第8話 約束の外側
鉱山へ向かった荷馬車の一団が戻らない。
その報せが商会にもたらされた時、帳場にいた者たちは一瞬、誰も声を出せなかった。
荷馬車一台が遅れることはある。
道がぬかるんだ。車輪が外れた。馬が脚を痛めた。途中の宿で足止めを食った。理由はいくらでもあった。
だが、一団ごと戻らないとなれば話は違う。
しかも、途中の宿にも寄っていない。
鉱山道に入ったきり、足取りが途絶えている。
「戻ってないのは、ガルドたちの組か」
番頭の声は低かった。
知らせを持ってきた男が、汗と土にまみれた顔で頷く。
「ああ。護衛も荷運びも、誰も戻ってねえ。宿にも来てねえってよ」
商会の奥で、誰かが舌打ちした。
誰かが名前を確認する。
洸太はその場に立ったまま、動けなかった。
ガルド。
荷札の読み方を教えてくれた男。
鉱石の箱を叩きながら、泥を見ろ、車輪の傷を見ろ、違和感があれば覚えておけ、と言った男。
戻ったら、次は鉱石の値のつけ方を教えてやる。
そう言って、荷馬車に乗った男。
洸太は、あの日のガルドの顔を思い出していた。
いつもより口数が少なかった。
荷札を見た時、ほんの少し眉を寄せた。
護衛の数を確認して、舌打ちしかけてやめた。
何でもねえよ。
そう言って笑った。
けれど、何でもなかったわけではない。
今ならそう思える。
今なら。
「捜索を出す」
番頭が言った。
「人を集めろ。腕の立つ護衛もだ。鉱山道に詳しい奴を呼べ」
商会の中が動き出した。
怒号に近い指示が飛び、男たちが走る。荷袋が開かれ、縄や水袋、薬草袋、松明がまとめられていく。
その騒ぎの中で、洸太は一歩前に出た。
「俺も行きます」
周囲の動きが、一瞬だけ止まった。
番頭が顔を上げる。
「洸太」
「ガルドさんの様子が、出る前に少し変でした」
「……何か聞いていたのか」
「いいえ。具体的には何も」
洸太は拳を握った。
「でも、荷札を見ていました。護衛の数も気にしていました。何か引っかかっていたんだと思います」
「それだけで連れて行けと言うのか」
「灯りは出せます。応急処置もできます。荷札と鉱石の基本も、少しは覚えました」
「少し、だろう」
「はい」
洸太は誤魔化さなかった。
「少しです。でも、見ていたことはあります」
番頭は黙った。
商会の者たちも黙っていた。
洸太は戦える男ではない。
剣ならルークに毎朝転がされている。
攻撃魔法は煙と微風が関の山。
年も四十一。
今さら冒険者の真似事をさせるには、あまりにも頼りない。
だが、町の者たちは知っている。
ミーナが刺された時、この男は逃げなかった。
ソフィアが来るまで、命を繋いだ。
夜ごと灯りを浮かべて素振りをし、朝になればルークに転がされ、それでも立つ。
商会では、口数少なく荷札を覚え、泥を見て、車輪を見て、余計なところに気づく。
強いとは誰も思っていない。
けれど、粘る。
そして、よく見る。
「駄目だ」
低い声が割って入った。
ルークだった。
修道院から知らせを聞いて来たのか、入口に立っている。腰には剣を差し、すでに出る支度をしていた。
洸太はルークを見た。
「ルーク」
「お前は残れ」
「でも」
「でも、じゃねえ」
ルークは真っ直ぐ洸太を見た。
「鉱山道は遊びじゃねえ。相手が賊か魔物か、崩落かも分かんねえ。暗い。狭い。逃げ場がない。お前を連れて行って、守りながら探す余裕があるか分からねえ」
「分かってる」
「分かってねえ顔だな」
ルークの声が少し荒くなる。
洸太は言い返さなかった。
その沈黙が、かえってルークを苛立たせた。
「お前な」
「ガルドさんが言ったんだ」
洸太が口を開いた。
「違和感があったら覚えておけって。すぐ分からなくてもいい。後で繋がることがあるって」
