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第9話 私では駄目ですか

 修道院の一室には、薬草を煮出した匂いが残っていた。


 夜は深い。


 けれど、眠りの気配は薄かった。


 寝台の上に座らされた洸太は、左肩から上腕にかけて包帯を巻かれていた。鉱山で受けた傷は、致命傷ではない。骨も、砕けてはいない。だが、軽い怪我でもなかった。


 黒い石片は、肉を裂き、肩の奥に重い痛みを残していた。


 自分で回復魔法をかけた。


 血は止めた。

 痛みも、歩ける程度には抑えた。

 町へ戻るまでは、持たせた。


 それだけだった。


 それだけで、十分だと思っていた。


「動かないでください」


 ソフィアの声は、静かだった。


 静かすぎた。


「はい」


 洸太は素直に返事をした。


 ソフィアは返事を聞いても、表情を緩めなかった。包帯を解き、傷の様子を確かめる。指先は丁寧で、動きに迷いはない。


 修道院で人の怪我を診ることは珍しくない。

 子供たちは転ぶ。年寄りは腰を痛める。商会の者が荷で指を挟むこともある。旅人が熱を出して担ぎ込まれることもある。


 だから、ソフィアは怪我に慣れている。


 慣れているはずだった。


 それなのに、今、洸太の傷を見るたびに、胸の奥が冷たくなった。


「……自分で処置したのですね」


「はい。血が止まらなかったので」


「痛みは」


「今は、だいぶ」


「だいぶ、ですか」


 ソフィアの声が、わずかに低くなった。


 洸太は、しまった、と思った。


 また答えを間違えた気がした。


「いえ、その……大丈夫です」


「大丈夫ではありません」


「すみません」


「謝罪を聞きたいのではありません」


 つい先ほども、似たようなやり取りをした。


 町へ戻り、修道院へ運ばれ、ルークに怒鳴られ、ミーナに泣かれ、ソフィアに傷を見られた。


 その時もソフィアは言った。


 無事に帰ってきてくださいと言いました。

 これは、無事とは言いません。


 洸太は、謝ることしかできなかった。


 今もそうだった。


「……迷惑をかけて、すみません」


 ソフィアの手が止まった。


「迷惑?」


「はい。俺が怪我をしたせいで、ルークにも、ソフィアさんにも、ミーナにも心配をかけて。それに、帰りも足を引っ張りましたし」


「……」


「次は、もっと上手くやります。ああいう時に、ただ前に出るんじゃなくて、もっとちゃんと――」


「洸太さん」


 名前を呼ばれて、洸太は口を閉じた。


 ソフィアは包帯を手にしたまま、洸太を見ていた。


 怒っている。


 それは分かった。


 けれど、その怒りの奥にあるものが、洸太には分からなかった。


「なぜ、次の話になるのですか」


「え?」


「なぜ、怪我をしたあなたが、次はもっと上手くやると言うのですか」


「それは……今回、俺が勝手に動いたから」


「はい」


「ルークにも、前に出るなって言われていました。でも、あの時は――」


「ルークを助けたことを、責めているのではありません」


 ソフィアは、はっきりと言った。


 洸太は、言葉を失った。


 ソフィアは傷口に薬を当てた。沁みる痛みが走る。洸太の肩がわずかに跳ねた。


「痛みますか」


「大丈夫です」


「痛むのですね」


「……少し」


「少しではありません」


 ソフィアは、静かに息を吐いた。


「あなたは、どうしていつもそうなのですか」


「そう、とは」


「痛いなら、痛いと言ってください。苦しいなら、苦しいと言ってください。怖いなら、怖いと言ってください」


「……」


「なぜ、すぐに大丈夫だと言うのですか」


 洸太は答えられなかった。


 大丈夫だから、大丈夫と言う。


 大丈夫でなくても、大丈夫と言う。


 それは、そういうものだと思っていた。


 痛いと言っても、痛みが消えるわけではない。

 怖いと言っても、状況が良くなるわけではない。

 苦しいと言っても、誰かが代わってくれるわけではない。


 なら、大丈夫と言った方がいい。


 そうすれば、周りは動きやすい。

 そうすれば、迷惑が減る。

 そうすれば、役に立てる。


「……すみません」


「また、謝るのですね」


「他に、何を言えばいいのか分からなくて」


 洸太は困ったように笑った。


 いつもの笑みだった。


 人に心配をかけないための笑み。

