エピローグ
「えー、魔族の総督イルムによる短い支配は、“反乱王”ティラムズのクーデターで終わり、イルム本人も混乱の最中で命を落としたとされている」
教師の声と黒板にチョークが打ち付けられるかつかつという小気味良い音色だけが響く。その後に紙の上を鉛筆が走る音も続いた。
「これが、所謂“ナリカラ独立戦争“の始まりだな。総督の名前は覚えなくていいぞー、たった数年居ただけで功績も残してないからな。でもティラムズ王は絶対頭に入れるように」
振り返って眼鏡越しに生徒を見やった随分と小柄な教師は、視界に映る全員が鉛筆を動かしている事に頷き、一度チョークを置いた。
「この王も歴史上の出番は短いが、魔王軍の支配から脱するきっかけを作ったんだ。来月の試験に出るのは有名な摂政エルガだけではないからな」
そう言ってからゴブリンの教師は背を向けていた黒板の前に戻る。
それを見つめる生徒の一人、黒っぽい濃い栗毛を後ろに流す女学生が欠伸を堪えた。
決して授業にやる気が出ないのではない。ただ午後の授業は内容に関わらず眠気が湧いてしまうのである。
睡魔が瞼を押し下げようとするのを瞬きで耐えて、彼女は黒板に書かれた文字を写書することに集中した。その甲斐あって、教師に見せてはならない失態を演じずに、授業終了の鐘を耳にできた。
鐘の音を聞いた途端、先程までの眠気は嘘のように消え去り、釈然としない気分のまま下校の途に就く。
石や煉瓦積みの古い街並みを歩いていると、よく休日に寄るカフェテラスが見えてきた。この時間帯は大抵、政治談義に興じる者達が席を埋めており、今日もコーヒーや新聞を片手に持ったゴブリンや人間の男達で賑わっている。
店の前を通り過ぎる際、彼らの声の一部が嫌でも耳に飛び込んできた。
「イルムとかいう魔族の像の撤去が決まったそうだな」
「当然だ。そもそも何であんなもの建てられたんだ、全く」
「学者の中にはイルムの評価は誤解に塗れているとか言ってるのもいるが、そういう連中は連邦に金貰ってるに違いない。あの魔族の国にな」
「非愛国的な奴等め」
最近、世界では民族主義を始めとするナショナリズムの熱が高まっている。ナリカラでも国粋主義的論調が大手を振るくらいに。
カフェテラスで時折上がる「魔族」という言葉に、その魔族の血が流れている彼女は顔を俯かせて足早にその場から遠ざかった。
家に帰る道の途中、彼女は見知った顔を見かけた。ほんの少し暗かった表情が明るくなる。
「あ、“男爵“! こんにちは!」
ナリカラではまだ珍しい背広姿の男が、挨拶の声に振り向く。
“男爵”と爵位で呼ばれたが、この男は別に貴族でも何でもない。寧ろ鉄道仕事を長く経験した元労働者で、何なら自分の家も持っていない。つまりただの渾名に過ぎないのだが、彼の風貌や纏う空気は如何にも誇り高そうで貴族然としていた。
髭を生やした紳士に無愛想を詰め込んだかのような男は、元気の良い明るい挨拶に対し、見た目に違わぬぶっきらぼうに近い態度で「ああ」とだけ返す。しかし彼女はそんな男に慣れているのか嫌な顔一つせず、親しげに話し掛ける。
「今日の分は終わったの? ねぇ今度こそ私の家で夕食食べない?」
「いや、依頼人から食事を振る舞うと言われた。今日の寝床もだ」
そう“男爵”は素っ気なく言う。彼女はその答えに眉尻を僅かに下げた。
「……描きかけだが、絵を見るか?」
「いいの!?」
男の一言が、ぱっと彼女の面持ちを輝かせる。
普段は絵の具の費用を依頼料に格安で看板などを書いているこの画家は、それら慎ましい仕事とは別に、己の赴くまま作品を描く時もあった。そういった作品は人に見せる事がほとんどないのは、この古い町で有名な話だ。
驚異的な速さで絵を仕上げると評判の彼の描きかけともなれば尚更稀なことである。
画家は絵具箱とは別に持っていた板を、見るからにわくわくとした様子の女学生の前へ差し出した。黒い油布のキャンバスには彼の作風に漏れぬ、素朴なタッチが踊っている。通常の画家が好む明るい色合いはほとんどないというのに、暗い印象は微塵もない。
