大神(1)
咲き始めていた桜の淡い花びらが、ひらりひらりと散り、翼の起こす風に巻きこまれて千切れんばかりに舞い上がった。
春の夜空、濃紺を背景に白く光り輝く神徒。広げられた数十枚の細い翼は円を描き、夜なのにまるで本物の太陽のように『白』い光を照り付けた。真昼のように照らされた武陽城の天守閣は、屋根の濃い影を落としながらも白壁が美しく輝いている。
それこそ神が顕現したような姿だった。
この烏こそがこの世界を滅びへと導く破壊の化身のようだ。
こんなものを相手にどうしたらいいんだ。
畏怖以外の感情を覚えることも難しい――その瞬間にあたしは理解した。
前の世界を知っているというカルラ様とガーシャが経験したという畏怖を。絶望を。恐怖を。戦慄を。悲観を。
それなのに、そのすべてを知った上で前に進もうとした心の強さを。
誰も味方がいない状態で、どん底まで突き落とされてそれでも仲間を集めて這い上がった信念を。
――ああ
感嘆の声が漏れた。
心から尊敬する。
今までもずっと心にあった彼への感情が、もっと深い所まで落とし込まれて胸が苦しくなった。
隣に立つガーシャの手を握り締めた。
彼がどこへも行かない事は分かっている。
どこかへ消えてしまう恐怖ではなく、あたしが貴方の隣に立つために手を取るのだ。
そうしたら、彼も手を握り返して笑いかけてくれた。
「大丈夫、怖くないよ。ナユちゃんがいてくれるから」
「うん、あたしも大丈夫」
アギは担いでいた父を近くの軒下の寝かせ、ぐっと腕を伸ばした。
新緑の民と思しき人が、ガーシャのところへ駆けてきて服を渡した。戦いの最前線で攻撃を受けるなら、肌の露出は少ない方がいい。
頭を押さえてふらふらとしながらも師匠とカラハがやってきて、ルシャナはその後を心配そうについてきた。
さらに後ろからガオウじいちゃんとハテルマ様が、赤都と黄都の神徒狩りを引き連れてやってきた。
アケラ様も追って城から出てきた。
「神都の避難が済んでいない。そちらの護衛も頼めるか?」
「赤都の神徒狩りで担当しよう。シャラ、指揮は頼む」
ガオウじいちゃんが指示を出し、赤都の人々が町へ散っていく。
アリ様とカシギが並んで出てきて、地面に寝かされた父の傍に座った。
二人の養父も酷使されて相当疲れているはずだ。
「ラクシャの事は任せておけ。お前らは――思いっきり、戦ってこい」
「ありがとう」
ガルトさんたちの部隊もアケラ様を囲うように全員揃って影に立つ。
本当にたくさんの人たちが助けてくれるんだな。
こんな時なのに嬉しくて笑ってしまった。
もちろんここにいる人たちだけではない。
研究所の人や、各都の医師、治癒の朱印が使える翠都の人たち。他にもこの討伐はたくさんの人に支えられている。
大丈夫。
あたしたちはこの災害のような神徒に、まだ立ち向かう事ができる。
父から司令塔を引き継いだカシギが言う。よく通る声で。
「さあ、きっとこれで最後だ。僕から言う事はもう何もない。全員で、あの神徒を討伐するんだ」
カシギの声に呼応するように、烏は再び大声で鳴いた。
アギとメイカ様が先陣を切って天守閣へと駆け上がる。
後ろの翼から炎が噴き出したが、同じ炎の三叉戟で迎撃、その背後からメイカ様が光転剣で翼を刈り取った。
ガオウじいちゃんの光輪が二人の頭上に浮かび、落雷から守っている。
新緑色の糸が周囲の建物に張り巡らされ、ハテルマ様はうまくその上を駆けのぼっていく――黄都の密林で培った連携だろうか。なるほどこれなら空を飛ぶ敵にも対応できる。
それを見たカラハと師匠も同じように上へ駆けていった。
が、烏の様子を観察していたガーシャが、その糸の網の一角をパッと消した。
「何しやがる!!」
乗っていたカラハが叫びながら落下したが無視。
その直後、近くの建物に雷が落ちた。
とんでもない雷鳴が鳴り響き、耳を塞ぐ。
さっきの糸を残していたら全員感電してたな。
カラハも体勢を整えて着地していた。元気に怒鳴っているところから考えても、どうやら先ほどの毒の影響はあまりなさそうだ。