 場を重くしないための笑み。

 自分の痛みを薄く見せるための笑み。


 その笑みを見た瞬間、ソフィアの胸の奥で、何かが強く軋んだ。


 この人は、笑っているのではない。


 逃げている。


 心配から。

 怒りから。

 自分が求められているという事実から。


 そしてたぶん、居場所を失う恐怖から。


「洸太さん」


「はい」


「役に立つかどうかで、あなたの居場所を決めないでください」


 洸太の笑みが、わずかに固まった。


「あなたは、ここにいていいのです」


「……」


「少なくとも、私の前では」


 洸太は何も言わなかった。


 言えなかった。


 ただ、視線だけが少し下がった。


「……ありがとうございます」


 ようやく出てきたのは、そんな言葉だった。


 礼。


 感謝。


 それは綺麗な言葉だった。


 けれど、ソフィアには分かった。


 届いていない。


 洸太は受け取っていない。


 優しい言葉をかけられたから、礼を言っているだけだ。

 自分に向けられた言葉だと、受け止めていない。


 あなたはここにいていい。


 その言葉を、洸太はまだ、自分のものにできない。


「違います」


 ソフィアは言った。


 自分でも驚くほど、強い声だった。


 洸太が顔を上げる。


「違う、とは」


「感謝してほしいのではありません」


「でも」


「受け取ってほしいのです」


「……」


「あなたに、ここにいてほしいと言っているのです」


 洸太の顔が、子供のように迷った。


 四十一歳の男の顔ではなかった。


 叱られた子供が、どうすれば許されるのか分からず、ただ立ち尽くしているような顔だった。


 ソフィアは、その顔を見て、胸が痛くなった。


 この人は、ずっとそうだったのかもしれない。


 誰かの役に立つことで、そこにいていい理由を作ってきた。

 誰かを助けることで、自分の存在を許してきた。

 助けられなかったものを背負い、間に合わなかった後悔を背負い、それでもまた走る。


 その走り方しか知らない。


 だから、自分を数えない。


 自分の命を、いつも少しだけ、外側へ置く。


「ソフィアさんは、優しいから」


 洸太が、ぽつりと言った。


 ソフィアは、目を細めた。


「優しいから、そんなふうに言ってくれているだけです」


「……」


「俺は、助けてもらってばかりで。ここに置いてもらって、食べさせてもらって、いろいろ教えてもらって。それなのに、俺は――」


「やめてください」


「でも、本当に」


「やめてください」


 ソフィアの声が震えた。


 洸太は黙った。


「どうして、そうやって逃げるのですか」


「逃げているつもりは」


「逃げています」


 ソフィアは包帯を置いた。


 治療はまだ途中だった。

 だが、もう傷だけを見ている場合ではなかった。


「優しいから、ではありません」


「……」


「修道女だから、でもありません」


「ソフィアさん」


「姉だから、でもありません」


 洸太の目が揺れた。


 ソフィアは、自分の胸の奥に手を入れるような思いで、言葉を探した。


 言ってしまえば、戻れない。


 分かっていた。


 口にすれば、これまで守ってきた形が崩れる。

 修道女としての自分。

 子供たちの姉としての自分。

 正しく、優しく、揺らがない者としての自分。


 そのどれでもないものが、言葉になって外へ出る。


 怖かった。


 けれど、それ以上に怖かった。


 この人がまた、自分を数えずに、どこかへ行ってしまうことが。


「私では」


 ソフィアは言った。


「駄目ですか」


 洸太は、意味が分からないという顔をした。


「え?」


「私では、あなたの帰る場所になれませんか」


 部屋の空気が止まった。


 洸太は息をすることすら忘れたように、ソフィアを見ていた。


「私では、あなたが生きて戻る理由には、なれませんか」


「ソフィア、さん」


「私の気持ちが、分かりませんか」


 分からなかった。


 分からない、というより、受け取れなかった。


 洸太の中で、言葉が形を結ばない。


 ソフィアが何を言っているのか。

 自分に何を求めているのか。

 なぜ、そんな顔をしているのか。


 全部、分からなかった。


「それは、その……心配してくれて」


「違います」


「俺が怪我をしたから、一時的に」


「違います」