無愛想なこの画家を町の住人が誰一人として嫌っていないのは、荘厳だが柔らかくもある作品から彼の心根を感じているからだろう。
描きかけだという絵は、ひと組の男女が並んで立つもので、どちらもナリカラの装いとは違う格好をしている。
「男爵、この二人は誰なの? ナリカラの人じゃないみたいだけど」
「私も知らん。夢に出てきたんだ」
「夢?」
意外な言葉に彼女の面が上がった。男爵と呼ばれる画家は淡々と語る。
「ああ、真っ白な世界に立っていたかと思えば、この二人に依頼されたんだ。描いてくれと」
ゆっくりとした瞬きに似合わない饒舌が続く。
「私も描きたいと、思った。目が覚めたら内側から、描けと魂が命じてきた。だから描いているのだが……」
途中急に歯切れを悪くさせた男爵に、暗い栗色の髪を揺らして女学生の頭が若干横に傾く。
「何故だか中々納得のいくようにならない。恋人同士のようであり、夫婦のようでもあり、それでいて親友の間柄のようでもある。あの時見たそんな二人を、二人の魂の輪郭を描こうとしている最中だ」
もどかしいとか悔しいといった分かりやすい色を見せることなく、相変わらず感情のない平坦な語りはそこで終わった。
彼女は上げていた視線を絵に戻す。油布の黒を背景に立つ男女は、衣服や雰囲気からナリカラ人ではなく、また今よりずっと昔の人間だと感じる。現在との間にある年月は百年二百年程度ではないだろう。
漆黒の髪を流す男性は、酷く青白い相貌でなんとも不健康そうだが、赤黒い瞳は穏やかで柔らかい口元と合わせて幸福そうですらある。
そして鷲の如く凛として気品のある女性の方は、仏頂面のようでどこか隣の男性と同様に幸を噛み締めているように見えた。
じっくりと絵を眺めていた彼女だが、一つの違和感を覚え、そのまま疑問を口に出す。
「あれ、男の人は左腕が無いの?」
「ああ、夢に出てきた時、彼の片腕は無かった。袖だけが揺れていた」
改めて素朴な絵を見れば、青白い男の左袖が弱い風に吹かれて中途半端に捻くれながら、外側へ流れていた。袖の中が空っぽなのが明らかな描写だ。
「……なんだろう、不思議と他人だとは思えない感じがする」
引き込まれるように絵から目を逸らせない彼女を、男爵は黙って見つめる。だが、ふと足元に気配を感じて、そちらに視線を向けた。
頭頂部に一房薄紫の毛を生やした灰色の老犬が、懸命に首を上げて絵の中で佇む男女を見入っている。その瞳は眩しいものを見るような温かい色を帯びていた。
思わずといった様子で男爵の口から言葉が漏れる。
「二人に混ざりたいのか?」
独り言に近いそれに、なんと答えが返ってきた。
「そりゃ野暮ってもんですよ」
にやりと人間臭い笑みを浮かべた老犬に、男爵は一度目を見張りつつも、常の声色で「そうか」の一言で済ませる。
画家と老犬の短いやりとりが終わって五秒程過ぎてから、ようやく彼女が再始動した。男爵の足元にちょこんと座る老犬を見て軽く驚く。
「あっ! アミネ、何勝手に家を出てるの」
しゃがんで犬と目線を合わせると、頭をぐしぐし掻き回した。ぼわっと立った毛を嫌そうに老犬が身を震わせ、抗議の目を向ける。立ち上がった彼女は言葉なき抗議を無視して、男爵に別れの挨拶を交わした。
彼女が老犬を連れて帰路に戻るのを見送った男爵は、近くにあった木箱と民家の壁をイーゼル代わりに、男女の絵を立て掛ける。
絵具箱を開いて筆と使い古された木のパレットを取り出し、最後に絵の具の準備を終えると、一心不乱に絵画の手直しを始めた。
ひと組の男女の腰にそれぞれ大小の刀剣が下げられる。男には曲刀が、女性の腰には鍔のない短剣が加えられた。
男爵は知る由も無かったが、この二口はどちらも、今は女学生の家に家宝として飾られている。二人が生きた証として。
今日も世界は当たり前に続いていた。何があろうと、何が起ころうと、何が滅びようと、関係なく。
古の時代よりも遥かに前から、今に至るまで、更にはその先の彼方へと、世界は断絶する事なく地続きに繋がっているのだから。
これにて完結。最後まで拙作をお読み頂きありがとうございました!
