表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

10/11

最終話 灯火

最終話 灯火


 春だった。


 白百合の丘の庭には新しい花が咲いていた。


 チューリップ。


 パンジー。


 ネモフィラ。


 色とりどりの花々が柔らかな風に揺れている。


 空は青かった。


 どこまでも高く、どこまでも明るかった。


 朝倉誠は中庭のベンチに座り、ゆっくりとコーヒーを飲んだ。


 温かな日差しが肩に落ちる。


 風は優しい。


 鳥のさえずりが聞こえる。


 一年前の嵐の夜が遠い昔のことのようだった。


「朝倉さん」


 声が聞こえた。


 振り向くと高瀬良子が立っていた。


 淡い桜色のカーディガン。


 白いブラウス。


 ベージュのスカート。


 以前より顔色が良い。


 笑顔も自然だった。


「こんにちは」


「こんにちは」


 誠も立ち上がる。


「面会ですか」


「ええ」


 良子は嬉しそうに頷いた。


「今日はね、見てもらいたいものがあるの」


 その時だった。


 中庭の向こうから拓真が歩いてきた。


 グレーのパーカー。


 紺色のズボン。


 ゆっくりとした足取り。


 だが表情は穏やかだった。


 誠は思わず笑顔になる。


「こんにちは」


 拓真は少しだけ誠を見た。


 そしてポケットからカードケースを取り出した。


 透明なケースの中には写真カードが入っている。


 飲み物。


 食べ物。


 散歩。


 トイレ。


 休憩。


 さまざまな写真。


 拓真はその中から一枚を選んだ。


 花の写真だった。


 そして誠へ見せる。


「花、見たいんですか」


 拓真は小さく頷いた。


 良子の目が潤んだ。


「すごいでしょう」


 誠も胸が熱くなった。


 一年前。


 拓真は苦しさを伝えることも難しかった。


 耳を塞ぎ。


 震え。


 混乱し。


 泣いていた。


 今も困難が消えたわけではない。


 パニックもある。


 苦手な音もある。


 不安もある。


 だが少しだけ変わった。


 伝える方法が増えたのだ。


 三人は花壇の前へ歩いた。


 ネモフィラの青が空と溶け合っている。


 チューリップは赤や黄色の花を咲かせていた。


 土の匂い。


 若葉の香り。


 春の光。


 拓真は花を見つめている。


 静かだった。


 幸せそうだった。


「良かったですね」


 誠が言う。


 良子は笑った。


「ええ」


 そして少し考えてから言った。


「昔はね」


 風が吹く。


 花びらが揺れる。


「未来なんて考えられなかったの」


 良子は遠くを見る。


「明日を乗り切るだけで精一杯だった」


 誠は黙って聞いていた。


「眠れない夜もあったし」


「はい」


「もう駄目だと思った日もあった」


 その声は穏やかだった。


 だからこそ重かった。


「でも一人じゃなかったのよね」


 誠は頷いた。


 野村。


 三崎。


 施設職員たち。


 相談支援員。


 訪問看護師。


 地域の人たち。


 完璧ではない。


 足りないことばかりだ。


 それでも少しずつつながり始めていた。


 午後。


 白百合の丘では地域交流会が開かれていた。


 近所の住民。


 学校の先生。


 行政職員。


 相談支援専門員。


 利用者家族。


 たくさんの人が集まっている。


 焼きそばの香りが漂う。


 豚汁の湯気が立つ。


 子どもたちの笑い声が響く。


 去年までは考えられなかった光景だった。


 会場の隅では野村が焼きそばを焼いていた。


 白いエプロン姿。


 額に汗を浮かべている。


「野村さん」


 誠が声をかける。


「おう」


「腰は大丈夫ですか」


「相変わらずだ」


 二人は笑った。


「でもな」


 野村は鉄板を見ながら言う。


「少し楽になった」


「え?」


「一人で抱えなくていいからな」


 その言葉に誠は頷いた。


 施設だけでは支えられない。


 家族だけでも支えられない。


 行政だけでも無理だ。


 誰か一人に背負わせるには重すぎる。


 だからつながる。


 だから支え合う。


 夕方になった。


 交流会は終わりに近づいていた。


 空は茜色に染まっている。


 花壇の前に拓真がいた。


 誠は近づく。


「今日は楽しかったですか」


 拓真はカードケースを開いた。


 一枚取り出す。


 笑顔の写真だった。


 それを誠へ見せる。


 誠は思わず笑った。


「そうですか」


 拓真も少しだけ笑った。


 本当に少しだけ。


 けれど確かな笑顔だった。


 その瞬間。


 誠は一年間の出来事を思い出していた。


 耳を塞っていた日。


 嵐の夜。


 家族会。


 良子の涙。


 野村の疲れた背中。


 そして。


 困る人ではなく、困っている人なのだという言葉。


 あの言葉がすべての始まりだった。


 空には一番星が光っている。


 春の夕風が吹いた。


 花々が揺れる。


 誠は静かに思った。


 大きな奇跡は起きなかった。


 すべての問題も解決していない。


 制度の限界はある。


 人手不足も続いている。


 苦しみも消えていない。


 それでも。


 誰かが誰かを理解しようとすること。


 助けを求める声に耳を澄ますこと。


 困っている人を一人にしないこと。


 それはきっと希望なのだ。


 白百合の丘の庭には新しい花が咲いていた。


 春の日差しの中で。


 風に揺れながら。


 静かに。


 けれど確かに。


 灯火のように。


              ―完―


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