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第6話 困る人

第6話 困る人


 八月の太陽は容赦がなかった。


 白百合の丘の駐車場は陽炎で揺れている。


 アスファルトから立ち上る熱気に、朝倉誠は思わず目を細めた。


 今日は休日だった。


 久しぶりの休み。


 本当なら家で寝ていたかった。


 だが誠は電車に乗って隣町の市民会館へ向かっていた。


 外部研修。


 強度行動障害支援に関する勉強会だった。


「暑い……」


 額の汗を拭く。


 白いポロシャツは背中に張りついていた。


 市民会館のロビーへ入ると冷房の風が身体を包む。


 ほっと息を吐いた。


 受付を済ませて会場へ向かう。


 百人ほど入る会議室だった。


 支援員。


 教員。


 看護師。


 相談支援専門員。


 家族らしい人の姿もある。


 皆どこか疲れた顔をしていた。


 誠は後方の席へ座った。


 壇上へ現れたのは六十代くらいの男性だった。


 白髪混じり。


 眼鏡。


 柔らかな表情。


 大学教授ではなく、長年現場で支援を続けてきた人らしい。


「本日はお集まりいただきありがとうございます」


 穏やかな声だった。


 会場が静かになる。


「皆さんは強度行動障害という言葉を聞くと、何を思い浮かべますか」


 スクリーンに文字が映る。


 自傷。


 他害。


 パニック。


 破壊行動。


 大声。


 誠も頷いた。


 施設で毎日のように見ている。


 講師は続けた。


「では質問です」


 少し間を置く。


「それは誰が困っているのでしょう」


 会場が静かになる。


「支援者でしょうか」


 誰も答えない。


「家族でしょうか」


 沈黙。


「地域住民でしょうか」


 誠は考えた。


 全部だと思った。


 その時だった。


 講師が言った。


「もちろん皆さんも困っています」


 穏やかな声。


「ですが一番困っているのは本人です」


 誠の胸が少しざわついた。


 講師は続ける。


「私はよくこう言います」


 そして静かに言った。


「困る人ではない」


 会場が静まり返る。


「困っている人なのです」


 誠は息を呑んだ。


 その言葉は不思議なほど真っすぐ胸へ入ってきた。


 拓真の顔が浮かぶ。


 耳を塞いでいた姿。


 涙を流していた姿。


 紫陽花を見ていた横顔。


 確かにそうだった。


 困らせようとしていたわけではない。


 苦しかったのだ。


 助けを求めていたのだ。


 昼休み。


 誠は一階の食堂へ降りた。


 冷やし中華を注文する。


 ハム。


 きゅうり。


 錦糸卵。


 トマト。


 冷たい麺が喉を通る。


 だが頭の中は講師の言葉でいっぱいだった。


 向かいの席に座った女性が話しかけてきた。


「福祉関係の方ですか?」


「はい。施設職員です」


「私は母なんです」


 女性は笑った。


 だが目の下には濃い隈があった。


「息子が自閉症で」


 誠は思わず姿勢を正した。


「そうなんですね」


「昔はね」


 女性は冷やし中華を箸でつまみながら言った。


「スーパーでひっくり返るたびに謝ってました」


 少し笑う。


「周りから見ると困った子でしょう?」


 誠は返事ができなかった。


「でも本人はもっと困ってたんですよね」


 女性の声は優しかった。


「それに気付くまで何年もかかりました」


 誠は黙って聞いていた。


 午後の講義。


 講師は一枚の写真を映した。


 窓際で耳を塞ぐ少年。


「この子は騒音が苦手でした」


 講師が言う。


「ところが周囲は問題行動だと考えた」


 次の写真。


 静かな部屋で笑顔を見せる少年。


「環境を変えたら行動は減りました」


 会場は静まり返っていた。


「行動だけを見ると分からない」


 講師はゆっくり言った。


「何に困っているのかを見ることが大切です」


 その言葉は誠の胸へ深く残った。


 夕方。


 研修を終えて白百合の丘へ戻る。


 休日なのに気になって寄ってしまった。


 中庭では拓真がベンチに座っていた。


 夕焼けが空を赤く染めている。


 蝉の声。


 草の匂い。


 夏の終わりの風。


「拓真さん」


 誠が声をかける。


 拓真は振り向いた。


 何も言わない。


 でも逃げない。


 誠は隣へ座った。


 しばらく沈黙が続く。


 やがて施設のインターホンが鳴った。


 ピピピ。


 拓真の肩がぴくりと動く。


 以前なら耳を塞いでいた。


 だが今はイヤーマフを持っている。


 自分で装着した。


 少しだけ不安そうな顔。


 それでも落ち着いている。


 誠はその姿を見ていた。


「頑張ってるんですね」


 小さく呟く。


 拓真は空を見上げていた。


 赤く染まる雲。


 飛んでいく鳥。


 沈んでいく太陽。


 その横顔は穏やかだった。


 誠は思う。


 自分は今まで何を見ていたのだろう。


 行動ばかり見ていた。


 大声。


 パニック。


 自傷。


 そればかり見ていた。


 でも本当に見るべきだったのは、その奥にある苦しさだった。


 怖さだった。


 不安だった。


 助けてほしいという願いだった。


 風が吹く。


 向日葵の葉が揺れる。


 夕焼けが二人を包む。


 誠は胸の奥で何かが変わるのを感じていた。


 福祉は人を管理する仕事ではない。


 問題を消す仕事でもない。


 目の前にいる人が何に困っているのか。


 それを一緒に探す仕事なのだ。


 講師の言葉が再び浮かぶ。


「困る人ではない」


 夕焼け空の下。


 誠は静かに続けた。


「困っている人なんだ」


 その言葉は夏の風に乗り、どこまでも優しく広がっていくようだった。



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