人生初の連載長編を書き終え、少なくない経験を得ることができました。次回作等に生かす所存です。
以下に、史実元ネタなどがある登場人物のモデルを列挙して終わりとします。
ジョージアという魅力あふれる異国の歴史に敬意と感謝を込めて。
・キャラクター名 【元ネタと解説】
・イルム 【史実モデル無し。名前は“知識”を意味するアラビア語から】
・アミネ 【史実モデル無し。アラブの昔話に登場する魔女にしてグールの妻から。昔話において、主人公を犬に変えた魔女アミネは、主人公を元に戻した良い魔法使いによって犬に変えられる】
・エルガ 【キエフ大公国第2代大公イーゴリ1世の妃オリガから。1話の渡し舟の下りはイーゴリ1世とオリガの馴れ初めが元】
・クムバト 【アルメニア人貴族オルベリヤン家のエリクム、スムバト兄弟から。王に次ぐ領地を持っていたオルベリヤン家は、ギオルギ3世王の時代にグルジア王家へのクーデターを試みるも失敗し不遇の日々を送るが、兄弟の時代にグルジア王国へ侵入したモンゴルにいち早く取り入ったことで(途中、兄ノリクムは急死したが)“諸侯の中の諸侯”と呼ばれる程の権勢を誇るようになる】
・ギオルギ 【近世ジョージアの英雄ギオルギ・サアカゼ……というのは後付け(サアカゼの事は割と最近知った)でグルジア王国最盛期を築いたギオルギ3世から名前だけ取った】
・“沈黙”のエレクレ 【18世紀のカルトリ(グルジア中部)王エレクレ2世から。久しぶりに外国語wiki見たらキャラ作成時と内容凄い変わってる……「白鳥の歌」に例えられた云々の記述どこいった。あれ見て無口キャラにしたのに】
・ティラムズ 【17世紀のカヘティ(東グルジア)王テイムラズから。テイムラズ1世はサファヴィー朝のアッバース大王の下で人質として過ごし、ペルシア語の詩などに魅せられ詩作に打ち込んだが、カヘティ貴族の求めとサファヴィー朝の政治的都合で王となる。その後はグルジアを圧迫するサファヴィー朝に対し数えきれないほどの反乱を繰り返した】
・“黒狼”のサディン 【宰相を輩出した名門ザカリヤン家に仕えた重臣サドゥン・アルツルニから。サドゥンはモンゴルのフレグの寵愛を受け、アルツルニ家は後に主家を凌ぐどころか王を名乗れるほどに強大化した】
・男爵 【ジョージアの国民的芸術家“放浪の画家”ニコロズ・ピロスマナシヴィリから。キャラ像はグルジア史創作アンソロジー収録作品や映画「ピロスマニ」の予告映像を参考】




