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第10話 帰る場所の朝

 最近、俺にはひとつ悩みがある。


 あれから、ソフィアさんは、ほとんど毎晩のように俺を求めてくるようになった。


 それは嬉しい。

 嬉しくないはずがない。


 こちらの世界に来てから、俺は何度か自分の年齢を忘れそうになった。魔物がいて、魔法があって、十五や十六の子供が剣を握って命を張る世界だ。年齢の基準も、命の重さも、元いた世界とは少しずつ違う。


 けれど、身体は正直だった。


 俺は若返ったわけではない。

 異世界に来たからといって、急に二十歳の体力が戻ってくるわけでもない。


 だから、正直に言えば、少し厳しい。


 いや、かなり厳しい。


 だが、それを口に出すと、きっとソフィアさんは悲しそうな顔をする。

 あるいは、真面目な顔でこう言うだろう。


 では、今夜は我慢します、と。


 それはそれで困る。


 俺は何に困っているのだろう。

 我ながら、たいへん贅沢な悩みである。


 そんなことを考えているうちに、意識が沈んでいった。


 眠りは深かった。

 けれど、その底で、何かが軋む音がした。


 暗い場所だった。


 上下も、左右も分からない。

 水の底にいるようで、土の中に埋められているようでもあった。


 声が聞こえる。


 ひとつではない。

 いくつもの声が、遠くから、歪んで届いてくる。


 ――器。


 ――空のまま。


 ――願い。


 ――善きものも。


 ――悪しきものも。


 誰かが、何かを話している。


 俺に向けているのか。

 俺ではない誰かに向けているのか。

 それすら分からない。


 胸の奥に、扉のようなものがあった。


 いや、箱か。

 蔵か。

 何かを納め、何かを閉じ込める場所。


 その戸口が、ほんのわずかに開く。


 光が漏れた。


 温かいのか、冷たいのかも分からない光だった。


 それを見た瞬間、なぜか思った。


 助けなければならない。


 誰を。

 何から。

 どうやって。


 何も分からない。


 それでも、助けなければならないと、思った。


 ――この者ならば。


 声がした。


 ――呪い。


 別の声がした。


 ――枷。


 また別の声がした。


 ――すまない。


 その言葉だけが、妙に近かった。


 ――今度こそ。


 胸の奥の蔵が、また軋んだ。


 何かが、俺の内側から溢れようとしていた。


 俺は手を伸ばした。


 何に向かって伸ばしたのかは分からない。


 ただ、伸ばさなければならないと思った。


 そして――。


「……ん」


 目が覚めた。


 薄い朝の光が、部屋の中に差し込んでいた。


 しばらく天井を見ていた。


 何か、夢を見ていた気がする。

 ひどく大事なものだった気がする。


 器。

 願い。

 呪い。

 枷。


「……なんだ、今の」


 俺は呟いた。


 その瞬間、隣で誰かが身じろぎした。


 視線を向ける。


 ソフィアさんがいた。


 裸だった。


 白い肩が、朝の光を受けていた。

 長い髪が寝台に広がり、胸元の布は、昨夜のどこかで俺が外したままになっていた。


 ソフィアさんは、まだ眠っている。


 薄く開いた唇から、静かな寝息が漏れていた。


 器も。

 願いも。

 呪いも。

 枷も。


 全部吹き飛んだ。


「……」


 俺は、そっと布を引き上げた。


 ソフィアさんの肩に掛ける。


 それから、自分の額を押さえた。


 朝から心臓に悪い。


 いや、悪いのは朝ではない。

 たぶん、俺たちである。


「……洸太さん」


 眠たげな声がした。


 ソフィアさんが、薄く目を開けていた。


「起こしましたか」


「いえ」


 ソフィアさんは小さく笑った。


「おはようございます」


「おはようございます」


 そう返しただけで、胸の奥が少し温かくなった。


 おはよう、と言える相手が隣にいる。


 それは、ずいぶん久しぶりの感覚だった。


 元の世界にいた頃も、一人暮らしが長かった。

 誰かを助けることはあっても、誰かと朝を迎えることなど、もう自分には縁のないものだと思っていた。


 ソフィアさんは、布の中から手を伸ばし、俺の指に触れた。


「……昨夜は、嫌ではありませんでしたか」


「嫌なわけないでしょう」


 思ったより早く答えが出た。


 ソフィアさんが、少し驚いたように瞬きをした。


 俺も少し驚いた。


 こういうことだけは、ずいぶん素直に言えるらしい。


「ただ」


「ただ?」


「俺の歳を、少しだけ考えてくれると助かります」


 ソフィアさんは、一瞬きょとんとした。


 それから、口元を押さえて笑った。


 静かな笑いだった。

 けれど、とても幸せそうだった。


「考えます」