「ソフィアさんは、優しい人だから」


「違います」


 一つずつ、ソフィアは否定した。


 逃げ道を塞ぐように。

 洸太がいつも使う言い訳を、丁寧に折っていくように。


「優しさではありません」


「……」


「心配だけでもありません」


 ソフィアは、洸太の右手に触れた。


 怪我をしていない方の手。


 けれど、その手もまた、傷だらけだった。

 剣の稽古でできた豆。

 荷を運んだ時の擦り傷。

 火傷の痕。

 この世界に来てから、少しずつ増えた傷。


 洸太がここで生きてきた証。


 ソフィアは、その手を両手で包んだ。


「私は、あなたに生きていてほしいのです」


「……」


「皆のためではありません」


「……」


「修道院のためでも、ルークのためでも、ミーナのためでもありません」


 ソフィアは、一度だけ目を伏せた。


 そして、逃げなかった。


「私のために、生きていてほしいのです」


 洸太の喉が動いた。


「俺は」


 声がかすれた。


「俺は、そんなふうに言われるような人間じゃ」


「それも、逃げです」


「でも」


「でも、ではありません」


「俺は、役に立てるなら」


「役に立たなくても」


 ソフィアは、洸太の手を強く握った。


「ここにいてください」


「……」


「何もできなくても。誰も助けられなくても。傷だらけでなくても。役に立たなくても」


 言葉が震えた。


 けれど、止まらなかった。


「ただ、ここにいてください」


 洸太の顔が歪んだ。


 それは、泣きそうな顔にも見えた。

 怒られた顔にも見えた。

 許されることに怯えている顔にも見えた。


「それは」


 洸太は言った。


「難しいです」


 ソフィアの指が、ぴくりと動いた。


「……なぜですか」


「分からないんです」


 洸太は、小さく笑った。


 ひどく頼りない笑みだった。


「役に立たなくてもいていいっていうのが、分からない」


 ソフィアは、息を呑んだ。


「誰かを助けられたなら、いていい気がするんです。何かできたなら、ここにいていい気がする。でも、何もできなかったら、俺は――」


「洸太さん」


「俺は、何でここにいるんですか」


 その問いは、あまりにも幼かった。


 そして、あまりにも深かった。


 異世界に来た男の問いではなかった。

 四十一年を生きた大人の問いでもなかった。


 もっと奥にある、古い傷の声だった。


 役に立たなければ、ここにいてはいけない。

 助けられなければ、価値がない。

 求められるには、何かを差し出さなければならない。


 そう信じてしまった者の声。


 ソフィアは、ようやく分かった。


 言葉では、届かない。


 この人は、きっと何度言っても逃げる。

 優しさだと受け流す。

 心配だと勘違いする。

 自分などに向けられるはずがないと、勝手に結論を出す。


 ならば。


 逃げられないようにしなければならない。


 忘れられないようにしなければならない。


 自分が求められたのだと。

 役に立ったからではなく。

 助けたからでもなく。

 ただ、洸太という一人の男として求められたのだと。


 言葉ではなく。


 もっと深く。


 もっと強く。


 刻み込まなければならない。


「洸太さん」


 ソフィアは立ち上がった。


 洸太が目で追う。


 ソフィアは部屋の扉へ向かい、内側からそっと鍵をかけた。


 小さな音がした。


 それだけの音なのに、洸太の身体が強張った。


「ソフィアさん?」


「動かないでください」


「いや、でも」


「怪我人でしょう」


「それは、そうですけど」


 ソフィアは戻ってきた。


 そして、洸太の前に立った。


 いつものソフィアではなかった。


 優しい修道女でもない。

 子供たちを導く姉でもない。

 負傷者を看る治療者でもない。


 顔は赤かった。


 手も少し震えていた。


 それでも、目だけは逃げなかった。


「私は、今から、あなたにひどいことを言います」


「ひどいこと?」


「はい」


 ソフィアは、洸太の頬に触れた。


「私は、あなたを失いたくありません」


「……」


「あなたが自分を数え忘れても、私が数えます」


「ソフィアさん」


「あなたが自分の命を軽く扱っても、私が許しません」


 指先が、頬をなぞる。


 洸太は動けなかった。


