生死の縁に立っている。

「あの人が『白』の境界に落ちたのは私の事を考えてしまっていたから。境界に落ちる時、ラクシャ様は私に合えるかもしれないと思ってしまった。その感情の所為で、ラクシャ様はそのまま狭間の世界に囚われてしまった。私でも助けられないほどに」

 母は目を伏せた。

 『白』の境界に落ちた事。そこから10年間、出られなかった事。

 あれは父が母を想い、心のどこかで母を追ってしまったからだったのか。

「私ですら助けられなかったあの人を貴方たちが助けてくれた。そうでなければあの人は狭間で永久に生き続けてしまっていたかもしれない」

 本当にありがとう。

 母は呟いた。

「私は別の世界の存在でありながら、この世界に呼ばれ、人間(ラクシャ)を愛してしまったの」

「わかるよ。だってお父さんは、世界一かっこいいし、世界一強いもん」

 それだけじゃない。

 強くありながら悩み、苦しみ、悲しみ……そんな弱さを持ちながらも前に進もうとする姿に母は惹かれたのだ。あたしが泣き虫だった幼馴染を愛してしまったように。

 母はかすかに唇を笑みの形にした。

「だから安心して。貴方はちゃんと愛されて生まれてきたの」

 大黒天様の落とし子と呼ばれ、神徒を生む娘と呼ばれ、蒼天の舞姫と呼ばれ。

 けれど、あたしはあたしが信じた通り、父と母の娘だった。

 もしかするときっかけは大黒天様にあったのかもしれないが、最後に選んだのは紛れもなく両親だ。

「それに、貴方は一人じゃないのだから」

 母の姿がゆらりと消えていく。

 今のも幻影なのか、それとも――

「……いったい何が何なのか、後で教えてくれるんだろうね?」

 代わりに、肩で息をしながら立っていたのは幼馴染だった。

 回復したわけではない。

 胸に広がる電紋はまったく薄れていない。

 それでも立ち上がった。

 未来を変えるために。


 ガーシャが差し出した手を取って、あたしは進み出た。

 父の刀を持ったアギが、さらにあたしたちを守るように前に歩み出る。

「ナユちゃんの持つ力は、『白』の神徒を呼ぶ力。けれど、もしかするともっとすごい力を持っていたのかもしれないね」

 二人の兄に守られて、あたしは烏(カラス)の神徒を見上げた。

 相変わらず真夜中の太陽のように光り輝いている。

 しかし、いつの間にか空は少しずつ白んできていた。

 夜明けがくる。


 あたしは勾玉を握り締めた。

「来て」

 そして教えてもらった母の名を呼ぶ。

「『天照大神(あまてらすおおみかみ)』」

 その瞬間、水平線から一条の光が走った。


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