百五十三話 暗黒より上る
左腹部を赤く染めたサディンが剣を杖にして傾く身体を支える。眼前で起きた事に指一つ動かせないイルムだったが、出血をものともせず立ち上がったゴブリンに思わず掠れた声を掛けた。
「サ、サディン……」
「閣下、私に構わずこの場を脱して下さい。貴方様が居なくては、げほっ……ナリカラ最大の大貴族になる私の野望が、絶たれてしまうではありませんか」
咳き込みつつも“黒狼”の異名で知られるゴブリンは、不敵な笑みと本心を零す。不意打ちを喰らったイルムが連れられて噴き出した。
「ぶふっ! ……足止め、任せたよ」
身を縛っていたものがふっと解けた彼は、そう一言だけ口にするなり、地上へ上がる階段目掛けて駆け出す。その背後で剣をぶつけ合うような甲高い音が鳴り響き始めた。それらを振り切らんとイルムは足を速める。
「アミネ、退いて!」
通路の真ん中で立ち尽くすかつて従者だった女屍食鬼を、横に押しのけようと肩に手を掛けた。
その時、聞こえていた筈の音が止んでいる事に気付いた。隣にぬうっと黒炭肌の男が現れた事にも。
反射的に腰の左側へ右手を伸ばすが、入牢の際に剣を取り上げられていたのを思い出し、魔力を掌に集める。何本もの氷の針を宙に作り出すなり、闇に溶け込む怪人ドゥルジへ向けて散弾の如く撃ち出した。
相手は避けようともせずに氷針を全て受け入れる。氷で出来た太い棘の数々が、蠅の群れの中を素通りしていった。肉体の一部を崩して無数の蠅へと変身させる事で、攻撃の全てを無効化しているのだ。
「いきなり攻撃してくるなんて、お兄ちゃん悲しいぞー。でも俺は優しいから異母弟の癇癪にも付き合ってやろう」
にやにやと意地の悪い笑顔で両手を広げるドゥルジに対し、イルムは魔法を放った後壁際へ駆け寄っていた。そして単純な燭台に支えられていた松明を取る。ドゥルジへと振り返る際、その勢いを乗せて松明を恰も剣であるかのように振るう。
揺らめく炎が蛇の如く伸び、しなる刃と化して穢らわしい蟲の集合体を薙ぎ払わんと襲い掛かった。笑みを消したドゥルジが初めて回避行動に移る。燃え盛る斬撃は僅かに掠るだけであったが、それだけで何十匹という蠅が炎の餌食となり一斉に燃え落ちていく。
魔力を松明へ送り、炎を操って焔の剣を作り上げたイルムは、火の粉を散らしながら逆袈裟に斬り上げた。
黒炭色の指から魔力の爪が出現する。長く伸びたそれは真っ向から炎剣を切り裂いた。ばらばらになった炎は急速に縮み、ドゥルジの身体に届く頃には叩き落とせそうな程に小さくなってしまう。その内の一つが、彼の嘲笑顔へひょろひょろと向かった。
ふっ。
が、一息で呆気なく吹き消された。舌を打ちつつ松明を構え直すイルムは、再び炎の刃を形成しようと魔力を練る。しかし、棒の先で勢いを強めた火が、黒い手に握り潰された。魔力で覆われたその手は火傷など全く負わずに、そのまま松明の先端をへし折ってしまう。
「くっ……!」
武器を失ったイルムは苦し紛れに折れた棒を投げ付け、別の松明を手に入れようと右足を踏み込む。駆け出す一歩目として地面から靴が離れた瞬間、腹に衝撃が突っ込み身体全てが地より離れた。慣性がイルムを壁に叩き付ける。
ドゥルジは蹴りを繰り出した足を宙から下ろした。受け身も取れず床に這いつくばるイルムを、彼は楽しそうに眺める。
「おぇっ」
膝と肘で何とか胴体を持ち上げた青年が、胃の中身を吐き出した。痛みと吐き気でぐちゃぐちゃになりながらも、立ち上がろうとイルムが壁に右腕を突く。
上がりつつある視界に影が覆い被さった。音もなく近寄って来たドゥルジが、イルムの顎を掴む。首の向きを強制的に彼の方へ回された。かなりの力だったために、ぐきりと骨が小さく嫌な音を奏でる。
イルムの顰め顔の上へ被せるようにドゥルジが己の面を寄せた。彼の手には粘り気を含む赤い液体がべったりと付着している。
「終わりだよイルム。分かるだろ? 総督府は崩壊し、クーデターも潰れた。ナリカラというお前の努力の結晶が滅ぶんだ」
両手だけでなく頬も返り血で濡れているドゥルジの凶悪な笑みが、イルムの視界を埋めた。
