百五十二話 奈落
闇を纏うどころか、最早そのものと化している様な男が、白い歯をぼおっと浮かび上がらせて笑う。
彼は数歩イルム達の方へ歩み寄り、暗闇に溶けた自身の輪郭を松明に照らさせる。魔都ファウダーに居る筈のドゥルジが、イルムとサディンの目の前に現れた。
にやにやと薄気味悪い笑顔をしていたが、異母弟イルムの信じられないものを見る目を確認すると、彼は子供っぽく口を尖らせる。
「お兄ちゃんが助けに来てくれたってのにその反応は無いだろー」
「……」
そう言うなりまたも童の如き態度で頬を膨らませるドゥルジへ、サディンが抜き身の剣を構えた。だが無邪気な子供の顔から全てを黒く塗り潰すような笑みが現れると、“黒狼”は牙を剥いていた口を歪ませて、一歩退いてしまう。
「おいおい、俺にそんな態度取っていいのか? そもそもお前、ゴブリンの仲間売っておいてよく忠臣面できるもんだ」
「仲間を売った?」
イルムが思わず呟いた疑問に、ドゥルジが答える。炭を練って丁寧に成形したような指がサディンへ向けられた。
「此奴はな、ゴブリン共が蜂起した事をチクってきたんだ」
「それ以上は言うな!」
美しい顔立ちを歪ませたゴブリンをなんら意に介さず、ドゥルジは真相を語り始める。
「総督府の人間が全て追放された時……イルムがナリカラへ戻る途中だな。その頃にスブムンドへ反魔族派決起をいち早く知らせ、早急に兵役中の三千のゴブリン兵を始末しておくべきだと献策してきたのさ」
イルムが眼前にあるサディンの後頭部を凝視する。当の彼はドゥルジに向かって黙るよう叫ぶばかりで、イルムの方へ振り返る素振りは一切ない。ドゥルジの言葉がお構いなしに続く。
「そんで俺が兵を率いて潰してやった。スブムンドの連中はどいつも鈍かったからな。で、奇襲するつもりだったゴブリン五千を逆に奇襲して壊滅させて、そのままナリカラに雪崩れ込んだってわけ」
「待って、スブムンド公領内での蜂起は成功したってゴブリンに聞いたけれど」
「偽の情報に決まってるだろ。俺が何の魔法を得意とするか知らないとは言わせないぞ」
ドゥルジは変身魔法の他、姿気配を消す隠密魔法や幻覚、催眠を司る幻惑の魔法などを最も得意としている。ゴブリンを欺いて虚報を掴ませるなど造作もなかっただろう。そして兵役を装った奇襲部隊は、まんまと自分から罠へ飛び込んでしまったのだ。
眉間の皺を深くさせたイルムは話をサディンの方へ戻した。
「……彼がクーデターを潰す目的は? 趨勢を見極める前に通報するからには、十分な利益があったと考えるべきだけれど」
「閣下!」
異母兄へ問い掛けるイルムに、ようやく振り返ったサディンが制止を促す声を上げた。しかし、イルムはそれを瞳だけで押し退ける。美貌を持つゴブリンが口を噤むと、黒炭の男が赤い口を開いた。
「ゴブリンの王子、いやもう王なんだっけか。其奴を排したかったのさ。お前の為に」
「どういう……まさか」
顔色を変えたイルムに、ドゥルジは笑みを深める。
「そ。王族という、総督府の支配を否定し得るゴブリンの大義名分を排除し、総督府を磐石なものとしつつ、己の影響力を拡大させる。要は自らの保身と権勢増大を狙ったのよ」
「……サディン」
「はっ」
ナリカラ総督だった青年に、“黒狼”と称されるザリャン氏族現最有力者のゴブリンが、剣をドゥルジに向けたまま姿勢を低くさせた。
視線を下げる彼は一瞬口籠もった後、白状し始める。
「ティラムズ殿を除こうと動いたのは事実です。元より親魔族派にとって邪魔な存在であるのも確かでしたから。カルスに表面上従っていた時も、討つ機を見計らっておりました」
「ああ、モシニクス撤退の際にティラムズが狙われたのも君だったのか」
「はっ、閣下の下でも排除する機会を待っていましたが、今回のクーデターは最大の好機と思うて事を起こしました。全て己と、何より閣下の利益を考えて決行致しました。勝手な事をしでかし申し訳ございません」
そこで一度サディンは言葉を切った。身体をイルムへと向け直し、剣を逆手に握って跪く。石の床を刃が叩き短い金属音が鳴った。
「私はイルム閣下を唯一の君主として仰いでおります。魔族でありながら、ゴブリンどころか人間との融和も試みられる程の柔軟な思考を持ち、それでいて断固とした決断も取られる。ナリカラという人魔の間に挟まれた不安定な国に、必要不可欠な御方だと確信しているのです」
黒い布を頭に巻き、同じく黒い装束を纏うゴブリンの、整った顔が起こされる。そこには虚偽など一切無い真剣な面があった。
「ナリカラに必要なのは大王の血統ではありません。彼の王の如き能、つまり難しい綱渡りを要求される政をあらゆる種族と共に行える者です。私が仕えたい主も然り。それが貴方様であり」
サディンが立ち上がりながら振り返り、逆手だった剣を握り直す。
「断じて貴様ではない、ドゥルジ!」
彼の叫びに対し、闇に浮かぶ長い銀髪を揺らすドゥルジは嘲笑を返した。
