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第5話 誰のための制度か

第5話 誰のための制度か


 七月に入った。


 白百合の丘の中庭では、向日葵が空へ向かって大きく花を開いている。


 朝から蒸し暑かった。


 セミの声が途切れることなく響き続けている。


 朝倉誠は額の汗を拭いた。


 利用者たちと散歩を終えたところだった。


「暑いですね」


 誠が言うと、野村は首にかけたタオルで顔を拭いた。


「まだ七月だぞ」


「これからが本番ですか」


「覚悟しとけ」


 二人は笑った。


 その時だった。


 事務所から施設長の声が聞こえた。


「監査の準備を急いでください」


 職員たちが慌ただしく動き始める。


 誠は首を傾げた。


「監査?」


「年に一度ある」


 野村が答える。


「役所の人が来て書類を確認するんだ」


「なるほど」


「今週はみんなピリピリするぞ」


 その言葉通りだった。


 翌日から事務所の空気が変わった。


 パソコンのキーボードを打つ音。


 コピー機の稼働音。


 積み上がるファイル。


 記録の確認。


 報告書の修正。


 現場職員まで駆り出される。


 誠も夜遅くまで書類整理を手伝った。


「こんなにあるんですね」


 目の前には分厚いファイルが積まれている。


 利用者支援計画。


 事故報告。


 研修記録。


 勤務表。


 加算関係書類。


 野村が苦笑した。


「福祉は書類の仕事でもあるからな」


「支援より多い気がします」


「言うな」


 二人は顔を見合わせて笑った。


 だが誠は次第に違和感を覚え始める。


 ある日の昼休みだった。


 職員食堂。


 冷やしうどん。


 ちくわ天。


 きゅうりの浅漬け。


 冷たい麦茶。


 誠は事務職員の女性と同じテーブルになった。


「朝倉さん、もう慣れました?」


「少しずつです」


「現場は大変でしょう」


「はい」


 女性は苦笑した。


「強度行動障害支援加算の書類なんかも大変なのよ」


 誠は聞き返した。


「加算?」


「そう。利用者さんへの支援体制に対して国から出るお金」


 誠は頷いた。


 名前だけは聞いたことがあった。


「それがないと施設運営も大変だからね」


 その時だった。


 ふと気になった。


「加算って、現場の人員を増やしたりするためのお金なんですよね?」


「まあ、そういう意味合いもあるわね」


 曖昧な返事だった。


 誠は何となく引っかかった。


 数日後。


 拓真の支援を終えた夕方だった。


 職員室には疲労が漂っていた。


「人が足りないなあ」


 若い女性職員が椅子にもたれた。


「今日も残業ですか?」


「三時間確定」


 みんな笑った。


 だが笑顔は疲れている。


 誠は思わず言った。


「加算があるなら、人を増やせないんですか」


 一瞬。


 部屋が静かになった。


 誰も何も言わない。


 やがて野村がコーヒーを飲んだ。


「簡単じゃない」


「そうなんですか」


「簡単じゃないんだ」


 それだけだった。


 しかし誠の疑問は消えなかった。


 監査当日。


 朝から緊張感が漂っていた。


 施設長はネクタイ姿。


 事務職員もスーツ。


 会議室には冷房が効いている。


 役所の職員たちが到着した。


 書類確認。


 聞き取り。


 施設内視察。


 すべて整然と進んでいく。


 誠も案内役として同行した。


「支援体制は問題ありませんか」


「はい」


「研修は実施されていますか」


「はい」


「加算要件は満たしていますか」


「はい」


 会話が続く。


 数字。


 基準。


 要件。


 書類。


 報告。


 すべて正しい。


 すべて整っている。


 だが誠の胸には妙な違和感があった。


 夕方。


 監査は終了した。


 大きな問題なし。


 職員たちはほっとしていた。


「終わったー!」


「帰れる!」


 拍手まで起きる。


 だが誠は中庭へ出た。


 向日葵が風に揺れている。


 そこへ野村がやってきた。


「難しい顔してるな」


「野村さん」


 誠は少し迷った。


 それでも聞いた。


「今日の監査」


「うん」


「間違ってはいないんですよね」


「間違ってない」


「でも何か……」


 誠は言葉を探した。


「利用者さんの苦しさとか」


「うん」


「職員の疲れとか」


「うん」


「そういうものは見えない気がして」


 野村はしばらく黙っていた。


 セミの声だけが響く。


 やがて静かに言った。


「見えないんだよ」


「え?」


「数字には」


 野村は向日葵を見た。


「拓真さんが音で苦しんでたことも」


「……」


「良子さんが何年も眠れなかったことも」


「……」


「新人が辞める前に泣いてたことも」


 誠は何も言えなかった。


「数字は大事だ」


 野村は続ける。


「制度も必要だ」


「はい」


「でも数字だけじゃ人間は見えない」


 その言葉は重かった。


 夜。


 誠は記録を書いていた。


 拓真の支援記録。


 食事摂取量。


 睡眠状況。


 活動内容。


 決められた欄を埋めていく。


 だがふと手が止まる。


 今日の拓真は中庭の向日葵を見て笑った。


 本当に少しだけ。


 口元が緩んだ。


 その瞬間を記録用紙のどこへ書けばいいのだろう。


 良子が面会で安心した顔を見せたことは。


 野村が腰を押さえながら働いていることは。


 新人職員が利用者と笑い合ったことは。


 どこに残るのだろう。


 窓の外では夏の夜風が木々を揺らしている。


 遠くで花火の音が聞こえた。


 誠はゆっくりとペンを置く。


 制度は必要だ。


 数字も必要だ。


 けれど。


 その数字の向こうには、確かに人がいる。


 泣く人。


 笑う人。


 苦しむ人。


 支える人。


 誰かの人生そのものがある。


 誠は記録の余白に小さく書き足した。


『中庭で向日葵を見て笑顔あり』


 たった一行だった。


 数字にはならない。


 加算にもならない。


 監査でも評価されない。


 それでも。


 その一行こそが、今日の拓真にとって一番大切な出来事のような気がした。



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