最終話 興亡
太陽が燦々と世界を照らし、鳥がのんびり飛ぶ平穏な空。しかしその下では、何とも言い難い狂った空間が存在していた。
魔王城の奥まった一室で、葡萄酒が注がれた酒杯を手に魔王ドゥルジは談笑を響かせる。だが、聞こえるのは彼一人の声だけだ。室内には二脚の椅子が置かれ、一方的に喋るドゥルジと一言も発しない聞き手が腰掛けている。
笑いを交えて楽しげに言葉を紡ぐドゥルジの前に座っているのは、気味の悪い等身大の人形であった。まるで幼子が描いたようなどこか不気味な顔と乱雑に縫われた身体、そして何より禍々しいのが右腕である。それは乾燥し切っていたが、確かに人らしき実物の腕だった。
ミイラ化した右腕が縫い付けられた人形へ話し掛け続けるドゥルジの姿は、どこをどう見ても狂人のそれだが、魔王即位から現在に至る過程を思えば寧ろ狂っていない方が不自然と言える。
他の王位継承者を自ら殺害して強引に即位し、更には魔王城内に居た非ドゥルジ支持者らを尽く粛正。これらドゥルジの暴挙に、竜王シュルフト公とカシィヴ公は動揺しつつも激しく反発。ドゥルジ討伐の兵を挙げた。
新魔王ドゥルジは二公の挙兵を反逆と断じて残る三公に誅滅を命じ、自身も軍を率いて鎮圧に向かう。
ヴルカーン公は静観に徹したが、元よりドゥルジを支持していた大悪魔スブムンド公と吸血鬼ラトンク公は、多少の戸惑いを見せつつもドゥルジの下に多数の兵を送った。
そして魔族領域中央の南北で両軍が衝突。魔王軍は王位の正統性を巡る内戦状態に突入してしまう。
北のシュルフト公と南のカシィヴ公という二正面戦を強いられたドゥルジだったが、己の変身魔法と幻惑魔法を駆使して敵軍に対し、将兵に化けての撹乱や要人暗殺で混乱させて撃退。
挙句には南部でカシィヴ公の暗殺まで成し遂げる。
二月も経たずにカシィヴ公領を降伏に追い込んだ彼は、シュルフト公領でも自身が潜入しての工作で内部から突き崩していく。シュルフト公に従う竜族の有力者らは、ドゥルジによって疑心暗鬼に陥ってしまい、同士討ちや寝返りで少しずつ弱体化していった。
こうして僅か半年の間にカシィヴ公領を降し、シュルフト公領をも追い詰めた。
魔王としての実力を魔族中に見せ付けて足元を乱暴に固めたドゥルジは、シュルフト公の対処を現地軍に任せる。そして、猟奇的な人形と過ごす日々へと至るのだった。
彼はイルムと呼ぶ人形へ話し掛けては、存在しない筈の答えを耳にしているかのように振る舞う。
そんな異常が繰り返される中、扉の向こうから魔王城の長い廊下を駆け抜ける音が近付き始める。やがて足音が止むと、乱暴気味に扉を叩かれた。
「陛下に御注進! 一大事に御座います!」
余程慌てているのか入室の許可も待たずに扉を押そうとして、がちゃがちゃと鍵を喚かせる。開かないと分かると注進の使者は扉越しに報告を始めた。
「南部の旧カシィヴ公領に東のマンデ帝国が攻め入って来ました! マンデ帝国はカシィヴ公を盟友と呼び、仇討ちとカシィヴ公領再興を名分に二万を超える大軍が越境。カシィヴ公の姪御殿を担ぎ上げることで旧カシィヴ公軍を吸収しつつ、フウトを目指しております! 加えて南方の東方砂漠諸国までもが好機とばかりに攻勢に出ました!」
ドゥルジは凶報に耳を貸す様子はなく、人形との会話に夢中であった。何の反応も返って来ない事に気付いているのかいないのか、使者は報告を続ける。
「更に西部を中心に人間共の大規模な攻勢が始まり、ラトンク公及びスブムンド公の両公が救援の催促を何度もこちらに飛ばしています。ラトンク公軍は兵力の不足著しく、また人間共が妙にスブムンド公領の情報を把握しているらしく、スブムンド公軍も苦戦を強いられているとの事!」
室内に飛び込む少しくぐもった叫びに、黒炭の肌とぬらりとした銀の長髪を持つ男が、小さく溜息を吐いた。
「はぁ、面倒だなぁ。せっかくイルムとゆっくり過ごせてたっていうのに」
一度目を瞑って彼は肩を竦める。瞼が持ち上がるとその下にあった瞳が遠くを見始めた。
「イルムをファウダーから遠ざけた親父を殺した時もそうだったか。これで順当に俺が魔王になってイルムを呼び戻せると思ったのに、ヴルカーンの爺が日和見に走るたぁな……」