「勝手に傷つくことも」


 ソフィアが身を寄せた。


「勝手に死ぬことも」


 吐息が近い。


「勝手に、どこかへ行ってしまうことも」


 その距離で、ソフィアは言った。


「許しません」


 唇が触れた。


 それは、穏やかな口づけではなかった。


 祈るようなものでもなかった。


 叩きつけるようなものだった。


 洸太が息を呑む。


 離れた時、洸太は呆然としていた。


「ソフィア、さん」


「まだ、分かりませんか」


「……」


「私は、あなたを失いたくないのです」


 ソフィアは、それ以上の言葉を飲み込んだ。


 本当は、もっと奥にある。


 帰ってきてほしい。

 触れたい。

 見てほしい。

 失いたくない。

 自分の処へ縛っておきたい。


 その全てを、今この人に言ってしまえば、洸太はきっと困った顔をする。

 そして、自分にはそんな価値がないと、また逃げようとする。


 だから、言わない。


 今はまだ、言わない。


「修道女としてではありません」


「……」


「姉としてでもありません」


「……」


「私自身が、あなたを失いたくないのです」


 洸太の中で、何かが崩れた。


 逃げ道が、なくなっていく。


 優しさではない。

 心配だけでもない。

 役に立ったからでもない。


 失いたくない。


 そう言われた。


 自分が。


 洸太という男が。


「俺は」


 洸太は震える声で言った。


「そんな、たいした男じゃありません」


「知っています」


「四十一です」


「知っています」


「剣も弱いし」


「知っています」


「魔法も、灯りと治療くらいで、攻撃は煙しか」


「知っています」


「こっちの世界のことも、まだ全然」


「知っています」


「それに、俺は」


 洸太は言葉に詰まった。


 自分で自分を否定する言葉なら、いくらでも出てくるはずだった。


 なのに、ソフィアの目の前では、そのどれもが言い訳にしかならなかった。


 ソフィアは、そんなことは全部知っているという顔をしていた。


 知った上で、逃がす気がなかった。


「それでも、です」


 ソフィアは言った。


「それでも、あなたが失われるのは嫌なのです」


 洸太の目が揺れた。


「どうして」


「……分かりません」


 ソフィアは正直に答えた。


「分からないのです。いつからなのかは」


 少しだけ、困ったように笑う。


「けれど、あなたが怪我をして戻ってきた時、分かりました」


「……」


「あなたがいなくなるのは、嫌です」


 その言葉は、単純だった。


 だからこそ、逃げられなかった。


「あなたが誰かを助けるために走るのなら、止められないのかもしれません」


「……」


「けれど、あなたが自分を置き去りにするのは、許せません」


 ソフィアは、もう一度、洸太に近づいた。


「だから、忘れられないようにします」


「え」


「あなたが、自分の命をまた軽く扱おうとした時に」


 ソフィアの手が、洸太の胸元に触れた。


「思い出すように」


 それは、どこか静かな宣告だった。


「あなたを待つ者がいるのだと」


 洸太は、何も言えなかった。


 ソフィアの手は震えていた。


 怖いのだと、洸太にも分かった。


 それでも、彼女は逃げなかった。


 だから洸太も、逃げられなかった。


 夜が、更けていく。


 その先にあったものを、言葉で細かく語る必要はない。


 ただ、その夜、ソフィアは自分が守ってきた役割を一つ、脱いだ。


 姉ではなく。

 修道女ではなく。

 正しくあろうとする者でもなく。


 ひとりの女として、洸太を求めた。


 洸太は、戸惑い、怯え、何度も言葉を失った。


 けれど、そのたびにソフィアは逃がさなかった。


 役に立ったからではない。

 助けたからではない。

 恩があるからでもない。


 あなたを失いたくない。


 その意味だけを、何度も、何度も、洸太の奥に刻み込んだ。


 それは優しさだけではなかった。


 慈悲だけでもなかった。


 きっと、綺麗なものだけではなかった。


 けれど、その夜、洸太は初めて、誰かに自分の命を重く扱われた。


 自分よりも強く。

 自分よりも激しく。

 自分よりも許さない形で。


 そしてソフィアは初めて、自分の中にいた女を、消さずに抱きしめた。



 どれくらい眠っていたのか、洸太には分からなかった。


