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第4話 言葉にならない声

第4話 言葉にならない声


 六月の雨が降っていた。


 白百合の丘の窓ガラスを、細かな雨粒が絶え間なく流れていく。中庭の紫陽花は色を深め、青や紫の花房がしっとりと濡れていた。


 朝倉誠は記録用のノートを閉じた。


 入職して二か月が過ぎていた。


 施設の仕事には少しずつ慣れてきた。


 利用者たちの名前も覚えた。


 好きな食べ物。


 嫌いな音。


 落ち着く場所。


 それぞれ違うことも分かってきた。


 だが一人だけ、どうしても気になる利用者がいた。


 高瀬拓真だった。


 朝食の時間だった。


 食堂には焼き鮭の香ばしい匂いが漂っている。


 温かな味噌汁。


 ほうれん草のおひたし。


 白いご飯。


 窓の外には雨。


 利用者たちは思い思いに食事をしていた。


 拓真は窓際の席に座っている。


 青いチェック柄のシャツ。


 黒いジャージ。


 お気に入りの席だった。


 誠は少し離れた場所から様子を見ていた。


 すると拓真が突然、耳を押さえた。


 身体が硬くなる。


 顔が曇る。


「どうしたんだろう」


 誠は首をかしげた。


 しかし数分後には元に戻っている。


 気のせいだろうか。


 昼食の時も同じだった。


 親子丼の湯気が立ち上る食堂。


 拓真はスプーンを持ったまま耳を塞ぐ。


 眉間にしわを寄せる。


 落ち着かない様子で椅子を揺らす。


 だがまた元に戻る。


 その日の夕方。


 入浴前の時間だった。


 拓真は突然パニックを起こした。


 耳を塞ぎながら叫ぶ。


「うああああ!」


 身体を揺らし、壁際へ逃げようとする。


 職員たちが対応する。


「大丈夫だよ」


「落ち着こう」


 十分ほどで収まったが、誠の胸には引っかかるものが残った。


 翌日。


 誠はノートを持っていた。


 拓真の様子を観察してみようと思ったのだ。


 問題行動としてではなく。


 何が起きているのか知りたかった。


 午前十時。


 拓真が耳を塞ぐ。


 午前十一時半。


 また耳を塞ぐ。


 午後二時。


 身体を揺らし始める。


 午後三時。


 落ち着きを失う。


 誠は記録を見返した。


「何か共通点があるはずだ」


 そう思った。


 その時だった。


 廊下の向こうから電子音が聞こえた。


 ピピピピピ。


 給湯設備の警告音だった。


 誠ははっとした。


 同時に拓真が耳を塞いでいる。


「まさか」


 次の日も観察した。


 昼食前。


 厨房のタイマーが鳴る。


 ピピピピ。


 拓真が顔をしかめる。


 洗濯室。


 乾燥機終了の電子音。


 ピピピピ。


 拓真が耳を押さえる。


 夕方。


 職員用のインターホン。


 ピピピ。


 拓真が落ち着きを失う。


 誠の背筋に電気が走った。


 問題行動の前に。


 必ず同じような高い電子音が鳴っている。


 翌朝。


 誠は野村に相談した。


「野村さん」


「どうした」


「拓真さんなんですけど」


 野村はコーヒーを飲みながら耳を傾けた。


 誠はノートを差し出す。


「これ見てください」


 野村はページをめくった。


 しばらくして眉が上がる。


「なるほどな」


「やっぱりそう思います?」


「面白い視点だ」


 誠は少し興奮していた。


「電子音の後なんです。必ず」


「気付かなかったな」


 野村は感心したように言った。


 その日の午後。


 二人は試してみた。


 インターホン音が鳴る前に拓真へイヤーマフを渡す。


 耳を守るための道具だ。


 拓真は最初嫌がった。


 しかし誠がゆっくり説明する。


「音を小さくするんだよ」


 言葉がどこまで伝わるか分からない。


 それでも誠は話しかけた。


 インターホンが鳴る。


 ピピピ。


 拓真の肩がぴくりと動く。


 だが。


 耳を塞がない。


 身体も揺れない。


 そのまま窓の外を見ていた。


 誠は思わず息を呑んだ。


 野村も驚いている。


「本当に音だったのか」


 夕方の会議だった。


 職員たちが集まる。


 誠は緊張しながら説明した。


「まだ確定ではありません」


 そう前置きしてから記録を見せた。


 職員たちは真剣に聞いていた。


「じゃあ今までのパニックは」


「音への苦痛だった可能性があります」


 静かになった。


 誰も責めなかった。


 むしろ申し訳なさそうな顔をしていた。


 ある女性職員が言う。


「私たち、暴れてるって思ってた」


 誠も同じだった。


 最初はそう見えていた。


 しかし違った。


 拓真は困らせようとしていたのではない。


 苦しかったのだ。


 助けを求めていたのだ。


 夜。


 誠は拓真と中庭へ出た。


 雨は上がっていた。


 濡れた紫陽花が月明かりに光っている。


 土の匂い。


 草の匂い。


 涼しい風。


 拓真は花を見ていた。


 じっと。


 長い間。


「きれいだな」


 誠は呟く。


 拓真は返事をしない。


 だが少しだけ表情が柔らかくなったように見えた。


 その時だった。


 拓真が指を伸ばした。


 紫陽花ではない。


 自分の耳だった。


 そして誠を見る。


「……音?」


 誠が言う。


 拓真は小さく頷いた。


 本当に小さな動きだった。


 見逃してしまいそうなほど。


 だが確かに頷いた。


 誠の胸が熱くなる。


 言葉ではない。


 会話とも違う。


 けれど伝わった。


 伝えようとしてくれた。


 その事実が嬉しかった。


 夜風が吹く。


 紫陽花の葉が揺れる。


 遠くでカエルが鳴いていた。


 誠は空を見上げた。


 今まで問題行動と呼ばれていたもの。


 だが本当は違った。


 あれは言葉にならない声だったのだ。


 苦しい。


 怖い。


 助けてほしい。


 その叫びだったのだ。


 誠は静かに思った。


 もし耳を澄ませれば。


 まだ聞こえていない声が、きっとたくさんあるのだろうと。



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