ルークは黙った。
「俺は、たぶん見てた。でもその時は分からなかった。今も、全部は分からない」
洸太は視線を落とす。
「でも、行けば分かることがあるかもしれない」
「……」
「戦うつもりはない。前にも出ない。お前の指示を聞く。灯りと手当てと、見たものを伝える。それだけやる」
ルークは舌打ちした。
番頭が口を挟む。
「ルーク。お前が見るなら、連れて行く価値はある」
「簡単に言うなよ」
「簡単には言ってねえ。だが、ガルドの最後の様子を見ていたのはこいつだ。荷札の違和感を覚えている可能性もある。それに、暗い坑道で灯りが使えて、怪我人の応急処置ができる奴は一人でも多い方がいい」
「戦わせねえぞ」
「戦わせるつもりはねえ」
番頭は洸太を見る。
「洸太。お前は護衛じゃない。救護と確認役だ。勝手に前へ出るな。ルークの指示を聞け」
「はい」
「ルーク」
番頭が続ける。
「お前が無理だと言うなら置いていく」
ルークは長く息を吐いた。
それから、洸太の前に立った。
「条件がある」
「何だ」
「俺の後ろから出るな」
「ああ」
「俺が止まれと言ったら止まれ。下がれと言ったら下がれ。灯りを消せと言ったら消せ。怪我人を見つけても、まず俺に言え」
「ああ」
「お前の判断で動くな」
「……分かった」
「今、間があったな」
「分かった」
ルークは洸太を睨んだ。
「本当に分かってんのかよ」
「分かってる、つもりだ」
その言葉に、ルークの眉間が深くなった。
「その“つもり”が一番信用ならねえ」
それでも、ルークは背を向けた。
「支度しろ。余計なものは持つな。水、包帯、薬草、縄、短剣。あと灯り。荷物は軽くしろ」
「分かった」
「それと」
ルークは振り返らずに言った。
「ソフィア姉には、お前から言え」
◇
修道院に戻った洸太は、必要なものを詰めた背負い袋を前に、何度も中身を確認していた。
包帯。
薬草。
水袋。
布。
短い縄。
小さな刃物。
灯りの魔法を使うために、特別な道具はいらない。ただ、自分の集中力と、少しの魔力がいるだけだ。
「洸太さん」
呼ばれて振り返ると、ソフィアが立っていた。
いつもの修道服。
いつもの静かな表情。
けれど、その指先は胸元で固く握られていた。
「行くのですね」
「はい」
洸太は頷いた。
「ガルドさんが戻っていません。俺は、あの人の出発前の様子を見ています。何か分かるかもしれません」
「危険です」
「分かっています」
「本当に?」
ソフィアの声は穏やかだった。
けれど、洸太は返事に詰まった。
ソフィアの後ろでは、ミーナが寝台から身を乗り出すようにしてこちらを見ていた。まだ本調子ではない。だが、顔色は以前よりずっと良くなっている。
「洸太」
ミーナが言った。
「ルークの言うこと、ちゃんと聞いてね」
「ああ」
「前に出ちゃ駄目よ」
「ああ」
「怪我したら、お姉ちゃんすごく怒るよ」
洸太は少し笑った。
「それは怖いな」
「笑い事ではありません」
ソフィアが即座に言った。
洸太は口を閉じた。
ソフィアは一歩近づく。
「無理は、しないでください」
「はい」
「ルークの指示を聞いてください」
「はい」
「前に出ないでください」
「……はい」
返事がわずかに遅れた。
ソフィアの眉が動く。
部屋の入口にいたルークも、それを見逃さなかった。
ソフィア姉、それはもうほとんど祈りじゃねえな。
ルークはそう思った。
だが口には出さない。
「洸太さん」
ソフィアは洸太の名を呼んだ。
「必ず、無事に帰ってきてください」
洸太はその声を聞いた。
静かだった。
けれど、普段の祈るような声とは少し違った。
何かを願っているというより、何かを決めている声だった。