顔を顰めるドゥルジだったが、突然思い出したとばかりに、人形へ向けて前のめりになる。
「そうそう言ってなかったな! お前の母親に化けて、彼奴が呆然と近寄って来たところで首を掻っ切ってやったんだ。あれは戦続きで多少は疲れがあった状態を突けたから上手くいったが、そうじゃなきゃ俺が死んでたかもなぁ」
少しの沈黙を挟んで、恰も人形から反応があったかのように、彼の表情が不敵なものに変わった。
「なぁに、可愛い異母弟に酷い仕打ちをするなら親でも許せなかったからな。ピュートーンもアポピスもクソ生意気だったが、お前だけは本当に可愛くって、照れ隠しに色々を言っちまって……」
ドゥルジは己の言葉の後半からだんだん顔を曇らせる。しかし、それもすぐにぱっと晴れた。
「……気にしてないだなんて、優しいなイルムは」
「陛下!」
「ちっ、残念だがもう行かなきゃならねぇや。すぐに片付けてくるから、待っててくれな」
椅子から立ち上がった彼が、優しげな手付きで人形の頭を撫でる。そして全魔族の王は踵を返して扉に向かった。
魔王ドゥルジの即位以降、内戦によってカシィヴ公を失いシュルフト公も離反した事で、魔王軍は急速に弱体化しつつあった。
人間諸国がこれを見逃す筈がなく、対魔族同盟や聖討軍が一挙に攻勢を開始。挙句には東の大帝国マンデが、友好関係にあったカシィヴ公領の再興を大義名分に魔王軍への戦を宣する。
北から北東の方角を除く全方位を敵に挟まれた魔王軍は、戦闘の度に敗走を重ねた。
ところが魔王ドゥルジが前線に現れると、人間達の軍の間では情報や命令が錯綜するようになり、更には高位の将軍らが次々に暗殺され、彼らの勢いはすぐに止まってしまう。この新たなる魔王の登場に人間達は一様に恐れをなした。
だがしかし、戦況を逆転させるまでには至らない。
確かに人間諸勢力の攻勢は鈍化したものの、多勢に無勢が過ぎた。魔王軍にはかつてのような強力な竜軍は存在せず、カシィヴ公の外交によって安全であった東のマンデ帝国が敵に回っている。戦力が大幅に減少した一方で敵を増やしてしまったのだ。
ドゥルジの撹乱や暗殺は高い効力を発揮してはいるが、いかんせん単独では広過ぎる戦線を支えきれず、魔王軍はその場を何とか凌ぎながらも、年を跨ぐ度に確実な後退を余儀なくされていく。
そして、とどめの一撃とばかりに、南西の方で重大事が起きた。
一人の女性が短い草の上を歩いている。彼女は遠目には黒にも見える濃い栗色の髪を三つ編みで一本に纏めて、修道女のように白い布を被っていた。その周りには鎖帷子を身に付け武器を手にしたゴブリンがざっと数十はおり、全員興奮した様子を見せている。
女性はこれから殉教しにいくかの如く、決意の表情でゆっくりと足を運んだ。歩を進め、若草色に染まる小高い丘の上に立つ。
広がる視界には地平線まで一面ゴブリンで埋まっていた。
鎖帷子に半球状の丸兜、鱗鎧に小札鎧といった重装備から、布鎧などの軽装備、果てにはぼろ服一枚の格好のゴブリンまで様々だが、皆例外なく槍や刀剣を始めとする武器を持ち、また女性の周囲を囲むゴブリンらと同じく興奮を抑えられない様子だ。
異様な熱気に包まれる人間の女性は、ともすれば生贄か何かと思われそうだが、これは決してそうではない。新雪の肌に埋め込まれた鷲の瞳が鋭さを増すと、赤い口からよく張った声が青空へ走り出す。
「ゴブリン達よ! 遂に我らが立ち上がる時が来た!」
万を優に数える小人の大軍勢が咆哮を上げた。彼らが掲げた旗が風に煽られてばさりと翻る。
白地に鮮やかな赤の斜め十字が染め抜かれ、上下左右の四つに区切られた白の上にも小さな斜交赤十字がそれぞれ一つずつ置かれていた。ゴブリンらを見下ろす女性は、自分の隣にも立つその旗を指し示す。
「ナリカラの地に我らの旗を立てる時が来たのだ! 旗にある四つの小赤十字が示す通り、総主教庁を始め、各地の教会も我らの父祖地回復を支持しておられる。天におわす主、そして聖女ニヌアも我らに付いておられるぞ。弱り切った魔王軍など最早脅威ではない!」
