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第7話 孤独の底

第7話 孤独の底


 秋の気配が少しずつ近づいていた。


 九月の夕暮れ。


 空は高く、雲はゆっくりと流れている。


 白百合の丘の中庭では、夏の向日葵が枯れ始め、代わりにコスモスが風に揺れていた。


 朝倉誠は事務所で記録を書いていた。


 パソコンの画面には拓真の支援記録が表示されている。


 以前より落ち着く時間が増えた。


 イヤーマフも使えるようになった。


 小さな変化だった。


 けれど確かな変化だった。


「朝倉くん」


 野村が声をかける。


「はい」


「この人知ってるか」


 差し出されたのは古い職員名簿だった。


 そこには一人の男性の写真があった。


 短い黒髪。


 真面目そうな顔。


 誠と同じくらいの年齢に見える。


「誰ですか」


「岸本聡」


 誠はその名前を聞いて少し驚いた。


 最近、施設の職員たちが時々口にする名前だった。


 だが詳しくは知らない。


「昔ここにいた職員だ」


「そうだったんですか」


 野村は頷いた。


 だが表情は暗かった。


「最初は良い職員だったんだよ」


 窓の外ではコスモスが揺れていた。


 風は涼しい。


 しかし野村の声はどこか重かった。


 十年前。


 岸本聡は二十五歳だった。


 大学で福祉を学び、理想に燃えていた。


 初出勤の日。


 新品のネイビーのポロシャツ。


 黒いスラックス。


 磨かれた靴。


 緊張した顔。


「よろしくお願いします!」


 大きな声で頭を下げた。


 利用者たちと向き合う仕事がしたかった。


 人の役に立ちたかった。


 社会を少しでも良くしたかった。


 本気でそう思っていた。


 当時の野村も覚えている。


「いい新人が来たな」


 そう思った。


 聡は誰より熱心だった。


 休憩時間にも利用者の記録を読む。


 支援方法を学ぶ。


 研修にも積極的に参加する。


 ある日。


 利用者の一人がパニックを起こした。


 職員たちが対応する。


 その中で聡は必死だった。


「大丈夫です」


「ここにいます」


「落ち着いてください」


 汗だくになりながら支援する。


 利用者が落ち着いた後も記録を書き続けた。


 その姿を見て先輩たちは感心した。


 しかし現実は理想だけではなかった。


 夜勤。


 人手不足。


 残業。


 休日出勤。


 慢性的な疲労。


 聡の目の下には次第に隈ができていった。


 ある冬の日だった。


 夜勤明け。


 職員休憩室。


 カップラーメンの湯気が立っている。


 聡はソファに座り込んでいた。


 顔色が悪い。


 そこへ野村が来た。


「帰らないのか」


「少し休んでから」


 聡は力なく笑った。


「大丈夫か」


「大丈夫です」


 そう答えた。


 だが大丈夫ではなかった。


 本当は眠れなかった。


 本当は苦しかった。


 本当は誰かに助けてほしかった。


 けれど言えなかった。


 福祉職員は優しくなければならない。


 強くなければならない。


 利用者を支えなければならない。


 そんな思い込みがあった。


 だから助けを求められなかった。


 ある日。


 利用者から突然叩かれた。


 悪意ではない。


 パニックだった。


 理解していた。


 頭では。


 それでも痛かった。


 怖かった。


 ショックだった。


 夜。


 一人暮らしのアパートへ帰る。


 六畳一間。


 コンビニ弁当。


 冷えた唐揚げ。


 ペットボトルのお茶。


 テレビの音だけが響いている。


 誰とも話さない。


 誰もいない。


 気付けば朝になっている。


 そんな日が増えていった。


 職場では退職者が続いた。


 一人辞める。


 また一人辞める。


 新人も続かない。


「すみません」


「限界です」


 そう言って去っていく。


 残るのは疲れた職員だけだった。


 ある夜。


 聡は野村へ言った。


「野村さん」


「なんだ」


「何のためにやってるんですか」


 野村は少し考えた。


「利用者さんのためだろ」


 だが聡は笑わなかった。


「本当にそうですか」


 その目には疲労が滲んでいた。


「誰も幸せそうに見えません」


 野村は返事ができなかった。


 利用者も苦しい。


 家族も苦しい。


 職員も苦しい。


 それは事実だった。


 だが聡はそこから先へ進めなかった。


 疲労は少しずつ心を削る。


 孤独は少しずつ視野を狭くする。


 助けを求められない人間は、いつしか世界そのものを敵だと思うようになる。


 聡もそうだった。


 退職した日。


 空は曇っていた。


 最後の挨拶。


「お世話になりました」


 誰も彼を責めなかった。


 むしろ心配していた。


 だが聡はその優しさすら受け取れなかった。


 もう疲れ切っていたのだ。


 それから数年。


 誰とも会わなくなった。


 福祉関係者とも連絡を絶った。


 狭い部屋。


 閉じたカーテン。


 冷えたコンビニ弁当。


 暗い画面の光。


 インターネットだけが世界になる。


 そして。


 怒りだけが残った。


 社会への怒り。


 制度への怒り。


 他人への怒り。


 自分への怒り。


 行き場のない感情が少しずつ膨らんでいく。


 誰もその孤独を知らなかった。


 誰もその苦しさを聞かなかった。


 いや。


 聞こうとした人はいたかもしれない。


 だが届かなかった。


 その夜。


 野村の話を聞き終えた誠は窓の外を見ていた。


 夕焼けがコスモス畑を赤く染めている。


「助けを求められなかったんですね」


 誠が呟く。


 野村は静かに頷いた。


「ああ」


「利用者だけじゃないんですね」


「何がだ」


「困っている人」


 野村は少し驚いたように笑った。


「そうだな」


 秋風が吹く。


 コスモスが揺れる。


 誠は思った。


 拓真も困っていた。


 良子も困っていた。


 野村も困っていた。


 そして岸本聡も。


 ただ苦しみ方が違っただけなのかもしれない。


 誰かが助けを求める声は、必ずしも言葉になるとは限らない。


 沈黙。


 怒り。


 諦め。


 孤立。


 それもまた声なのだ。


 誠は窓の外の夕焼けを見つめながら、胸の奥に重い不安を感じていた。


 岸本聡という男の孤独は、まだ終わっていない。


 そんな予感がした。



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