第8話 綻び
第8話 綻び
十月の風は少し冷たかった。
白百合の丘の中庭では、コスモスが秋風に揺れている。
空は高く澄み渡り、雲は羊の群れのようにゆっくり流れていた。
朝倉誠は出勤すると、いつもと違う空気を感じた。
職員たちの表情が硬い。
事務所の会話も少ない。
誰かがため息をつく。
誰かが机を指で叩く。
見えない何かが施設全体を覆っていた。
「何かあったんですか」
誠が尋ねると、野村が苦笑した。
「家族会だよ」
「ああ」
年に二回開かれる家族会だった。
利用者家族と施設職員、そして行政担当者が集まる。
本来は情報共有の場だ。
だが最近は違った。
不満。
不安。
怒り。
それらが噴き出す場所になっていた。
午前中。
職員会議が開かれた。
会議室の長机には資料が並んでいる。
施設長。
主任。
ベテラン職員。
若手職員。
みんな疲れた顔だった。
施設長が資料をめくる。
「今年度の退職者は六名です」
空気が重くなる。
「採用者は三名」
誰も何も言わない。
「夜勤体制の維持も厳しくなっています」
野村が腕を組んだ。
「現場は限界です」
施設長は目を閉じた。
「分かっています」
「本当に分かってますか」
若い女性職員が口を開く。
「先月も残業八十時間超えました」
「私もです」
「休憩も取れません」
次々に声が上がる。
誠は黙って聞いていた。
施設長は反論しなかった。
ただ疲れた顔で言った。
「求人は出しています」
「応募が来ないんです」
それもまた事実だった。
誰も嘘は言っていない。
だから余計につらかった。
昼になった。
職員食堂では秋刀魚の塩焼きが出ていた。
大根おろし。
ひじき煮。
豆腐の味噌汁。
新米のご飯。
香ばしい匂いが漂う。
だが会話は少ない。
皆どこか沈んでいた。
午後。
家族会が始まった。
会議室には三十人ほどの家族が集まっている。
高瀬良子も来ていた。
薄いグレーのカーディガン。
紺色のスカート。
少し緊張した顔。
誠は後方の席に座った。
最初は穏やかだった。
施設の近況報告。
行事報告。
事故報告。
ところが質疑応答になると空気が変わった。
「職員が足りていないのではありませんか」
父親らしい男性が言う。
施設長が頷く。
「厳しい状況です」
「それで安全は守れるんですか」
「努力しております」
努力。
その言葉に別の女性が声を上げた。
「努力じゃ困るんです」
会議室が静まり返る。
「私たちは子どもを預けているんです」
女性の声は震えていた。
「もし何かあったらどうするんですか」
誠はその顔を見た。
怒っているように見えた。
だが違う。
怖いのだ。
不安なのだ。
良子も同じ表情をしていた。
その時だった。
行政担当者が口を開いた。
「人員配置基準は満たしています」
会議室の空気が凍る。
「基準の問題じゃないんです!」
誰かが叫んだ。
「現場を見てください!」
行政担当者も困った顔をする。
「制度上は問題ありません」
「だからその制度がおかしいって言ってるんです!」
声が重なる。
怒号ではない。
悲鳴に近かった。
誠は胸が苦しくなった。
施設側も苦しい。
家族も苦しい。
行政も苦しい。
誰も敵ではない。
なのに対立してしまう。
その夜。
会議は長引いた。
終わった頃には外は真っ暗だった。
良子が帰ろうとしていた。
誠は玄関まで見送る。
「今日はお疲れさまでした」
「ありがとう」
良子は笑った。
しかし目は赤かった。
「良子さん」
「何?」
少し迷ってから誠は言った。
「怒ってました?」
良子は立ち止まる。
そして首を振った。
「違うの」
小さく笑う。
「怖いのよ」
秋風が吹いた。
落ち葉が転がる。
「私も年を取ったでしょう」
「……」
「私が死んだ後、この子はどうなるんだろうって」
良子は遠くを見る。
「毎日考えるの」
誠は何も言えなかった。
その言葉は重かった。
家族会で怒っていた人たちも同じなのだろう。
怒りではない。
不安なのだ。
未来への恐怖なのだ。
翌日。
拓真は中庭でコスモスを見ていた。
秋の日差しは柔らかい。
風は優しい。
拓真は花びらに触れようとしていた。
その姿を見ながら誠は思う。
昨日の会議。
職員会議。
家族会。
行政とのやり取り。
みんな正しいことを言っていた。
誰も利用者を苦しめたいわけではない。
誰も怠けているわけではない。
それでも現実はうまくいかない。
制度には限界がある。
予算にも限界がある。
人にも限界がある。
だから綻びが生まれる。
その綻びは少しずつ広がっていく。
誰かが悪いからではない。
誰もが苦しんでいるからだ。
その時、拓真がコスモスを摘もうとして手を止めた。
そして誠を見る。
何も言わない。
だが少しだけ笑った。
本当に少しだけ。
誠も笑い返した。
目の前のこの人を支えること。
まずはそこからなのだと思った。
綻びだらけの世界の中で。
それでも人は誰かの手を取ろうとする。
秋空の下、揺れるコスモスはどこか頼りなかった。
けれど、その細い茎は風に負けず立ち続けていた。