 目を開けた時、窓の外はまだ暗かった。


 夜明け前の、青い闇。


 身体が重い。


 肩の傷が痛む。


 それ以上に、頭の中が混乱していた。


 何があったのか。

 何をしてしまったのか。

 何を受け取ってしまったのか。


 記憶が戻るにつれて、洸太の顔から血の気が引いていった。


 隣に、ソフィアがいた。


 近い。


 あまりにも近い。


 洸太は息を詰めた。


「……起きたのですか」


 ソフィアが、目を開けた。


 寝起きの声だった。

 少しかすれていて、いつもの凛とした響きがない。


 それが、洸太の混乱に追い打ちをかけた。


「ソ、ソフィアさん」


「はい」


「俺、その」


「はい」


「昨日、俺は」


「はい」


「すみま――」


 最後まで言えなかった。


 ソフィアが、洸太の口を塞いだからだ。


 口づけで。


 洸太は固まった。


 ソフィアはゆっくりと離れる。


 顔は赤い。


 けれど、目は逸らさない。


「謝らないでください」


「でも」


 もう一度、塞がれた。


 今度は少しだけ長かった。


 離れた時、洸太は完全に言葉を失っていた。


「私が望んだことです」


「……」


「あなたが謝ることではありません」


「でも、俺は、ソフィアさんに」


「洸太さん」


 ソフィアは、洸太の頬に触れた。


「私を、なかったことにしないでください」


 その言葉は、洸太の胸に刺さった。


 謝罪。


 後悔。


 責任。


 洸太が口にしようとしていたものは、どれもソフィアを守るためのものだった。


 少なくとも、洸太はそう思っていた。


 だが、それは同時に、ソフィアが望んだことを否定することでもあった。


 ソフィアが自分で選んだことを、なかったことにする言葉でもあった。


「……すみま」


 言いかけて、洸太は止まった。


 ソフィアがじっと見ていた。


「……すみません、じゃないですね」


「はい」


「でも、何て言えばいいのか、分からないです」


「では、黙って聞いてください」


「はい」


 ソフィアは、少しだけ息を整えた。


 頬は赤いままだった。


 それでも、言葉は真っ直ぐだった。


「責任、取ってくださいね」


 洸太は、目を瞬かせた。


「……責任」


「はい」


「それは、その」


「逃げないでください」


「逃げてません」


「逃げようとしました」


「……はい」


 ソフィアは、わずかに笑った。


 その笑みは、昨日までのソフィアとは少し違っていた。


 柔らかい。


 けれど、強い。


 そして少しだけ、意地悪だった。


「俺は、どうすれば」


 洸太が尋ねる。


 ソフィアは、その問いにすぐには答えなかった。


 もっと多くの言葉が胸の奥にあった。


 私を、こんな女にした責任。

 あなたを待ちたいと思わせた責任。

 あなたを失いたくないと怖がらせた責任。

 あなたを私の処へ縛っておきたいと願わせた責任。


 けれど、それは言わない。


 今の洸太に言えば、重すぎる。

 この人はまた、自分には背負えないと言う。

 自分などが求められていいはずがないと、困ったように笑ってしまう。


 だから、口にする言葉は一つだけでいい。


「帰ってきてください」


 洸太は、息を止めた。


「私の処へ」


「……それが、責任ですか」


「はい」


 ソフィアは微笑んだ。


 できるだけ穏やかに。

 できるだけ優しく。


 けれど、その奥にある決意は、少しも揺らがなかった。


「あなたが自分を数え忘れても」


 ソフィアは、洸太の手を取った。


「私が、あなたを数えます」


「……」


「あなたが自分の命を軽く扱っても」


「……」


「私が、許しません」


 洸太の目が揺れた。


 ソフィアは、もう逃げなかった。


「勝手に傷つくことも」


「……」


「勝手に死ぬことも」


「……」


「勝手にどこかへ行ってしまうことも」


 ソフィアは、静かに言った。


「許しません」


 そこまで言って、ソフィアは言葉を止めた。


 ――あなたは、もう私のものなのです。


 その言葉だけは、口にしなかった。


 言えば、この人はきっと困った顔をする。

 また、自分にはそんな資格がないと言う。

 私のために、などと言われる価値はないと、逃げようとする。


 だから言わない。