「……帰ってきます」
洸太は答えた。
「約束です」
「はい」
「破ったら、許しません」
洸太は少しだけ目を瞬かせた。
そして、真面目に頷いた。
「約束します」
ソフィアは、それを聞いて小さく息を吐いた。
ルークは横目で洸太を見る。
お前、本当に分かってねえんだろうな。
そう思った。
けれど今は言わなかった。
「ルーク」
ミーナが呼んだ。
ルークはそちらを見る。
「無茶しないでね」
「ああ」
「ちゃんと帰ってきてね」
ルークは一瞬、言葉を詰まらせた。
それから、いつものようにぶっきらぼうに頷いた。
「分かってる」
「本当に?」
「本当だ」
「洸太をちゃんと見ててね」
「そこは俺が言いたい」
ミーナは少し笑った。
「じゃあ、ふたりとも見てて」
「難易度が上がってるだろ」
「ルークならできるよ」
その言葉に、ルークは何も返せなかった。
ただ、少しだけ視線を逸らした。
できるかどうかではない。
やるしかない。
ミーナに帰ってこいと言われた。
それだけで、ルークには十分すぎた。
◇
ルークと洸太の背中が、通りの向こうに小さくなっていく。
ミーナは修道院の門の前で、その背中をじっと見ていた。
「……ふたりとも、無事に帰ってくるよね」
隣に立つソフィアは、少し遅れて頷いた。
「ええ。約束しましたから」
ミーナはソフィアを見上げた。
「ふたりとも?」
「……はい」
ほんのわずかな間があった。
ミーナは、その間を聞き逃さなかった。
ソフィアの指は、胸元で固く握られている。
祈る時の形に似ていた。
けれどミーナには、それが祈りだけには見えなかった。
「ねえ、お姉ちゃん」
「何ですか」
「お姉ちゃんは、洸太のこと――」
そこまで言いかけた時、ソフィアが小さく息を呑んだ。
否定は返ってこなかった。
いつものソフィアなら、きっと穏やかに微笑んだだろう。
ミーナ、と名前を呼んで、まだそういうことを言うものではありませんとたしなめただろう。
けれど今のソフィアは、何も言わなかった。
ただ、洸太たちが消えた道の先を見つめていた。
「私は」
やがて、ソフィアがぽつりと言った。
「無事に帰ってきてと、約束したつもりです」
「うん」
「ですから」
ソフィアの声が、ほんの少しだけ震えた。
「守ってもらわなければ、困ります」
誰に。
何を。
ミーナは聞かなかった。
聞かなくても、分かった気がした。
お姉ちゃんは、洸太に帰ってきてほしいのだ。
ルークと一緒に。
みんなのところへ。
修道院へ。
けれど、きっとそれだけではない。
もっと近い場所へ。
お姉ちゃん自身が、まだ口にできない場所へ。
「大丈夫だよ」
ミーナは言った。
「洸太も、ルークも、ちゃんと帰ってくるよ」
ソフィアは答えなかった。
ただ、小さく頷いた。
その横顔を見て、ミーナは思った。
お姉ちゃんは、もう気づきかけている。
洸太が帰ってこなかったら悲しい、ではない。
帰ってこないことを、許せないのだと。
◇
鉱山道は、町を出て半日ほど進んだ先にあった。
最初はなだらかな道だった。
荷馬車が通るために踏み固められ、車輪の跡が幾筋も残っている。道沿いには低い草と、まばらな木々。遠くには岩肌の見える山が連なっていた。
捜索隊は十人ほどだった。
商会の男が数人。
護衛が三人。
鉱山道に詳しい案内役。
そしてルークと洸太。
洸太は列の中央やや後ろを歩いていた。
ルークはその少し前。
何かあるたびに、振り返らず短く指示を出す。
「そこ、足元見ろ」
「右に寄るな」
「灯りはまだ使うな。目立つ」
「水は少しずつ飲め。一気に飲むな」
洸太はそのたびに頷いた。
言われた通りにする。
勝手に判断しない。
前に出ない。
そう何度も自分に言い聞かせる。