あの烏は亀の神徒と同じ固さだ。今、刃を通せるのは、アギとカラハとメイカ様くらい。
ただ、目だけであれば、ルシャナの矢も通る事は確認している。
ばらりと矢を番えた彼女は、再び翼の内側の目玉を残らず射抜いた。
凄まじい声と共に、天守閣を足でつかんでいた烏の身体がぐらりと傾く。
「落ちろ!」
アギが上から三叉戟で押し切って、烏を城の下まで落とした。
太陽が出ていないから光で狙うことも出来ず、非力なあたしには攻撃手段がない。
だとすればやる事は一つだ。他の人が攻撃しやすいようにかく乱し、囮になる。
あたしも再び空へ飛び上がった。
全員が協力して何度も首を斬り落とし、翼を斬り落とし、目を潰し、地に落とし。
切り落とした頭をアギが焼き消したり、粉々になるまで切り刻んだり、何か糸口がないかと探し続ける。
どうすれば倒せるのか分からないまま、ひたすら全員で攻撃を続けた。
首を落とせば動きが止まるため、戦い続けているというわけではないが、徐々に皆疲労がたまってきている。
師匠は一度戻ってきてどっかと座り込んだ。
「このままじゃジリ貧だな」
肩で息をしている師匠。
この程度で師匠がこれほど疲弊するはずはないから、まだ毒の影響が抜けきっていないのかもしれない。
同じく毒に侵されたカラハも絶好調というわけではないかもしれない。
確かにこのままでは少しずつこちらが削られてしまう。
「……少し分かってきたかも」
ガーシャが目を細めながら言った。
「あの烏は普通の神徒より光が強いんだけど、どうやら身体の表面を何かが覆ってるように見える。切り刻んでも焼いても、あの表面の光を起点にして復活しているみたいなんだけど……」
「あの光を烏から消せば復活しないってことか?」
「消すと言うより、引き剥がす……? それともあの光自体が本体なのか」
師匠と話しながらもじっと観察するガーシャ。
この幼馴染は本当によく見ているし、考察が的確だ。
そしてガーシャはアギを呼んだ
「光っている表面だけを狙って攻撃できたりするかな?」
「やってみる」
そして兄はそんな幼馴染のよき手足だ。
とはいえアギも菫都の亀討伐からほとんど休んでいないはずだ。赤都で負った火傷は治してもらったみたいだけど。
アギは再び烏に向かっていき、途中でカラハやメイカ様にも伝えていた。
メイカ様も蒼都の蟹から鯰、烏と連戦だ。
昨日の晩もほぼ寝ていないのに、それほど体力が続くはずがない。
どこかで集中力の切れる瞬間がやってくるだろう。
それまでに糸口を見つけたい。
ガーシャも同じ気持ちなのだろう、自らも色々と試しながら道を探していく。
無数にある筋道を一つずつ潰し、最後に残る正解を追い求めるかのように。
「……眷属」
ぽつり、とガーシャが呟いた。
「ナユちゃん、教えて。もしかしてあの神徒には眷属がいなかった?」
「いた」
覚えている。最初にあたしが出会った烏の周囲にはたくさんの白烏が群れていた。神徒を守るように周囲を取り囲んでいた烏は――
「鷺が倒された時に、本体に吸収されていなくなってた」
あたしの言葉でガーシャは目を細めた。
「もしかしてあれは眷属……? 眷属もすべて倒さなくちゃいけないのか……?」
が、しかし。
敵の分析に集中しすぎたのか、雷の落下に合わせて糸を消すのが一瞬、遅れた。
「がっ……」
糸を通して直に雷撃を受けた身体が硬直して、ぱりり、と電撃が弾けた。
どしゃ、と地面に倒れ伏すガーシャ。
「ガーシャ!」
それに気づいたアギが烏から意識を外した瞬間、音の衝撃波を受けて後ろに吹っ飛んだ。
アギを助けようとしたメイカ様が炎に巻かれかけ、ガオウじいちゃんの盾にぎりぎりで阻まれた。
ガーシャの意識が途切れたせいで張り巡らされていた新緑の糸が一気に消え、ハテルマ様が高い場所から落下した。朱印で緩衝したようだがそれでも全身を打ち付けてうめき声をあげた。
「くっそ」
師匠は重そうな身体を引きずってガーシャを担ぐと、烏から離れるようにして退避し、父が寝かされているあたりに戻った。
頭上から火の塊が降ってくる。
まるで火山が噴火した時のようだ。
