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第9話 長い夜

第9話 長い夜


 十一月の終わりだった。


 朝から空の色がおかしかった。


 鉛色の雲が低く垂れ込み、山の向こうから冷たい風が吹いてくる。


 白百合の丘の中庭では、最後まで残っていたコスモスが強い風に揺れていた。


 朝倉誠は窓の外を見上げた。


「荒れそうですね」


 隣で記録を書いていた野村が頷く。


「台風並みの低気圧らしい」


「十一月なのに」


「最近は何でもありだ」


 昼過ぎになると雨が降り始めた。


 窓ガラスを叩く雨音。


 木々を揺らす風。


 利用者たちも落ち着かない様子だった。


 特に拓真は何度も窓の外を見ている。


 空気の変化を感じているのかもしれない。


「大丈夫だよ」


 誠が声をかける。


 拓真は返事をしなかったが、少しだけ肩の力が抜けた。


 夕食は鶏肉の照り焼きだった。


 かぼちゃの煮物。


 白菜の味噌汁。


 炊きたてのご飯。


 食堂には甘辛い醤油の香りが漂っている。


 利用者たちはそれぞれ食事を楽しんでいた。


 しかし外の風はどんどん強くなっていった。


 午後八時。


 夜勤が始まる。


 誠はネイビーのポロシャツの上に薄い防寒着を羽織った。


 野村も夜勤だった。


「嫌な天気だな」


 野村が言う。


 その時だった。


 突然。


 施設全体の照明が消えた。


 真っ暗になる。


「停電!」


 誰かが叫んだ。


 一瞬だけ静寂。


 そして利用者たちの不安な声が広がる。


「うう……」


「いやあ……」


 非常灯が点灯した。


 薄暗い緑色の光。


 廊下が不気味に浮かび上がる。


 風の音が建物全体を揺らしていた。


 ゴォォォォ。


 まるで巨大な獣が唸っているようだった。


 誠は胸がざわついた。


 拓真の部屋へ向かう。


 案の定だった。


 拓真はベッドの隅で耳を塞っている。


 呼吸も速い。


「拓真さん」


 誠はゆっくり近づく。


「大丈夫」


 自分に言い聞かせるように。


「ここにいるから」


 外では風が吠えている。


 窓が震える。


 建物が軋む。


 利用者にとっては世界が壊れそうな音だろう。


 拓真の身体が震えていた。


 誠はイヤーマフを差し出した。


 拓真はそれを見つめる。


 少し迷ってから受け取った。


 耳に当てる。


 呼吸がほんの少し落ち着いた。


「そうだ」


 誠は笑う。


「大丈夫」


 その時、館内放送が流れた。


「職員は会議室へ集合してください」


 非常電源で動いているらしい。


 誠は拓真を見た。


「すぐ戻る」


 野村が代わりに付き添う。


 誠は会議室へ急いだ。


 施設長が険しい顔をしていた。


「裏山の斜面が崩れかけています」


 全員が息を呑む。


「避難準備を開始します」


 会議室がざわつく。


「利用者さん全員ですか」


「そうです」


「この天候で?」


「だから今やるんです」


 施設長の声は強かった。


 誠は初めて見る顔だった。


 午後九時。


 避難が始まった。


 体育館へ移動する。


 幸い近くの小学校が避難場所になっていた。


 雨は激しい。


 職員たちはレインコートを着込む。


 利用者たちにも防寒着を着せる。


 誠は拓真の上着を整えた。


 深緑色のフリース。


 首元までしっかり閉める。


「寒いからね」


 拓真は小さく頷いた。


 長い列ができる。


 車椅子。


 歩行器。


 手をつなぐ利用者。


 職員たち。


 雨の中を進む。


 風が顔に叩きつける。


 冷たい。


 痛い。


 街灯の光が雨粒に滲んでいる。


 誠は利用者たちを見回した。


 皆、不安そうだった。


 それでも歩いている。


 必死に。


 生きるために。


 体育館へ着いた時には全員びしょ濡れだった。


 暖房の効いた空気が身体を包む。


 利用者たちから安堵の声が漏れた。


 毛布が配られる。


 温かいお茶も届いた。


 紙コップから湯気が立つ。


 誠はようやく息を吐いた。


「無事だったな」


 野村が隣へ座る。


 髪が雨で濡れていた。


「はい」


「全員いる」


 その言葉を聞いた瞬間、誠は胸が熱くなった。


 全員いる。


 当たり前のようで。


 本当は当たり前ではない。


 夜は長かった。


 体育館の天井を雨音が叩く。


 利用者たちは毛布に包まれて眠り始めていた。


 拓真も横になっている。


 イヤーマフをつけたまま。


 穏やかな寝顔だった。


 誠はその姿を見つめた。


 良子の顔が浮かぶ。


 野村の顔も浮かぶ。


 家族会で泣いていた人たち。


 職員たち。


 利用者たち。


 皆それぞれ人生がある。


 誰かにとって大切な人だ。


 代わりはいない。


 そのことを改めて思った。


 野村が缶コーヒーを差し出す。


「飲め」


「ありがとうございます」


 温かかった。


 甘かった。


 疲れた身体に染み込んでいく。


 窓の外ではまだ嵐が続いていた。


 だが誠の胸には別の思いがあった。


 命は重い。


 利用者だから。


 職員だから。


 家族だから。


 そんな区別はない。


 一人ひとりが生きている。


 笑う。


 泣く。


 怖がる。


 安心する。


 それぞれの人生を抱えている。


 だから守りたい。


 その夜。


 体育館の薄明かりの中で、誠は初めてその意味を本当の意味で理解した気がした。


 長い夜だった。


 けれど夜明けは必ず来る。


 誠は眠る利用者たちを見守りながら、静かに朝を待った。



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