彼女の演説に合わせて、斜交十字の首飾りを握り締める白布を被った亜使徒の旗が掲げられ、再び歓声が沸き起こった。
大地を各々の身体で埋め空を雄叫びで埋める彼らは、五年前の第二次魔王軍侵攻を受けたナリカラより、人間諸国へ逃れてきたゴブリンである。各地に散り散りとなり、国王ティラムズも失ってしまったナリカラゴブリンだったが、昨年、ある一人の人間を指導者としてナリカラ奪還を目指す軍が起こされた。
その指導者が演説を打つ彼女だ。彼女はナリカラ王家の血を引くゴブリンを亡き王に代わる旗頭とし、自身はその摂政という形で実質的な総司令官となっている。今も熱狂するゴブリンが時折「摂政殿下!」と叫んで、彼女を称えていた。
喚声が収まり始めた頃を見計らって、摂政の女性は止めていた演説を再開する。
「亡者の王たる吸血鬼ラトンクは北方騎士団総長ロイエ卿が討ち果たした。我らはこの勢いに乗じてナリカラを奪い返す。更には魔族領に雪崩れ込み、残る魔族五公スブムンドを討つ! 進め、ナリカラ王国の同志よ! 故郷を取り戻せ!」
最後の言葉が出終わる前に、天地を揺るがす大咆哮が響き渡った。小人達は誰もが正気を失ったかのように叫び声を爆発させ武器を振り上げる。
「進軍ー!」
ロバなどに跨るゴブリンの騎兵があちこちで命令を飛ばし、背丈が人間の半分よりやや高い程度しかない小人の兵士達が、それぞれの武器を担いで一斉に歩き出した。
このゴブリン軍を指揮する摂政の女性も馬に騎乗して、行軍に参加する。彼女は腰に下げた短剣を一度触ったが、その剣は単眼巨人の手で打たれた業物であった。
ゴブリン軍は人間諸国の支援により順調に進み続け、人間諸国とナリカラを分ける山脈さえもあっさりと超える。魔王軍は人間軍相手で手一杯なのか、国境要塞は守備が手薄な上に、魔王軍に従っていたゴブリン兵は簡単に寝返ったため、ほとんど犠牲を出さずに突破。
生まれ育った地から魔王軍に追いやられた者達は、五年ぶりに懐かしき草土を踏み、山々に囲まれた景色を涙ぐんだ瞳に焼き付ける。
ナリカラ北西部に侵入したゴブリン軍は、かつてディアウヒと呼ばれていた城塞都市跡を拠点とし、斥候部隊の他に各地のゴブリンに向けて協力要請の使者を出した。少数の魔族を数で蹴散らし、凄まじい勢いで北西部地域を掌握した彼らは、次に旧王都リオニを目指す。
哨戒と前進を並行してなるべく素早い進軍を心掛ける中、本陣に奇妙な報告が上がる。
「魔族を捕らえた?」
「はっ……ただ、その妙な事を口走っておりまして……」
摂政は折りたたみ椅子の上から、斥候を率いていた部隊長のゴブリンの言葉に片眉の形を変えた。
「灰色の毛並みに頭頂部のみ薄紫の毛を生やした珍妙な犬を連れた魔族らしきその者は、己を囲う我らに向けて、頻りにこう名乗るのです」
――自分は“魔王の庶子”だと。
突然弾かれたように女性が立ち上がり、猛烈な速さで駆け出した。大休止中のゴブリン兵らの間を走り抜け、ゴブリンが集まっている一点を目指す。野次馬の波に身体を捻じ込み無理矢理に道を割っていく。
「せ、摂政殿下!?」
「こここ、これは失礼を。エルガ様!」
押しのけられたゴブリンの仰天した声に、慌てて彼らは左右に退いた。
用意された道の先には、頭に薄紫の線がある灰色の犬と、病人の如き青白く痩せこけた身体にぼろを纏う男がゴブリンの兵士と言い争っている。
「だから僕は――」
「わう!」
地面に伏せていた犬が摂政の姿を認めると、目をぱちくりさせた後に身を起こして吠えた。男の頭が犬と同じ方向に向く。その瞬間、時が止まった。
ゴブリン以外の全員が、目を丸くさせたまま動けなくなる。しばらくの間、風も吹かぬ無音が場を支配してしまう。
だが、唐突に訪れたそれは、唐突に崩れ去った。その沈黙を壊したのは、人間の兵を引き連れてやって来た、文官姿の細身な人間の男だった。
「エルガ様、遅ればせながらタトラ伯ゲラルト卿と共に、ルカ参陣致しました。それとアニ殿が……って、え?」
青白い男の顔を見た途端固まったルカは、若くして研鑽を重ねた者としての威厳が綻び、元雑貨商の木端官僚だった往時の顔に戻る。