「言ったよな、どうせお前は何もできやしないって。その通りだったろ? だから……」
黒炭の悪魔が己に酔っていた顔を歪める。鼻先に見えるイルムの瞳に、気に入らない光が宿っているのに気付いたのだ。
「……何で目が死んでないんだ。終わったんだよ! お仲間は全員消えた。積み上げた物も全て水泡に帰した。……違うだろ、ここは絶望に沈むところだろうが!」
掴まれたイルムの顎に万力のような圧力が掛かる。突然冷静を失うドゥルジを、イルムは痛みに耐えて強く睨み続けた。それが余計に気に食わなかったのか、ドゥルジは顎を挟んでいた右手を下にずらして首を握り締めた。呼吸を止められては流石にイルムも焦りを表に出す。
相手の腕を引き剥がそうと掴んだ両手へ魔力を集束させ、熱に変換して焼き上げに掛かった。が、煙こそ立ち昇れども、首を絞める腕はびくともしない。
目に映る光景の端がぼやけ始めた。まずいと思いながらも打開の糸口すら見出せず、意識がふらついていく。
「ドゥルジ殿下! それ以上はっ!」
聞き覚えのある声が耳を叩き、圧迫されていた喉が解放された。いきなり空気が気道に雪崩れ込んだ事で激しく咳き込む。イルムは生理的に潤んだ眼で、何が起こったのかの把握に努めた。
ドゥルジの背後から飛び掛かったらしいアミネが、彼の両肩を引っ張って制止の言葉を休まず叫んでいる。
「いけません殿下! どうか冷静に」
「邪魔だ!」
彼女の制止を振り解いたドゥルジの腕が、横薙ぎに振り抜かれた。女屍食鬼の首が回り、後ろで束られた薄紫の髪が正面を向く。同時に骨が砕ける音が辺りに鈍く響いた。糸の切れた人形のように、どさりとアミネが倒れる。
あらぬ方向を向く彼女の頭には痙攣か何かの震えが起きているが、首から下は一切動く気配がない。彼女をそのようにした当の本人は、不機嫌そうに鼻を鳴らすとイルムの方へ向き直る。
だが、イルムは既に攻撃の体勢を取っていた。血を思わせる赤黒い瞳に殺気を纏わせて、右手から魔力を放出させる。
刃の形を成したそれが、ドゥルジの胸部を切り裂く。血は一滴も出なかった。代わりに蠅の群れが小煩い羽音を立てて、てんでんばらばらに逃げ散っていった。
「……やっぱり分身だな。本体はファウダーから動いていない。動ける筈がない。ファウダー守備隊司令と魔王候補という立場があるお前が、そうそう魔都を離れられる訳がない」
殺気と怒気を放ちつつも冷静に見極めるイルムに、ドゥルジが表情を変える。
「その通り。ファウダーの外ではこうして分身体を使っている。魔力量とそれに比例して実力も本体には劣る。だが、並列思考を備えている以上、劣化版といえどもドゥルジである事に変わりはない」
魔王第一子の分身は、自信のみを覗かせて獰猛に笑う。彼の自分語りの間に突進していたイルムが、魔力の曲刀を上段に構えてもなお、笑っていた。
「結局のところ、お前に勝ち目はないってこった」
振り下ろされる刃を片手で受け止め、イルムの腹部を足で打つ。細身の青白い青年が、くの字になってふっ飛んだ。
「……?」
蹴り出した足に伝わる手応えが、随分少ない事にドゥルジの片眉が傾く。と、ほぼ同時に受け止めたままだった魔力の曲刀が、爆発した。
「どうだ!」
ひっくり返った状態から起き上がったイルムは、そう声を張り上げる。
彼は刀を止められた瞬間に手を緩めつつ、地面を蹴って身体を後退させることで相手の攻撃を受け流していた。そして曲刀の形をした魔力の塊は、己の手から離れたら暴走して炸裂するよう予め細工をしていたのだ。
至近距離で爆発をまともに喰らえば、ドゥルジといえどもタダでは済まない。それでもイルムは慢心せずに次の手を打つ。
壁に走り寄って松明を手にした。爆発により舞い上がった埃や砂が充満する中で、影が動く。あれだけではドゥルジを倒すには至らないらしい。想定していた通りの展開に動じる事なく、松明を燃える穂先の短槍へと変化させる。
しかし、イルムの身へ若干の脱力感がのし掛かった。魔力切れが近付いている。早々に勝負を決めねばならない。
