幕間 私の中心
私は、ずっと守ってきた。
ミーナを。
ルークを。
修道院の子供たちを。
両親を亡くしたあとに残された、小さな日々を。
それは、嫌だったわけではない。
苦しいだけだったわけでもない。
ミーナの笑顔は、私にとって何より大切だった。
ルークが不器用に剣を振るう姿も、子供たちが食卓で騒ぐ声も、朝の祈りも、薬草の匂いも、洗濯物が風に揺れる景色も。
全部、本当に大切だった。
だから私は、守ってきた。
姉として。
年長者として。
癒やし手として。
修道院に残された者として。
自分が泣くより先に、ミーナの涙を拭った。
自分が怖がるより先に、子供たちを安心させた。
自分が疲れたと言うより先に、明日の食事と薬草の数を考えた。
それが私の役目だった。
そう思っていた。
そうすることに、疑問はなかった。
けれど時々、ふと分からなくなることがあった。
私は、どこへ帰ればいいのだろう。
誰かの帰る場所を作ることはできた。
ミーナが泣いて帰ってくれば、抱きしめることができた。
子供たちが怪我をすれば、癒やすことができた。
ルークが無茶をすれば、叱ることができた。
誰かが迷えば、祈ることができた。
けれど。
私が弱くなった時。
私が迷った時。
私が、ただ一人の女として泣きたくなった時。
私は、どこへ帰ればよかったのだろう。
そんなことを考えてはいけないと思っていた。
私は姉なのだから。
私は年長者なのだから。
私は守る側なのだから。
私は、立っていなければならない。
そう思っていた。
たぶん、ずっと。
私は、自分が疲れていることにも気づかないふりをしていた。
守るものはあった。
守りたいものもあった。
けれど、その中心に、私自身はいなかったのかもしれない。
私は守る側で。
私は譲る側で。
私は祈る側で。
誰かのために場所を作ることはできても、私自身が帰る場所を、知らなかった。
そこに、あの人が現れた。
洸太さん。
不思議な人だった。
最初は、ただ変わった人だと思った。
この世界のことをよく知らず、当たり前のことにも驚く。
けれど、人が困っていれば手を伸ばす。
誰かが傷ついていれば、ためらわず動く。
それが自分にとって得かどうかなど、考えていないように見えた。
私は、最初、それを慈悲深さなのだと思った。
優しい人なのだと。
けれど、違和感があった。
誰かを助けたあと、洸太さんは嬉しそうに笑わない。
誇らしげにもならない。
感謝されても、どこか困ったような顔をする。
そして、助けられたことにだけ安堵する。
自分が傷ついたことを、数えない。
自分がどれほど危なかったのかを、考えない。
まるで、助けることができたなら、自分のことはそれでいいとでも言うように。
その顔を見るたびに、胸の奥がざわついた。
この人は、何を見ているのだろう。
この人は、どこに自分を置いているのだろう。
そう思った。
そして、ミーナが刺された日。
私は、何もできなかった。
走らなければならないと分かっていた。
行かなければならないと分かっていた。
ミーナを助けなければならないと、分かっていた。
それなのに、足が動かなかった。
怖かった。
ミーナがいなくなることが。
守ってきたはずのものを、目の前で失うことが。
私は姉なのに。
私が守らなければいけなかったのに。
何もできなかった。
その時、洸太さんは走った。
自分の傷も、恐怖も、迷いも、何も数えずに。
ミーナへ手を伸ばした。
ルークの叫びに応えた。
私の祈りに、応えようとしてくれた。
あの人は、ミーナが私の妹だから助けたわけではないのかもしれない。
ルークが大切な子だから助けたわけでもないのかもしれない。
修道院が守る価値のある場所だから、そうしたわけでもないのかもしれない。
ただ、そこに助けたい命があった。
ただ、手を伸ばせるかもしれないと思った。
だから伸ばした。
それだけだったのだと思う。
けれど私には、それが怖いくらい嬉しかった。
洸太さんは、私の世界を重いとは言わなかった。
ミーナを守りたいと願う私を。
ルークを気にかける私を。
修道院の子供たちを置いてはいけない私を。
祈ることしかできない夜を知っている私を。
面倒だとも、仕方がないとも、かわいそうだとも言わなかった。
ただ、そこに誰かがいるなら、手を伸ばした。
それがミーナなら、ミーナへ。
それがルークなら、ルークへ。
それが名も知らない子供なら、その子へ。
まるで、私が守ってきたものを、最初から自分のことのように扱うみたいに。
だから私は、思ってしまったのだ。
この人なら、きっと。
けれど、その前に気づいてしまった。
この人は、あまりにも無自覚に、あまりにも無欲な顔で、いつの間にかそこにいた。
けれど、本当は違う。
きっとこの人は、無欲というわけではない。
何も欲しがっていないのではない。
何も求めていないのでもない。
ただ、欲しがり方を知らない。
愛されたいと望む代わりに、誰かを助ける。
ここにいたいと願う代わりに、誰かの役に立とうとする。
生きていたいと言う代わりに、自分が居てもいい理由を探している。
ならば。
ならば、私は。
この人に、理由を渡したい。
この人の、理由になりたい。
助けたからいていいのではなく。
役に立つから帰ってきていいのでもなく。
誰かを救ったから、生きていていいのでもなく。
あなたがあなただから、ここにいてほしいのだと。
そう伝えたい。
私は、思ってしまった。
この人なら、きっと。
私の全てを、私のまま、見てくれるのではないか。
私だけを連れ去るのではなく。
私の守ってきたものを捨てろと言うのでもなく。
ミーナも。
ルークも。
修道院の子供たちも。
私の祈りも。
私の我慢も。
私の弱さも。
私が姉であろうとした時間も。
全部を見た上で、それでも私を見てくれるのではないか。
そんな期待を、抱いてしまった。
期待してはいけない。
そんなことは、分かっている。
あの人は、私のためにここへ来たわけではない。
私の全てを背負うために、私の前に現れたわけでもない。
私が勝手に、そう思ってしまっただけ。
それでも。
ミーナに手を伸ばしたあの背中を見た時。
ルークの叫びに応えたあの瞳を見た時。
助けられたことにだけ安堵して、自分の傷を数えなかったあの人を見た時。
私は、もう思ってしまったのだ。
この人なら、きっと、と。
だから、怖い。
洸太さんがいなくなることが怖い。
あの人が傷つくことだけが怖いのではない。
あの人が死ぬことだけが怖いのでもない。
あの人が、自分だけを外へ置いたまま、私の守ってきたものを守ろうとすることが怖い。
そんなことは、許せない。
私の大切なものを守ろうとするなら。
あなた自身も、その中に入ってください。
あなたが自分を数えないのなら、私が数えます。
あなたが自分を外へ置こうとするのなら、私が引き戻します。
あなたが、自分にはそんな価値がないと言うのなら。
私は何度でも言います。
あなたはもう、外の人ではないのです。
洸太さん。
あなたは、私の全てを背負うために来た人ではないのかもしれません。
けれど私は、もう思ってしまったのです。
この人なら、きっと。
だから。
そこに立った以上。
自覚があろうとなかろうと。
私は、もう許しません。
あなたはもう、私の中心に立ってしまったのですから。




