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第4章:インクに染まる現実  作者: 都桜ゆう


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4-3:記号の侵食

 異変は事務室の中だけに留まらず、三嶋が日常の業務を行っている大学の中央図書館の内部へと、静かに侵食を広げていた。




 その日の午後、三嶋は他部署から返却された学内資料を届けに、図書館の事務カウンターを訪れていた。


 司書から「ついでに、返却されたこの雑誌を資料室の棚へ戻しておいてくれ」と、本来なら館内の専門スタッフが行うはずの作業を頼まれてしまった。


 事務員である自分が、なぜこんな館内の奥深くまで入り込み、棚へ本を戻しているのか――。


 そんな些細な違和感すら、あの黒い本の気配によって麻痺させられている。


 静まり返った図書館。高い天井から差し込む午後の光いつもの、安全でしんと静まり返った空間のはずだった。


 しかし、三嶋が歴史学の棚に古いハードカバーの書籍を戻そうとした時、指先にカサリとした、不自然な紙の感触が触れた。


「……ん?」


 本棚に並ぶ、何年も誰も触っていないはずの分厚い洋書の隙間に、ペラリとした一枚の紙が挟まっていた。


 図書館の貸出票か何かだろうか。三嶋が何気なくその紙を引き抜いた瞬間、彼の心臓がドクンと嫌な音を立てて跳ね上がった。


 それは、貸出票などではなかった。


 指先に伝わる感触は、事務室にあるあの黒い本特有の、吸い付くようなザラつきそのものだった。


 光を一切反射しない煤けた黒。周囲の空気を冷やすような、あの禍々しい質量。


 間違いようがなかった。これは、事務室で刻一刻と増殖を続けている、あの怪異の断片だ。


 三嶋が冷や汗を流しながらその紙面を見つめると、そこには、これまでに見たどの文字列よりも不気味な、新しい記号の組み合わせが刻まれていた。


 ʑ̥ɤ̽ʃ̇ ɰ̄ʔ̦ɬ̥ ʘ̇ɭ̄ʑ̥

 ɬ̥ʔ̦ɤ̽ ʃ̇ɰ̄ʘ̇ ɤ̽ʑ̥ɭ̄

 ʔ̦ɬ̥ʘ̇ ɭ̄ʑ̥ʃ̇ ɰ̄ʔ̦ɤ̽


「う、わ……っ」


 三嶋の喉から、短い悲鳴が漏れた。


 その文字を目にした瞬間、図書館の静寂が、ぐにゃりと歪んだように感じられた。


 見つめていると、やはりあの夢の中で味わうような、猛烈な吐き気と頭痛が脳の奥を直接突き刺してくる。


 三嶋は慌ててその紙を本棚から引き剥がし、クシャクシャに丸めてゴミ箱へ捨てようと振り返った。


 だが、異変はそれだけでは終わらなかった。


 ふと視線を向けた、図書館の白いコンクリートの壁。

その、蛍光灯の光が虚しく照らすだけの真っ白な壁の表面に、じわじわと、あの文字に似た歪んだ記号の群れが、シミのように浮かび上がってきたのだ。


 インクが染み出しているのではない。壁の微細な凹凸や、コンクリートの細いひび割れの形状が、三嶋の肉眼の視界の中で勝手に組み替わり、あの鋭利に尖った記号の配列を形作っていく。


「壁に……文字が……浮かんでる……?」


 三嶋は自分の目を強く擦った。手のひらで何度も瞼を押し込み、これは疲労による幻覚だと自分に言い聞かせた。しかし、何度見直しても、壁の文字は消えない。


 それどころか、見つめれば見つめるほど、その文字の並びが、図書館の空間そのものの輪郭を侵食し、世界の背景を書き換えていくような、圧倒的な現実感を持ってそこに存在していた。


 空気が、まるで古い紙のような乾燥した匂いに変わりつつある。


「三嶋さん。そんなところで、何をしているんですか?」


 背後から、突然声をかけられた。

 三嶋がびくりとして振り返ると、そこには白井と加瀬が、いつの間にか並んで立っていた。


 2人の姿を見た瞬間、三嶋の背筋に、物理的な悪寒が走った。


 白井と加瀬は、お互いに視線を交わすこともなく、ただロボットのように同じ歩幅、同じ姿勢で三嶋に近づいてくる。


 そして、驚くべきことに、2人の口から発せられた言葉は、一分の狂いもない完全に同じ口調、同じタイミングだったのだ。


「壁の文字が、気になるのですか?」


「壁の文字が、気になるのですか?」


 2人の声が、完全に重なり合い、図書館の静かな空間に不気味にハモって響いた。


 イントネーションも、息を吸うタイミングも、声のトーンまでもが、まるで一つのスピーカーからステレオで再生されているかのように均質化されている。


「お前ら……なんで、同じ声で、同じことを……」


 三嶋が怯えながら1歩下がると、白井と加瀬は、同時に首を右に15度傾け、全く同じ機械的な動作で言葉を続けた。


「私たちは、もう、同じものを見ているのです」


「私たちは、もう、同じものを見ているのです」


「世界が、正しい記述で満たされていくのが、わからないのですか?」


「世界が、正しい記述で満たされていくのが、わからないのですか?」


 2人の個性が完全に消失し、あの黒い本のシステムの一部として完全に融合しつつある。


 その口調の同期の不気味さに、三嶋の脳内は、急速にゲシュタルト崩壊を起こしていくような、底知れない狂気への恐怖で満たされていった。


 2人の視線は三嶋を見ているようで、その実、三嶋の背後の壁に浮かぶ文字列をただ凝視していた。


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