百五十一話 闇
「エルガ殿は……リオニにはいない。そしてナリカラからも居なくなる手筈だ。国外追放という形で。総督府の行政を支えたマンデ帝国人官吏達も同様だ」
ティラムズのその言葉に、イルムは無事を安堵する一方で、最後の希望が絶たれた事に歯を鳴らす。
彼女であれば紅冠隊を率いて造反諸侯と対抗しつつ、オルベラ氏族やサディン、総督府直轄領の兵を糾合して鎮圧軍を編成できたものを。
そこまで考えたところで、イルムは疑問点に気付いた。
「ってあれ? 何でエルガと監察局の目を掻い潜ってクーデターを起こせたんだ? 追放するにも親衛隊である紅冠隊がいるのに」
「監察局は案外簡単に出し抜けたぞ。丁度今年分の兵役の時期だったから、兵を集めても何ら疑われなかった。何しろスブムンド公は今回五千の兵を所望したからな」
そこまでは納得できた。確かに多少兵をリオニヘ集めてもまず兵役の為だと思われるだろうし、少数ずつ小分けにしていれば露見する可能性は更に低くなる。
だがエルガの身命を保障していた筈の紅冠隊は、一体どうしたというのか。ティラムズは意外な答えを述べる。
「紅冠隊は一部をギオルギらが買収したんだ。元より平時を理由に多くを血塗れ山脈へ帰郷させていた故に、それだけで脅威は取り除けた。後はエルガ殿を議会に呼び出せば、弾劾して終わりだった」
「買収? 金に釣られる彼らじゃない……まさか」
目を見開くイルムへ、彼は自ら手にした松明に照らされる頭を小さく二度上下させた。
「ああ、戦を餌にした。魔族との戦になると伝えたら狂喜乱舞したそうだ。ずっと平穏が続いて飽き飽きしていたと」
「あの連中は全く……」
「本当に呆れた奴らだ。彼奴らが真面目に動いていれば、このようなクーデターなど抑えられたであろうに」
イルムの苦々しい呟きに、ティラムズは全力で同意を表す。だがすぐに諦めの息を吐いた。
「元は赤帽子だったのだ。そう簡単に性根は変えられんという事だろうな。ゴブリンが独立を譲れんのも、そういう事かもしれん」
遠くを見るティラムズにイルムは何も言えなかった。しばらく沈黙が続いたが、かつかつと足音が響いてきた事でティラムズの顔色が変わる。
「っ、時間か。君と会えるようギオルギとエレクレが取り計らってくれたが、もう限界のようだ」
床に付けていた右膝を離して立ち上がったティラムズが、持っていた松明を壁へ戻す。振り向いた顔は今にも消えそうな程に儚く見えた。
「ティラムズ……」
イルムの力無い呼び掛けに、彼が微笑を返す。
「もう引き返せない以上、最後までやり切るつもりだ。何も魔王軍打倒なんて無謀な事を目指すわけじゃない。ゴブリンを人間や魔族と対等な立場へと押し上げる、それだけだとも」
さらばだ、友よ。
別れの言葉を最後に、ティラムズは牢から立ち去る。遠ざかる唯一の親友の姿と足音を前にして、イルムは何も口に出せなかった。思い止まらせる説得も掛けるべき言葉も、見つけられなかった。
無力な青年が悔しさを額に乗せて木の格子を叩く音が、地下牢に響き渡る。
時は無情ながらも全ての者へ平等に流れていく。イルムが囚われの身になってから、一切変化の無い数日が経過した。
魔法を使用しての脱走を防止する目的で、拘束の縄が解かれることはなく、窮屈な生活が続いている。食事も運んで来たゴブリンに食べさせてもらい、排泄も看守役を呼んで世話をしてもらわなければならない。心体共にかなりきつい状況だった。
そんな日々が続く中、看守役のゴブリンが情報を持って来る。
「閣下、いやイルム殿。ティラムズ殿下改め陛下より御知らせが」
綿布に包まれた青年が、もぞりと牢内の身を起こした。
「……即位したのか」
「はい。ダヴィティ大聖堂にて御即位された陛下は五千の兵をスブムンド公領へ送り出しました。兵役に従っているように見せかけ、以前送られた兵と合流後に蜂起する手筈です」
既に三千余のゴブリンが兵役に赴いており、合流すれば八千もの大軍勢となる。加えて各旗の軍も動くのだろう。スブムンド公領は内と外から大軍に挟撃され、然しものスブムンド公も苦慮するに違いない。
しかし、態勢を立て直された時はどうなるか。それまでに交渉へ持ち込められれば良いが、現状では見通しはまるで立たず、依然として計画は危うい博打のままだ。
イルムの厳しい表情に気付いているのかいないのか、ティラムズからイルムへの状況説明を命じられたゴブリンは口を動かし続ける。
「懸念の一つである親魔族派は大した動きを見せておりません。クムバト殿に至っては決起を翻させようと事前の説得に来ていましたが、結局は諸侯方によってリオニ近郊の小城へ幽閉されていますし」
クムバトが五公会議から戻った自分の出迎えに居なかった理由を知り、イルムは臍を噛む。彼が周囲に何も言わず単独で諸侯の説得へ向かったのは、真に信を置ける者がいなかったからだろう。
オルベラ氏族長一族の親魔族方針によってナリカラ中から反感を買った事を、氏族内のゴブリンは冷めた目で見てきた過去がある。
内応の可能性から、ゲガルクニクやスピタカヴォルといった有力者らを頼れなかったのは想像に難くない。クムバトが代理として信用できたのは叔父ノリスだけだっただろう。
――ノリスが生きていれば……!
