3
「琴音!」
大好きな人が私の名前を呼んだ。だけど、私は振り返ることもせず、彼から逃げた。背中を押されて地面に倒れこむと、大型トラックのクラクションが聞こえた。彼は、数メートル先に血を流して倒れていた。
部屋に響く規則正しい電子音。この音は嫌いだ。昔、この音が消えて祖母が亡くなった。今は彼が、綾人が祖母と同じように眠っている。祖母と違うことは、全身を包帯でぐるぐる巻きにされていること。顔は所々にガーゼを当てられている。
あの事故で助かったのは奇跡的だと医師は言っていた。だが、複雑骨折の出欠多量で、あと少し救急車が来るのが遅れていれば助からなかったらしい。
それから、一応は助かったのだが、頭に強い衝撃を受けたせいで、意識は戻らないかもしれない、と言われた。綾人のご両親はショックで寝込んでしまっている。私があの時に飛び出したせいで、綾人が大変な目にあった。あんなことで喧嘩なんてしなければよかった。
「綾人、起きてよ。」
呼びかけたって無反応。どうしてだろう。実感がない。病室に備え付けられている鏡に映っているのはいつもの自分だ。涙も出ていない。
不意に鏡の中の自分が喋り出した。
『綾人、助けないの?』
実感がなさすぎて夢なんじゃないかと思う。そのせいで、非現実的なこの事態に驚くことはなかった。
「私は医者じゃない。」
助けられるならとっくに助けている。それができないから、そばに座ってじっと手を握って起きるのを待っているのだ。
鏡の中の自分は綾人を見た。
『綾人はずっと頑張っていたの。私を助けるために。だから、私も綾人を助けるの。』
彼女の言っている意味がいまいちよくわからない。だけど、綾人を助けたいという意思は伝わってくる。
「どうやって助けるの?」
彼女は少しだけ微笑んだ。
『私なら、あなたならできる。』
瞬きすると、そこはあの横断歩道だった。風が吹いている。ここは外だ。
「琴音!」
綾人が手を伸ばして私の背中を押した。トラックは綾人を跳ねてしまう。
『失敗。』
私の声がした。
次の瞬きでは元の病室に戻っていた。
今、いったい何が起こった?私はあの横断歩道に……
「大丈夫ですか?」
鏡の前で呆けている私を、看護師さんが心配してくれた。
「あ、大丈夫です。」
本当は大丈夫ではないが、反射的にそう答えてしまう。
鏡に映るのは私。今はもう何も言わない、いつもの私だ。看護師さんも映っている。
「あの、ちょっといいですか。」
鏡越しに看護師さんに話しかけた。
「はい。」
「私、さっき寝てましたか?」
看護師さんは首を傾げた。
「いえ、寝てはいなかったと思いますよ。」
「そうですか。」
では、先程見たあの瞬間はいったい何だったのだろう。
綾人の点滴を付け替えた看護師さんは部屋を出ていった。すると、また彼女が喋り出す。
『私は未来のあなた。だから、これから起こることを知っている。今なら、まだ綾人は助かる。』
私の読解力が足りないせいか、全く理解できない。だが、ある言葉に引っかかった。
「今ならってどういうこと。」
彼女の目はしっかり私を見ていたが、潤んでいることがわかった。今にも溢れ落ちそうだ。
『私も、あなたと同じようにあの時を繰り返して綾人を助けようとしたの。だけど、八回、綾人は跳ねられてしまったわ。目を開けた時、綾人の心臓は止まったわ。』
そこまで聞いて、怒りがこみ上げてきた。綾人を死なせるなんて、そんなことは絶対ダメだ。
『おそらく、八回失敗するとそうなるの。あなたはあと七回残ってる。その七回でなんとか綾人を助けて。お願い。』
鏡を殴りたくなった。本物がここにいたら、全力で殴っているところだ。
「もう一度連れていって。」
私は彼女と同じ顔をしているだろう。無表情で、だが確かに怒っている顔だ。
『鏡の前であの時のことを思い浮かべると行けるから、私の分も頑張って。』
「誰があんたのために頑張るものか。綾人のために頑張るの。」
目を瞑ると横断歩道で立ち止まっていた。トラックはすぐそこまで迫っている。これじゃあ何もできない。
「琴音!」
背中を押されて綾人は跳ねられた。
また失敗。
元の病室に戻っていた。
あんな短い時間では動くことすらできない。せめてもう少し前に戻れないだろうか。
部屋に響く電子音はまだ規則正しく、綾人の生存を告げている。
もう一度。今度は行ったらすぐに動く。前に走り出す。
風が吹いている。外だと認識した瞬間に走り出した。なんとかトラックの進行方向からは逸れて、自力で脱出することができた。だが、綾人は間に合わなかった。
また失敗。
彼女から言われたことを思い出す。八回失敗してはいけない。私は三回失敗した。あと、五回。
鏡越しに綾人を見る。私を助けるために傷だらけになったのだから、私だって傷だらけになっても助ける覚悟を持つべきだ。絶対に助ける。たとえ、私が死ぬとしても。
「琴音!」
声が聞こえる。トラックはもうすぐそばにある。今からでは何をしても無駄だ。せめて、綾人が助かるように。
振り返り、力一杯綾人を押し戻した。綾人はそのまま後ろに倒れていく。
久しぶりに見た綾人の顔だったが、すぐに目の前は真っ黒になった。
『それじゃあ、解決にならない。』
私の声がした。
目を開けると病室の床に、体育座りで座り込んでいた。急いで立ち上がり、鏡を見てみると、彼女はイラついていた。腕を組み、怪訝な表情を浮かべて私を睨んでいた。
『あんたが死んだら、綾人は助かるの?』
たいそう不機嫌な物言いである。だが、この質問は愚問だ。さっきは私が死ぬ道、綾人が生きる道に変わった。だから、私が死ねば綾人は助かる。そう伝えると、彼女は盛大なため息を吐いた。
『綾人は私の、あんたのために手を伸ばしたの。あの手は本来ならないはずだった。だけど、綾人は私に生きてほしいと願ったから、私はここに生きていられるの。』
やはり、彼女の話は意味がわからない。本来ならないはず、とはどういう意味なのだろう。綾人には未来が見えていたということだろうか。よくアニメや漫画で言う千里眼とか?
どんな意味だとしても、綾人のおかげで私は生きているということを、彼女はずっと伝えている。思いは同じだ。だが、もう少しわかりやすく伝えてほしいものだ。それはきっとブーメランで自分に返ってくるのだろうが。
『自分も綾人も助けられる選択があるはずなの。お願い。』
そう言って、彼女は頭を下げた。悲しそうな、悔しそうな声だった。聞いているだけで胸が苦しくなる。
「私は綾人のためにやるだけだから。あんたのためじゃないから。」
素直になれない自分が嫌だ。だけど、彼女は私で、私のことを一番よく理解している。だから、こんな言い方でもわかってくれる。
『ありがとう。』
それから彼女は現れなくなった。