「本当ですか」


「はい。少しだけ」


「そこは、ちゃんと考えてください」


「考えます。少しずつ」


 駄目だ。


 この人は譲る気がない。


 俺は諦めて、寝台から起き上がった。


 身体が重い。

 肩の傷はだいぶ良くなっている。ソフィアさんの回復魔法と、自分の魔法を合わせれば、日常生活に支障はない。


 ただ、別の意味で疲れている。


 俺が服を取ろうとした時、ソフィアさんが後ろからそっと背中に額を寄せた。


「洸太さん」


「はい」


「今日も、帰ってきてくださいね」


 何度も聞いた言葉だった。


 けれど、朝に聞くそれは、少し違って聞こえた。


 危ない場所へ行くな、という意味だけではない。

 死ぬな、という意味だけでもない。


 朝出て、夜戻る。


 それを当然のものにしようとしている言葉だった。


「……はい」


 俺は頷いた。


「帰ります」


 ソフィアさんは、それだけで満足したように笑った。



 朝食の席は、奇妙な空気に包まれていた。


 ミーナはパンを手にしたまま、じっとソフィアさんを見ていた。


 ルークはその隣で、なぜか背筋を伸ばしている。


 ソフィアさんはいつもどおりに見えた。

 いや、いつもどおりではない。


 姿勢は変わらない。

 所作も丁寧だ。

 祈りの言葉も、子供たちへの声かけも、昨日までと同じだった。


 けれど、何かが違う。


 表情が柔らかい。

 目元が満ちている。

 言葉の端に、少しだけ甘さが混じっている。


 そして、やたらと俺を見る。


「洸太さん、こちらも食べますか」


「あ、はい」


「無理はしないでくださいね」


「はい」


「顔色が少し悪いです」


「大丈夫です」


「大丈夫ではありません」


「……はい」


 ルークが俺を見た。


 目が言っていた。


 洸太、何があった。


 俺は目を逸らした。


 言えるわけがない。


 ミーナは、ソフィアさんを見ていた。


「お姉ちゃん」


「何ですか、ミーナ」


「……なんか、きれい」


 ソフィアさんの手が止まった。


 俺も止まった。


 ルークも止まった。


 食卓の空気が、一瞬固まった。


「いつもきれいだけど、なんか、今日は違う」


 ミーナは不思議そうに首をかしげた。


「お姉ちゃんが、女の人みたい」


「ミーナ」


 ソフィアさんの声が、少しだけ強くなった。


 ミーナは、はっとして口を押さえた。


「あ、ごめん。変な意味じゃなくて」


「分かっています」


 ソフィアさんは微笑んだ。


 けれど耳が赤かった。


 俺は水を飲んだ。


 飲むしかなかった。


 ルークはパンを噛んでいた。

 噛む速度が明らかに落ちている。


 ミーナはしばらくソフィアさんを見ていたが、やがて視線をルークへ移した。


 その視線を受けたルークが、びくりとした。


「な、なんだよ」


「別に」


「別にって顔じゃねえだろ」


「別にだもん」


 ミーナはそう言って、パンをかじった。


 だが、視線は時々ルークへ向かう。


 ルークは魔物に囲まれた時よりも険しい顔をしていた。


 まだ何も起きていない。


 何も起きていないのに、何かが始まりそうな気配だけはある。


 俺にはそれが分かった。


 なぜなら、俺もつい最近、その戦場に立たされたばかりだからだ。


 ルークが小声で言った。


「洸太」


「なんだ」


「俺、何かしたか」


「まだ何もしてない」


「まだ?」


「たぶん、これからだ」


「何がだよ」


 俺は答えなかった。


 答えられるほど、俺も分かっていない。


 ただひとつ分かることがある。


 今日の俺は実戦後の疲れで、ルークは開戦前の疲れだ。


 どちらがましかは、分からない。


 ミーナは、まだ自分の中に生まれたものをうまく言葉にできていないようだった。


 ソフィアさんが変わった。


 姉で、守り手で、いつも自分の前に立ってくれた人が、誰かを求める女になった。


 それを見たミーナの中で、何かが動き始めている。


 ソフィアさんは、それに気づいているのか、気づいていないのか、穏やかに茶を飲んでいた。


 ただ、時々こちらを見る。


 そのたびに、俺は少しだけ背筋を伸ばす。


 朝食が終わる頃、ソフィアさんはいつものように俺を見送った。


「行ってらっしゃいませ」


「行ってきます」


「帰ってきてくださいね」


「はい」


 俺は少しだけ迷って、それでも言った。


「帰ってきます。ソフィアさんの処へ」


 ソフィアさんは、ふわりと笑った。


 その笑顔を見て、俺は思った。


 たぶん、これは呪いだ。


 俺を縛るもの。

 俺が勝手に死ぬことを許さないもの。


 けれど、その呪いは不思議なほど温かかった。


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