途中、荷馬車の車輪跡が乱れている場所があった。
案内役が膝をつき、泥を指でこする。
「ここで一度止まってるな」
商会の男が唸る。
「車輪がはまったか?」
「いや」
洸太は思わず口を開いた。
全員の視線が集まる。
洸太は慌ててルークを見た。
ルークは短く言う。
「言え」
「車輪跡が片方だけ深いです。荷が傾いたか、片側に重さが寄ったのかもしれません。それと、この泥……町側の道より黒い」
案内役が目を細めた。
「黒い?」
「ガルドさんに、鉱山道の泥は場所で違うって聞きました。これはたぶん、鉱山の奥側の泥に似てる。けど、ここはまだ手前です」
「つまり?」
「奥へ行った後に、ここまで戻ってきた何かがあるのかもしれません」
場が少し沈黙した。
商会の男が低く言う。
「荷馬車が奥まで行ってから、ここへ戻ってきた?」
「可能性です」
洸太はすぐに付け足した。
「間違ってるかもしれません」
「いや」
案内役は泥を見つめた。
「覚えておく価値はある」
洸太は小さく頷いた。
ルークは何も言わなかった。
だが、少しだけ目を細めた。
連れてきた意味はあった。
そう思った。
◇
鉱山の入口に着いたのは、陽が傾きかけた頃だった。
そこには、本来なら荷の受け渡しに使う小屋がある。
だが、人の気配はなかった。
扉は半開き。
中には倒れた椅子と、踏み荒らされた土。
血の跡はない。
だが、荷をまとめた痕跡が乱れている。
「誰もいねえな」
護衛の一人が剣に手をかける。
ルークは洸太へ振り向いた。
「灯り」
「ああ」
洸太は掌を前に出した。
小さな光が浮かぶ。
夜の素振りで何度も灯した、頼りない光。
だが坑道の入口では、それだけで周囲の影が薄くなった。
商会の男の一人が呟く。
「便利だな、それ」
「明るすぎると目立つので、このくらいで」
洸太は光を少し低く保った。
ルークが頷く。
「そのまま。俺より前に出すな」
「分かった」
一行は坑道へ入った。
空気が冷える。
湿った土と石の匂い。
どこか鉄のような匂い。
松明より弱い洸太の光が、壁面を舐めるように照らす。
坑道は途中でいくつかに分かれていた。
案内役が道を確認しながら進む。
やがて、洸太は壁の近くに落ちている布切れを見つけた。
「待ってください」
ルークが手を上げ、全員が止まる。
洸太はしゃがみ込もうとして、ルークに睨まれた。
「俺に言えって言っただろ」
「……布切れがあります」
「よし。下がってろ」
ルークが先に確認する。
罠はない。
それを見てから、洸太が近づいた。
布には見覚えがあった。
商会の荷を縛る時に使う布だ。
端に、ガルドがよく使っていた結び目の癖が残っている。
「ガルドさんたちのものかもしれません」
洸太の声が少し低くなる。
さらに進むと、地面に血の跡があった。
量は多くない。
だが新しい。
その先で、呻き声が聞こえた。
「誰かいる!」
商会の男が走り出しかける。
「待て!」
ルークが鋭く制した。
洸太も息を呑む。
奥の岩陰に、人影が倒れていた。
護衛の一人が慎重に近づき、周囲を確認する。
「生きてる!」
それはガルドではなかった。
商会の若い荷運びだった。
肩を斬られ、足を痛めている。
意識はあるが、顔色が悪い。
洸太はルークを見る。
ルークは一瞬だけ周囲を見てから頷いた。
「行け。ただし俺の横から出るな」
「分かった」
洸太は膝をついた。
手が震えそうになる。
それを押さえつけて、傷を見る。
出血はある。
だが血管が大きく裂けているわけではない。
肩の傷よりも、足の腫れがひどい。
「包帯。水。布」
洸太は自分に言い聞かせるように呟く。
傷口を洗う。
出血を抑える。
痛みを少し鈍らせる。
淡い光が洸太の手から漏れた。