イルムは赤帽子との戦闘で戦死した、温和なゴブリンの姿を思い出す。イルムがナリカラ入りした当初から、クムバトと共に総督府を支えていた要人だったが、ここにきて彼を喪った事が響くとは夢にも思っていなかった。
ノリスを強く惜しむイルムの鼻先をゴブリンの言葉が叩く。
「サディン殿も所領で兵を集める以外、目立った動きはありません。また、エレクレ殿の緑旗軍が抑えとしてザリャン氏族領へ進駐。後背の安全が確保されたとして、我らは魔族との対決に備えた戦支度を進めております」
「……」
流石の“黒狼”サディンも、“沈黙”のエレクレとの睨み合いで動けないと分かると、イルムはもう黙るしかない。僅かな希望も打ち砕かれた。沈み込む彼を見てか、看守役のゴブリンは励ますかのように言葉を紡ぐ。
「今更何をと思われるでしょうが、イルム殿が今まで御尽力された事を理解する者は少なくありません」
真剣な表情で彼は言い切った。
「然れども、やはり魔族の使い捨ての尖兵とされることに、もう我慢ならんのも事実なのです」
「……内心僕も、スブムンド公やラトンク公の取るゴブリンへの向き合い方に思うところはあったよ。だから少しは君らの怒りに理解できていた、と思ってたよ」
自嘲気味に微笑んだイルムの顔を直視できなかったのか、ゴブリンは目を逸らした。会話が止まってしまうと、地下は気が触れそうな静寂で一杯になる。やがてはその沈黙から逃げるように小人は立ち去ってしまった。
寂寂たる暗闇に一人残されたイルムが、ゆっくりと身体を横たえる。松明の立てる小さな音を友として、彼は恐ろしい程の寂静に身を預けた。
その後イルムはほぼ毎日、ゴブリンからティラムズらの動きを報されるようになる。
スブムンド公領内で蜂起が実行された。ティラムズが独立闘争の開始を公表し、白旗軍と黄旗軍を中心に挙兵した云々。ナリカラ王の名の下に続々と兵が集まり、アハルからも人間達が義勇兵として名乗り出た等々。
事細かく蜂起の状況を伝えられたが、イルムはそれらに何の関心も反応も示す事はなかった。そんな微動だにしない地下へ、突如として激震が齎される。
死体の様に動かない青年の耳に、喧騒の音がそっと指先を引っ掛けた。最初は無反応だったイルムだが、徐々に耳の中へ指を突っ込み始めたそれに、顔を顰めて起き上がる。その時、地下堂にどたどたと忙しない足音が転がり込んだ。
「閣下ぁ! 御無事ですか!?」
「サディン!? 何でここに」
厚い木の格子にぶつかる勢いで牢へ駆け付けた美形かつ大柄なゴブリンに、イルムは仰天の声を上げる。安堵の笑みを湛えたサディンが腰に下げた剣を抜き、閂を留める鍵をこじ開けに掛かった。
「隙を突いて手勢と共に潜り込んで参りました。今やリオニも混乱の坩堝です」
それはどういう事かイルムが問う前に、彼は剣先を止めぬまま謝罪を口にする。
「申し訳ございません。此度の反魔族派蜂起は私の失態です。総督府への不満を抱える中小領主を暴発させて、反魔族派の力を削ごうと工作しておりましたが、まさか民衆が反魔族に染まるとは思いも依らず」
聞き捨てならない事を白状された。唇を開いたイルムだったが、再びサディンが先んじて言葉を紡ぐ。
「閣下にも伏せていた事、真に猛省しております。余計な心労をお掛けしたくなかったもので……」
エグリシ氏族や一部ザリャン氏族の力を削ぐ事は結果として、オルベラ氏族やサディンの存在感が増す事に繋がる。自身の権勢を相対的に増大させるのが本音だったのだろうが、一方でイルムの為を思って行動したのも本心だと、表情や声色から察せられた。
イルムは開けようとした口を閉じる。今優先するべきは詰問ではなく脱出だ。
ばきゃん!
甲高い音を立てて鍵が破壊される。閂が外され、イルムは久しぶりに牢の外へ出た。腕を縛っていた縄も切られ、彼は幾日か振りに身体の自由を取り戻す。
手首に刻まれた縄痕を摩りながら、背筋を伸ばして腰から小さくこきぱきと音を立てた。鈍り切った身体へ以前の感覚を思い出させようと、手足を振ったり、拳を開いたり閉じたりを繰り返していく。
それがひと段落したところを見計らったサディンが、「それでは行きましょう」と声を掛けて先導を開始した。松明以外の光源が存在しない暗闇に、一歩踏み出した靴音がやけに響き渡る。
固く伸びたその音が耳を去っていく前に、魔族の青年と彼にほぼ並ぶ背丈のゴブリンが、一つの存在を知覚した。
サディンは剣を握り直しつつイルムの前に出る。しかし、イルムの方は両目を見開いて、金縛りにあったかの如く身動ぎすらできない。ここに居る筈のない人物が、にやりと顔を歪める。
「よぉ、兄ちゃんが助けに来たぜ」
ぬらぬらとした銀の髪を揺らして、肌が闇に溶け込んだ男が、まるで幽鬼の様に音を出さずにすうっとこちらへ向かって来た。