凄まじい雷鳴が続けざまに響き渡り、建物を破壊して、焼いた。
地面が割れるほど大きく揺れ、武陽城の石垣が割れ崩れた。
ぎゃああああ、と咆哮をあげる白く発光する烏は、これまで絶えず攻撃を加えてきていた人間たちがいなくなったのをいい事に天守閣に乗って大暴れを始めた。
声が大きすぎて目を開けられないほどの頭痛が襲う。
皆、烏の攻撃を受けて動けない。
ガーシャがやられた途端、場が一気に崩れた。
大きくは動いていなかったはずの彼が、この戦場の要だったのだ。
あたしが何度も死にそうになった時はガーシャが助けてくれていた。
今、その彼が瞼を固く閉じて地面に横たわっている。
ずきんずきんと痛む頭を押さえながらガーシャの下に向かった。
「……ガーシャ」
はだけた胸元に、腕に、くっきりと雷撃傷が浮かんでいた。こんな時でなければ美しいと思えてしまうように枝分かれした電紋。
雷は体の中を通過し、内部を破壊していく。
見た目以上に自体は深刻なはずだ。
周囲では、倒れた前衛の神徒狩りたちを助けるために大きな声でアケラ様が指示を出している。
アケラ様だって戦場に出る立ち位置ではないのに。
ガーシャがいる時は何があっても大丈夫だと思えていたのに、彼を失うかもしれない現実に直面したら、恐怖で足がすくんで動かない。
「ガーシャ!」
後ろからアギが飛び込んできた。
「生きてるか?!」
アギの問いかけとほぼ同時に、師匠はガーシャの胸元を思い切り殴りつけた。
がは、と大きく息を吐いて、心音と呼吸が戻ってくる。
師匠の拳で殴られるなんて、荒療治だが仕方ない。
大丈夫。
生きている。
「いくぞナユタ、まだ倒せてない。ガーシャが途中までやりかけた事を続けるんだ」
アギが手を差し出した。
あたしは考えるより先にその手を取る。
そして駆けだそうとした時だった。
先ほどまで眠っていた父が体を起こした。
アギとあたしは思わず足を止めた。
「……お父さん」
「ああ、すまない。眠っていた」
胸のあたりに手を当てて、周囲を見渡し、音と衝撃を聞き、そして天に座す巨大な烏の姿を見た。
それだけで何が起きているのか察したようだ。
「いるのか、テラス」
父が呼びかけると、どこからともなくふっと先ほどの女性が現れた。
白銀の髪に朱色が少し混じっている。よく似た銀色の着物に朱色の帯揚げ。白狼のテラスそのままの姿を人間にしたような。
「ようやく会えたな」
「はい、ラクシャ様」
母が父の手を取って、二人は立ち上がった。
あたしとアギは呆然と立ち尽くしている。
父はあたしの方に進み出ると、いつものように大きく手を広げて抱擁した。
近づくと、ぜろぜろと呼吸の音がおかしいのが分かった。
まだ全く回復していないのだ。
それでもあたしは父の背に手を回した。
父が最後の覚悟をしている気がして。
「愛している、ナユタ。もし本当にお前が世界を破壊したとしても、絶対に生きていて欲しかったんだ。お前は死ぬな、ナユタ。可愛い俺の娘。心から愛している。お前は生きて、幸せになれ」
いつもと同じ優しい声。
世界一強くて、世界一優しくて、ここは世界で一番安心できる場所だった。
「あたしも愛してる、お父さん。大好き」
かすれて震える声で。
烏の砲撃の音に負けそうになりながら。
それでも父は微笑んだ。
そして名残惜しそうにあたしを放すと、アギに向かった。
「お前もだ、アギ。お前は本当に強い。今のお前なら、俺よりもずっと強い。だから――」
父は、腰に差していた刀をアギに渡した。
「あれはお前が倒すんだ」
「……分かった」
アギは渡された刀を両手で大事そうに受け取った。
人間の姿をした母は、あたしの肩に手を置いた。
「ナユタ。貴方はアギを手伝いましょう」
「どうやって……?」
「名を」
まるで儚い人形のような顔立ち。それでも、漆黒の瞳には強い意思が宿っていた。
鈴の鳴るような声で、しかしはっきりと、母は言った。
「名を呼んで、そして呼んで」
あたしの勾玉に指を乗せた。
「大丈夫、ずっとそうしてきたでしょう。大神の朱印が貴方を導いてくれる」