ソフィアのような柔らかな癒やしの光ではない。
もっと弱く、粗く、頼りない光。
それでも、若い荷運びの呼吸が少しだけ落ち着いた。
「ガルドさんは?」
洸太が聞く。
若い荷運びは、乾いた唇を震わせた。
「奥……奥に……」
「何があった?」
「荷が……違った……鉱石じゃ、ない……」
「違った?」
若い荷運びの目が恐怖に揺れる。
「動いたんだ」
その瞬間、坑道の奥で低い音がした。
石が擦れるような音。
重いものが、ゆっくりと動く音。
ルークが剣を抜いた。
「下がれ」
全員が身構える。
洸太は荷運びの肩を支えながら、光を奥へ向けた。
闇の中で、何かが立ち上がった。
石の塊。
人の形に似ているが、人ではない。
坑道の天井近くまである巨体。
胴には黒い鉱石のようなものが埋め込まれ、そこが鈍く光っている。
護衛の一人が呻いた。
「ゴーレム……?」
それは、ゆっくりとこちらへ向いた。
◇
戦いは、狭い坑道で始まった。
護衛が前に出る。
ルークも剣を構える。
商会の男たちは負傷者を後ろへ下げようとする。
「洸太、灯りを切らすな!」
「分かった!」
洸太は光を保つ。
手が熱い。
魔力が削られていく感覚がある。
だが消すわけにはいかない。
暗くなれば、誰がどこにいるか分からなくなる。
ゴーレムの腕が振り下ろされた。
護衛の一人が受けようとして吹き飛ばされる。
「受けるな! 横へ飛べ!」
ルークが叫び、足元へ潜り込む。
剣が石の膝を打つ。
一撃で壊れるようなものではない。
だが、ルークは怯まない。
腕を避け、足を狙い、関節らしき部分に斬撃を重ねる。
洸太はその動きを見ながら、負傷者を後ろへ引く手伝いをした。
前に出るな。
前に出るな。
何度も自分に言い聞かせる。
今の自分の役目は、灯りと救護。
戦うことではない。
ルークが一歩踏み込み、ゴーレムの膝に深く剣を入れた。
石の巨体が揺れる。
「今だ、下がれ!」
ルークが叫ぶ。
護衛たちが退路を作る。
商会の男たちが負傷者を運ぶ。
その時、坑道の横穴から、別の音がした。
小さい。
けれど速い。
洸太は振り向いた。
黒い石片のようなものが、壁を這っている。
いや、這っているのではない。
跳ねている。
核の欠片のようなもの。
それがルークの背後へ向かって飛んだ。
ルークは正面のゴーレムに集中している。
気づいていない。
「ルーク!」
洸太は叫んだ。
ルークが振り向く。
だが間に合わない。
考えるより先に、洸太の身体が動いた。
前に出るな。
何度も言われた。
分かっていた。
分かっているつもりだった。
だが、今ここでルークが倒れたら。
ミーナが泣く。
ソフィアが悲しむ。
そう思った瞬間、洸太はルークの背後に飛び込んでいた。
黒い石片が、洸太の左肩から上腕に食い込んだ。
「ぐっ……!」
熱い。
遅れて痛みが来る。
洸太の身体が傾いた。
ルークが目を見開く。
「洸太!」
洸太は膝をついた。
灯りが大きく揺れる。
血が腕を伝う。
指が痺れる。
剣どころか、立っていることすら難しい。
洸太は震える右手を、自分の傷口に押し当てた。
淡い光が漏れる。
弱い。
頼りない。
それでも、血の流れが少し鈍った。
痛みが薄紙一枚分だけ遠ざかる。
「……歩くくらいなら、なんとかなる」
洸太は息を吐いた。
その言葉を聞いた瞬間、ルークのこめかみが跳ねた。
「お前」
ルークの声が低くなる。
「あれだけ言っただろ」
「……悪い」
「なんで前に出た」
洸太は顔を上げる。
痛みで息が乱れていた。
それでも、当たり前のように言った。
「お前が居なくなると、ミーナとソフィアさんが悲しむだろ」
ルークの中で、何かが切れた。
違う。
そうじゃねえ。
お前が居なくなっても。