 今はまだ、言わない。


 けれど、決めた。


 この人が自分を数え忘れても、私が数える。

 この人が自分の命を軽く扱っても、私が許さない。

 この人が、自分を置き去りにしようとするなら。


 私が、置き去りにできないものになる。


 卑しいと思った。


 浅ましいとも思った。


 こんなにも誰かを欲しがる自分がいることを、ソフィアは知らなかった。


 姉であること。

 修道女であること。

 子供たちを導く者であること。

 正しくあること。

 欲しがらないこと。

 乱れないこと。


 そのどれもを失ったわけではない。


 けれど、その奥にいた女が、ようやく息をした。


 ひとりの男に戻ってきてほしいと願う女。

 その人に触れたいと望む女。

 その人を失うことを恐れる女。

 その人を、自分の処へ縛っておきたいと願う女。


 そんな、ただの女。


 浅ましい。


 重い。


 きっと、面倒な女だ。


 けれど、不思議と嫌ではなかった。


 胸の奥が、静かにほどけていくようだった。


 ずっと固く閉じていた扉が、ようやく少しだけ開いたような気がした。


 この人が開けたのだ。


 頼りなくて。

 くたびれていて。

 剣も弱くて。

 魔法も不器用で。

 自分の命を軽く扱う、どうしようもない人。


 けれど、ミーナを助けた。

 ルークを守った。

 修道院の家族を守った。

 ソフィアの未来を、何度も守った。


 その人が、ソフィアの中に閉じ込めていた女を、外へ連れ出してしまった。


 ならば今度は、ソフィアの番だった。


 囚われているのは、自分だけではない。


 洸太もまた、見えない塔に囚われている。


 役に立たなければ居場所がない。

 誰かを助けられなければ、ここにいてはいけない。

 自分を数に入れてはいけない。


 そんな呪いの塔に。


 だから、助けに行く。


 言葉で届かないのなら、何度でも刻み込む。


 あなたの命は、もうあなた一人のものではないのだと。

 あなたが自分を数え忘れても、私が数えるのだと。

 あなたが自分を軽くするのなら、私がその命を重くするのだと。


「ソフィアさん」


 洸太の声がした。


 ソフィアは、はっとして目を上げた。


 洸太は、困ったような、泣きそうな、けれどどこか諦めたような顔をしていた。


「俺は、まだよく分かってないと思います」


「はい」


「たぶん、また間違えます」


「はい」


「また、怒られるようなことをするかもしれません」


「はい」


「でも」


 洸太は、ゆっくりと息を吐いた。


「帰るようにします」


 ソフィアの指が、震えた。


「……どこへ、ですか」


 問う声は、穏やかだった。


 けれど、逃がす気はなかった。


 洸太は、その目を見て、視線を逸らしそうになった。


 だが、逸らさなかった。


「ソフィアさんの処へ」


 ソフィアは、静かに目を閉じた。


 それだけでよかった。


 今は、それだけでいい。


 きっと、この人はまだ半分も分かっていない。


 自分がどれほど求められているのか。

 その命を、どれほど重く扱われているのか。

 自分が戻らなければ、どれほど泣く女がいるのか。


 分かっていない。


 ならば、これから何度でも刻み込めばいい。


 ソフィアは、洸太に身を寄せた。


 肩の傷に触れないように、そっと。


「はい」


 そして、もう一度だけ口づけた。


 短く。

 けれど、逃がさないように。


「責任、取ってくださいね」


 洸太は、答えなかった。


 答えられなかった。


 けれど、拒まなかった。


 ソフィアはそれでよかった。


 この人が、自分を置き去りにしようとするたびに。


 私は、何度でも刻み込む。


 あなたの命は、もうあなた一人のものではないのだと。


 それは祈りではなかった。


 慈悲でもなかった。


 たぶん、呪いに近いものだった。


 けれどソフィアは、その呪いを、少しも手放したくなかった。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


この第9話は、話数としても内容としても、物語の折り返し地点になる回でした。

ここから先も、彼らが少しずつ変わっていく姿を見守っていただけましたら幸いです。

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