ナリカラ王国摂政も五年前の彼女に帰ったかのように、隻腕の男にずんずん近寄るなり、彼の頭を両手でむんずと掴んだ。
「エ、エルガ?」
「この……」
彼女の頭が後ろに仰け反り、やがて前方へ打ち出された。
ごぉん! と鈍い音が生まれ、二人の額同士がくっつく。
「痛っ……つつ……あ、あのー」
「黙れ。私の方が言いたい事が山ほどある。山ほど……」
氷柱を思わせる冷たい瞳が、溶けた。
「……うん。僕も話したい事が、あるんだ」
魔族の男は柔らかく微笑んで、彼女の肩を抱き寄せた。
「ところでこの犬は、まさかとは思うが」
「わふっ、私ですよー色々ありまして。変態から逃げる時に変身魔法使ったら戻り方が分からなくなっちゃいました」
「嘘つけ、犬の方が楽だから戻りたくないだけでしょ。まあ積もる話は後でたっぷりしよう。時間はいくらでもある。……五年の歳月なんか目じゃない程ね」
ナリカラに入ったゴブリン軍は僅か十日でリオニを確保し、ナリカラ王国の復活を宣言。これをきっかけに各地のゴブリンが蜂起した事もあって、瞬く間に全土を解放する。
再興されたナリカラ王国は一万余の兵を揃えると、北のスブムンド公領を強襲。更にキーイ大公国を始めとする人間諸国軍がナリカラを通過し、ナリカラ王国軍に続いた。
二年の月日を経て、スブムンド公領は陥落。スブムンド公は重傷を負いながらファウダーへと逃げていき、魔王軍は挽回不可能な程の苦境に立たされる。
以後、不退転の覚悟で抵抗する魔王軍と、占領地の鎮撫や再編に手を取られる人間諸国の間で戦況は膠着。
この状況はスブムンド公が死去し、魔王ドゥルジが魔族らによって魔王の座から引き摺り下ろされ、講和が成立するまで、半世紀もの間変わることはなかった。
ナリカラ王国はその後、二百年以上存続したが、魔王軍との戦を終えた人間諸国同士の争いや深刻な農作物への病害などを要因としてゆっくりと衰退。最終的には四つの国へばらばらに分かれてしまい、長く大国の影響下に置かれる時代を迎える。
再統一が成されるには更に二百四十年程待たねばならない。
それでもナリカラ王国は、魔王軍の支配を脱した上に人間諸国との交流を盛んに行い、ゴブリンの国際的地位や評価を大いに押し上げたとして、後世評価され続けた。
初期の王国を支えた摂政エルガも、高く評価され聖人として列聖されてすらいるが、彼女は生涯夫も子も持たなかったと伝えられている。
ただ、ナリカラの一部地方に彼女をモデルにしたと見られる女性がある男と出会い連れ添ったという伝承があるのだが、その地以外に類似の伝承は確認されず、研究者らは民俗学上はともかく史料としての価値は無いと断じている。
その伝承は以下のようなものだ。
ゴブリンを供に連れた聖女の前へ、突如として狂人の男と彼を操る魔女が現れ、聖女を害そうとしてきた。
聖女は神に祈ると天から光が差し、男を正気に戻す。それを見た魔女は、ならばと魔法を放つが、聖女はこれを神の加護で跳ね返してしまった。
魔女は自らの魔法を受けて犬となってしまい、なす術なく降参する。
すると聖女は男と犬になった魔女へ己の供をするよう命じ、以降男はよく聖女に仕え、魔犬は忠実に二人を守ったという。
「誰がそんな話にしてしまったんですかねー全く」
少女はその声を耳にしたような気がして、目を覚ます。首を回すと床に伏せて寝息を立てる灰色の老犬が見えた。酷く年老いた雌犬の頭頂部にひと房ある薄紫の毛を寝ぼけた眼で見ていた女の子は、こてんと首を傾げる。
「アミネ、今喋った? ……そんなわけないか」
黒味のある濃い栗色の髪を伸ばした少女は血のように赤黒い瞳を瞼で蓋をすると、もぞもぞ体勢を整えて夢の中へ歩き出した。
主人の動きが規則的な呼吸だけになったのを確認した老犬は、息を一つ吐いて咄嗟に腹の下へ隠した本をよぼよぼとした動作で目の前に取り出す。ナリカラの民間伝承などを纏めたその書物は、ひとりでに浮いて本棚の元の位置へと戻っていった。
ふと灰色の老犬がこちらに振り返る。そして犬の前脚だった筈の右手の人差し指を口の前に立てた。
「しー、御子孫様のお話はまた今度」
そう言って、老い切った魔犬は悪戯っぽく微笑んだ。