もう二人は悲しむんだよ。
ミーナも。
ソフィア姉も。
商会の連中も。
修道院の子供らも。
それに――。
ルークは奥歯を噛みしめた。
この大バカ野郎。
あれだけ言ってもまだ分かんねえのか。
お前は、まだ自分を数えてねえのか。
その瞬間、何かがルークの中へ流れ込んだ。
自分の内側から湧いたものではない。
だが、押しつけられた力でもない。
熱い。
痛い。
腹が立つほど、必死な力。
――洸太。
なぜそう分かったのか、ルーク自身にも分からなかった。
ただ、それが洸太の奥から来ていることだけは分かった。
同時に、知らない景色が脳裏を走った。
灰色の道。
雨の匂い。
鉄の匂い。
奇妙に高い建物。
誰かの悲鳴。
走る背中。
誰かを庇う身体。
倒れても、まず他人の無事を探す目。
助かったと知った瞬間に浮かぶ、ひどく安心した顔。
意味は分からない。
何を見ているのかも分からない。
だが、感情だけが流れ込む。
間に合わなかった後悔。
見捨てた後の自分でいる方が怖いという恐怖。
役に立たなければ居場所がないという、底の抜けたような怯え。
誰かを助ける時、自分だけを数から外す癖。
ルークは理解したわけではなかった。
けれど、分かってしまった。
こいつは、ずっとこうだった。
この世界に来る前から。
知らない場所でも。
知らない誰かのためでも。
自分だけを勘定から外して走ってきた。
「……バカヤロウ」
ルークは呟いた。
絶対に許さねえ。
こいつだけは、何としてでも生きて連れて帰る。
回復して、立てるようになって、言い訳できるくらい元気になったら、その身体をぶん殴らないと気が済まねえ。
俺は死なねえ。
死んでたまるか。
ミーナを守る。
ソフィア姉を守る。
これからも守り続ける。
ついでに。
この大バカ野郎もだ。
ルークの身体に力が満ちた。
剣が淡く光る。
炎でも雷でもない。
ただ、何かがルークの身体と剣を押し上げていた。
洸太の魂の奥から流れ込んだ力。
それに呼応して、ルーク自身の身体が動く。
痛みが消えたわけではない。
恐怖が消えたわけでもない。
それでも、踏み込める。
守って、帰るために。
「下がってろ、洸太」
ルークは剣を構えた。
「お前は後で殴る」
「……理不尽だな」
「黙ってろ」
ルークは地を蹴った。
ゴーレムの腕が振り下ろされる。
ルークは受けない。
横へ流れ、芯を外し、足元へ潜る。
一撃。
二撃。
三撃。
石の膝に亀裂が走る。
黒い核が鈍く脈打つ。
ルークは吠えた。
「俺は、生きて帰るんだよ!」
剣が、黒い核へ突き刺さった。
ゴーレムの巨体が大きく震える。
坑道全体が軋む。
「退け!」
ルークが叫ぶ。
護衛たちが負傷者を抱え、商会の男たちが走る。
洸太も立とうとした。
膝が笑う。
だが、右手で壁を掴み、左腕を押さえながら立つ。
歩ける。
歩ける程度にはした。
その事実に、ルークの怒りがさらに増した。
だから後で殴る。
絶対に殴る。
ルークはそう決めて、洸太の肩を支えた。
「勝手に歩くな」
「歩ける」
「それが腹立つんだよ」
ルークは洸太を半ば引きずるようにして、坑道の外へ向かった。
◇
町へ戻った時には、夜になっていた。
捜索隊は全員無事ではなかった。
怪我人はいた。
ガルドも見つかった。
足を折り、肩を負傷していたが、生きていた。
荷の中に紛れていた黒い鉱石が、坑道奥の古い魔道具か何かに反応したらしい。詳しいことはまだ分からない。
分からないことだらけだった。
だが、何人かは戻った。
死なずに済んだ。
商会は騒然としていた。
怪我人が運び込まれ、医者が呼ばれ、修道院にも知らせが走る。
ソフィアが駆けつけた時、洸太は商会の長椅子に座っていた。