そう思った彼は粉塵漂う中へと突っ込んだ。濃い煙の中に浮かぶ影の胸辺りを狙って全力で突き出す。槍の勢いで砂埃が散り、塞がれていた視界の一部が明瞭に見えた。
途端に目標の身体が縦に割れて、火で作られた槍先が空を突く。
「なっ」
天井へ伸びた足が股から左右分かれていた。その中央を松明とイルムの右腕が通過する。ドゥルジの両足が閉じてイルムの腕を挟むと、自らは身を起こし、逆に下がる足でイルムを床に引き倒す。
凄まじい力で引っ張られたイルムが、一回転して仰向けにひっくり返った。後頭部を強打して目眩を起こす彼の上へドゥルジが乗り掛かる。くらくらする目に映った姿は、あちこちが焦げていた。
ドゥルジはさっきイルムがしたように、魔力の剣を創造する。そして何の躊躇いもなく振り下ろした。
「あっあああぁ!」
気絶するような激痛に悲鳴が上がる。イルムが暴れ回る痛みを少しでも押さえ付けようと、右手で左の肩を必死に抱く。左腕の感覚は、無い。
痛覚が叫びに叫ぶ中、それでも耳が騒がしい足音を捉えた。
「っ、総督閣下!? 閣下を御救いせよ、突撃!」
突如として地下堂にゴブリンの集団が雪崩れ込む。
彼らは、イルムから噴き出た血を浴びたドゥルジを視認するなり、武器を掲げて突っ込んで来た。
「雑魚が邪魔立てするな!」
怒りを吼えたドゥルジは、剣を消すと代わりに魔力の爪を生成して両腕を振るう。ゴブリンは次々とずたずたにされていくが、怯まずに数で押そうと突撃を続けた。
彼らが時を稼いでくれている間に、イルムは右肩を庇いながら身をくねらせて、地下より上がる階段を目指す。その途上で、激痛に歯を食い縛る彼の身に異変が起こった。肩を押さえる指の間から止めどなく流れていた鮮血が止まり、痛みも随分とマシになる。
「大、丈夫じゃ、ないですよねー」
慎重に身を捻って視点を変えると、犬の如く四つん這いで近付くアミネの姿があった。イルムに治癒の魔法を施したらしい。
「アミネ! 首は!?」
「魔法で無理矢理戻した後に治癒魔法で応急処置を。首が折れた程度で魔族が死ぬもんですか。滅茶苦茶痛いですけど」
ぎぎぎっと古びた歯車を思わせるぎこちない動きで這う彼女に、イルムが失笑する。抗議の目をした女屍食鬼だったが、首を持ち上げると顔色を変えた。視線を追って首を回す。
その先に、こちらへ滑走しながら深紅の鉤爪を振りかざす血塗れの幽鬼がいた。
「ええぃ!」
アミネの腕が上がり紫電の大蛇が出現する。大蛇は黒炭色の幽鬼を襲うとその身を弾けさせた。ほんの数拍、白光が地下堂に溢れ、発生源より苦悶の声が聞こえた。
「ぐぉ……」
蠅の大群が狂ったように飛び回り、顔面を両手で覆ったドゥルジの姿がぼろぼろと崩れては再び形が戻るを繰り返す。
「あー、私なにしでかしてんでしょ。自分の主に魔法ぶち込むなんて」
己に呆れた様子で呟いたアミネは、いつもの気怠げな表情をイルムに向ける。
「さっ、今のうちに脱出してください。後はゴブリン達が何とかしますよ」
「アミネは?」
「ゴブリンの援護をしながら隙を見て逃げます。もうドゥルジ殿下の下には居られないですねー、人生棒に振っちゃいました」
ふへっと苦笑する彼女はもう一度「さぁ」と逃走を促した。
「……また、必ず会おうね」
唇を引き結んだイルムが思いを断ち切るように立ち上がり、長い通路を進む。すぐにゴブリンの兵士らが駆け寄って肩を貸してくれた。彼らに支えてもらいながら、続々と地下へ下りてくるゴブリン兵団が横を通り過ぎる中、地上への階段に足を乗せる。
「申し遅れました。我らはサディン様の軍兵であります。これよりリオニを脱し、南東へ向か――」
「待って」
肩を貸すゴブリンの言葉をイルムは遮った。そして決意の瞳をありありと見せ付ける。
「僕はザリャン領都ハイクにもサディンの所領にも行かない」
“ではどこへ?”と目で問い掛けるゴブリンには答えず、螺旋の階段を上っていく。
小さな蝋燭だけが照明の酷く暗い空間が延々と続いたが、遂に出口が、光が見えるとイルムは暫くぶりの微笑みを浮かべた。
この日を最後に、イルムは歴史の表舞台から姿を消した。