「お前、散々俺の世話になっておいてそりゃないだろう」
「確かにカルスが乱を起こした頃、イルム閣下の存在を貴様から伝えられたのは大きかった。閣下の総督就任にも手を回したそうだが、だからといって貴様に信を置けるか」
「え、ちょっと待って、サディンは……その、面識があるの? というか手を回した?」
半ば置いてけぼりにされているイルムは、会話の内容に動揺の色を隠せない。そんな彼へドゥルジは邪悪な形の口をますます吊り上げる。
「サディンとは一度顔を合わせた事がある。此奴が総督府へ内応すれば内乱なんざ鎮圧確定だから、直々に大事な異母弟をよろしくってな。そんで、お前をナリカラ総督にしたのはヴルカーンの爺さんだが、そうなるよう細工をしたのは俺だ」
大仰な動きで開いた右手を自らの胸に向ける彼は、両目を唇と同じ弧の形へ変えた。
「単眼巨人に爺さんへの嘆願を促し、爺さんの思考にお前の存在を挟ませた。俺の隠密魔法と幻惑魔法を組み合わせれば、無意識下の思考誘導なんざ簡単簡単。流石に魔王推挙とかの強く意識されてる思考は介入できねーけど」
彼は五公の一人を軽度といえども操ったのだと恐ろしい事をさらりと語る。イルムは自分の総督就任がドゥルジによって仕組まれた事だと知り、驚愕の余り石化してしまう。だが、それで終わりではなかった。脳の処理が追い付いていない彼を、にやにや愉しんでいる様子のドゥルジは、更なる追い討ちを掛ける。
「ついでに言うと、ナリカラに軍政を敷いていた駐屯魔王軍が壊滅しても、お前が総督に着任しても追加の軍が来なかったのは、俺が色々工作してたからなんだぜ」
衝撃に晒され続けたイルムは、もうドゥルジが何を言っているのか頭を素通りするばかりで、ほとんど理解できていない。ただ一つを除いて。
つまり今までの事は――
「要は全部俺の掌の上だったってわけ」
いつの間にか目と鼻の先で自分を見下ろしているドゥルジを、イルムは何もできずに茫然と見上げる。垂れ下がった銀の髪がねちゃりと頬に降り立ち、掴み掛かるかのように張り付いた。
こちらを見下す二つの赤い瞳は、滅亡した世界の空を思わせる不吉な暗さを振り撒いている。心臓を直に握られているような錯覚に囚われ、微塵も動けずにいるイルムへ、聞き覚えのある拍子の足音が聞こえた。
恐ろし気な赤い目が横に逸れる。連れられるようにイルムの視線も同じ方へ動いた。後ろで束ねられた薄紫の髪が赤黒い眼に映り込む。
「アミネ……」
松明に灰色の肌をぼんやり照らされた女屍食鬼は、魔王の子息二人を見た途端、怯えたように俯いた。ドゥルジの粘っこい笑い声が小さく響く。
「来たか。今まで御苦労だったな、アミネ」
彼女の反応と目の前の男の言葉に、イルムはこの短い時間に何度もしてきた、驚愕と絶望が混ざる「まさか」という顔をした。期待通りと言わんばかりに愉悦の表情を見せるドゥルジが、大袈裟に両手を広げる。
「アミネも俺の仕込み! 元よりカシィヴ公領に潜り込ませた手駒で、お前の世話役になるように仕向けたのも俺! 凄いだろ」
彼の自慢げな声に続いて、床へ顔を逸らすアミネがイルムに向けてぽつぽつと零していく。
「殿下の仰る通り、私の真の主人はドゥルジ殿下です……報告の伝書烏を必ず二羽飛ばしていたのもカシィヴ公だけでなく、殿下へも近況の報告をしていたからです」
そう真実を告白する副官兼世話役だった彼女を、青白い相貌の青年が幽霊でも見るような形相で凝視した。同時に全てから裏切られた彼の膝から力が失われる。
崩れ落ちたイルムは、頭の中が棒を突っ込まれてかき回されたも同然の状態だった。顎を震わせつつも言葉は何一つ吐き出す事ができず、寧ろ別の何かを吐きたくなっている。瞳も潤み始め、荒くなるばかりの呼吸と相まって、魔獣の住む森で迷子になってしまった子供のようだ。
そんな彼の頭を、ぬらりとした銀髪を流す真っ黒な男が両手で包む。哀れな獲物をこれから捕食するかの如く。
「総督就任の時に言っただろ? “どうせお前は何も出来やしないんだから”って。俺がいなきゃ紛い物のお前は――」
一閃がイルムとドゥルジを引き離す。
剣を振り抜いた美麗なゴブリンが二人の間に割って入り、イルムを身体で庇いながら更に鍔の無い剣を振るった。感情を失った表情でドゥルジは斬撃を回避するのを、サディンは狼さながらに猛追する。
「イルム閣下、御逃げ下さい! 貴方様はナリカラに必要な御方であり」
叫びの合間に刃を相手の懐に潜り込ませる形で薙ぐ。
「此奴如きに好きなようにされてはならんのです!」
しゃがまれたことで右手の剣が虚空を切ったのを見たゴブリンの戦士は、左手で腰の短剣を抜き放つ。そのままの勢いで敵の喉元を刺し、捩じ引いた。
手応えは一切ない。ドゥルジの黒い喉が煙のように引き裂かれ、ばらばらと散る切れ端が全て蠅の群れと変わる。
「化け物が……」
悪態を吐くサディンの脇腹から鮮血が噴き出す。右手を真っ赤に染めた人の形を取っている怪物を前に、“黒狼”はがくりと片膝を突いた。