左肩から上腕に包帯が巻かれている。
血は止まっている。
顔色は悪い。
それでも本人は、立ち上がろうとした。
「ソフィアさん」
「座っていてください」
その声に、洸太は動きを止めた。
ソフィアは近づき、包帯を見る。
乱れてはいない。
応急処置としては悪くない。
自分でやったのだと、すぐに分かった。
だからこそ、腹が立った。
歩ける程度にした。
帰るまで持たせた。
そういう処置だった。
「……無事に帰ってきてくださいと、言いました」
ソフィアの声は静かだった。
商会の者たちが、思わず口を閉じる。
「これは、無事とは言いません」
洸太は視線を落とした。
「すみません」
「謝罪を聞きたいのではありません」
「でも、あの時は」
洸太は言葉を探した。
「そうしないと、ルークが……」
ソフィアの中で、何かが音を立てた。
「ルークを助けたことを、責めているのではありません」
洸太が顔を上げる。
ソフィアは、まっすぐ洸太を見ていた。
「あなたが、また自分を置き去りにしたことを怒っているんです」
「でも」
「でも、ではありません」
「でも、俺が動かなかったら」
洸太の声が、少しだけ細くなった。
「役に、立たないと」
ソフィアは息を止めた。
「俺は」
洸太の目が揺れていた。
四十一歳の男の顔ではなかった。
叱られた子供が、居場所を失うのを怖がっているような顔だった。
「俺は、ここにいていい理由が……」
ソフィアは、その先を言わせなかった。
「洸太さん」
名前を呼んだ。
それだけで、洸太の言葉が止まった。
商会の中は静まり返っていた。
ルークは少し離れた場所で、その光景を見ていた。
殴るつもりだった。
今でも殴りたい。
だが、今ここで殴るのは違う。
ソフィアが見ているものを、ルークも少しだけ見た気がしていた。
役に立たなければ居場所がない。
その恐怖が、洸太の奥にある。
だからこいつは走る。
誰かを助けるためだけではない。
自分がここにいていい理由を、失わないために。
ルークは拳を握った。
やっぱり、バカヤロウだ。
ソフィアは洸太の傷に手を当てた。
柔らかな光が滲む。
洸太の荒い処置とは違う。
深く、静かに、痛みを包む光。
だがソフィアの胸の中は、少しも静かではなかった。
この人は、約束を破るつもりなどなかったのだ。
むしろ、守るつもりだった。
ルークを帰す。
ミーナを泣かせない。
ソフィアを悲しませない。
そのために、自分の無事だけを、約束の外へ置いた。
この人は駄目だ。
言葉だけでは、帰ってこない。
無事に帰ってきてくださいと願っても、その無事の中に自分を入れ忘れる。
誰かを帰すためなら、自分だけを置き去りにする。
ならば。
忘れられないようにしなければならない。
無理やりにでも。
逃げられないほど強く。
この人が、自分の命を置き去りにできない理由を、私が作る。
私の所へ、帰るようにしてみせる。
ソフィアは治療を終え、そっと手を離した。
「今日は修道院で休んでください」
「でも、商会の方が」
「洸太さん」
ソフィアの声が、わずかに低くなる。
「これはお願いではありません」
洸太は黙った。
それから、小さく頷いた。
「……はい」
ルークが横から言った。
「あと、治ったら殴るからな」
「え」
「俺は忘れてねえぞ」
「……理不尽じゃないか?」
「黙れ、大バカ野郎」
洸太は困ったように笑った。
その笑い方を見て、ソフィアの胸がまた痛んだ。
笑っている場合ではない。
けれど、この人は笑う。
自分の傷を、痛みを、恐怖を、いつも後回しにする。
だから。
ソフィアはもう一度、心の中で決めた。
言葉の約束では足りない。
この人を、帰らせなければならない。
私の処へ。
必ず。




