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第11話 小さな傷と姉妹喧嘩

 商会の朝は早い。


 荷が動き、人が動き、金が動く。


 俺がこの町で暮らし始めてから、商会はずいぶん馴染みのある場所になった。


 グレイスさんは相変わらず忙しそうだった。

 帳簿を見ながら指示を出し、荷馬車の到着を確認し、客には笑顔を向ける。


 その隙間で、俺に仕事を振る。


「洸太さん、あちらの薬草の束を仕分けてもらえるかしら」


「はい」


「種類は分かる?」


「たぶん」


「たぶんで商売されたら困るわね」


「確認しながらやります」


「ええ、そうして」


 その日はソフィアさんも一緒だった。


 修道院で使う布や薬草の受け取りがあり、ついでに商会の手伝いをしていた。


 ソフィアさんは薬草の扱いに詳しい。

 俺が見分けに迷う葉も、彼女は香りと形で即座に分ける。


 その手つきは慣れていて、見ていて気持ちがいい。


 だから、俺は油断していた。


「っ」


 小さな声がした。


 振り向くと、ソフィアさんが指先を押さえていた。


 薬草の束を縛っていた細い刃で、指を切ったらしい。


 血が、ほんの少し滲んでいる。


「ソフィアさん」


「大丈夫です。少し切っただけですから」


 傷は本当に小さかった。


 深くない。

 血もすぐに止まる。


 ソフィアさんなら、自分の回復魔法で一瞬だ。


 だから俺は、当然のように言った。


「良かった。このくらいなら、ソフィアさんの回復魔法ですぐ――」


 途中で、言葉が止まった。


 ソフィアさんが、こちらを見ていた。


 頬を少し膨らませていた。


 怒っている、というほどではない。

 けれど、明らかに不満そうだった。


「……」


「……」


 俺は考えた。


 今の判断は間違っていないはずだ。


 ソフィアさんは回復魔法が上手い。

 この程度の傷なら、本人が治した方が早いし確実だ。

 俺の魔法よりもきれいに治せるだろう。


 効率で言えば、正しい。


 だが、どうやら恋人としては不正解らしい。


 最近、こういうことが増えた。


 俺は間違ったことを言ったつもりがない。

 なのに、ソフィアさんの顔を見ると、何かを間違えたことだけは分かる。


 難しい。


 魔物の方がまだ分かりやすい。


 俺は、少しだけ迷ってから手を差し出した。


「……手、出してください」


 ソフィアさんの表情が、ぱっと明るくなった。


 あまりにも分かりやすかった。


 俺は苦笑しそうになるのを堪えた。


 ソフィアさんが指を差し出す。


 細い指だった。


 血が一筋、指先に浮いている。


 俺はその手を取った。


 回復魔法を流す。


 小さな光が指先を包み、傷口が閉じていく。


 ほんの数秒のことだった。


「はい。これで大丈夫です」


「ありがとうございます」


 ソフィアさんは、本当に嬉しそうに笑った。


 傷が治ったことより、俺が治したことを喜んでいる顔だった。


「こんなことでも、あなたがしてくださったことなら、私はとても嬉しいのです」


 その言葉に、俺は返事に詰まった。


 こんなこと。


 本当に、こんなことだ。


 命を救ったわけでもない。

 魔物から守ったわけでもない。

 大怪我を治したわけでもない。


 小さな指の傷を、少し魔法で塞いだだけだ。


 それでも、ソフィアさんは嬉しいと言う。


 俺がしたことなら、と。


「……そういうものですか」


「そういうものです」


「俺には、まだよく分かりません」


「分からなくてもいいです」


 ソフィアさんは、俺の手を軽く握った。


「覚えてください」


「はい」


「大きなことだけでなくていいんです。命を賭けるようなことばかりでなくていいんです。あなたが小さなことをしてくれるだけで、私は嬉しいんです」


 俺は、何も言えなかった。


 言葉の意味は分かる。

 けれど、それを自分の中に落とし込むには、まだ時間がかかりそうだった。


 俺はずっと、必要かどうかで動いてきた。


 誰かが危ない。

 なら助ける。


 誰かが困っている。

 なら動く。


 役に立てるなら、そこにいる意味がある。


 そう思ってきた。


 けれどソフィアさんは、必要だからではなく、俺がするから嬉しいのだと言う。


 それは、俺にはまだ少し怖い考え方だった。


 少し離れたところで、グレイスさんがこちらを見ていた。


 目が合うと、彼女はにこりと笑った。


「いいものを見せてもらったわ」


「見世物ではありません」


 ソフィアさんが少しだけむっとする。


 グレイスさんは肩をすくめた。


「ごめんなさい。でも、商人としては興味深かったのよ」


「何がですか」


「効率で言えば、洸太さんの最初の判断は正しいわ。誰がやっても同じなら、上手い者がやればいい。商品でも仕事でも、それが一番損がない」


 グレイスさんは、俺とソフィアさんを交互に見た。


「でも、人の心はそうはいかないのね」


 俺は黙った。


 ソフィアさんも黙っている。


「同じ傷を治すだけでも、誰が手を伸ばしたかで意味が変わる。なるほど。これは、帳簿には載せにくい価値だわ」


「グレイスさん」


「分かっているわ。からかっているわけではないの」


 グレイスさんは、ほんの少し真面目な顔になった。


「洸太さん。あなたはたぶん、大きなことをしようとしすぎるのね」


「そうでしょうか」


「そうよ。命を張るとか、誰かを救うとか、そういう時だけ自分の価値を数えている。でも、彼女は違うことを教えようとしている」


 グレイスさんの視線が、ソフィアさんへ向く。


「小さなことでも喜ばれる経験。必要だからではなく、あなたがしてくれたから嬉しいという経験。そういうものを、少しずつ覚えさせようとしている」


 ソフィアさんは、否定しなかった。


 ただ、俺の手を握る指に、少しだけ力を込めた。


 グレイスさんは笑った。


「なるほど。これは逃げられないわね」


「何からですか」


「さあ。あなたが一番逃げたがっているものから、かしら」


 俺には分からなかった。


 ただ、ソフィアさんは静かに頷いた。



 その日の夕方、修道院に戻ると、別の戦場が待っていた。


 原因は、焼き菓子だった。


 それも、たいへんくだらない焼き菓子だった。


 ミーナが昼間から楽しみに取っておいた、干し果物入りの焼き菓子。


 それをソフィアさんが、俺に出した。


 俺は知らなかった。


 知らなかったので、普通に食べた。


 疲れていたし、甘いものはありがたかった。


 つまり、俺は無自覚に戦端を開いたことになる。


「それ、私が後で食べようと思ってたのに!」


 ミーナの声が食堂に響いた。


 俺は口の中の焼き菓子を飲み込んだ。


 もう遅い。


 証拠は俺の胃の中だ。


「ミーナ、洸太さんが疲れていたので」


 ソフィアさんは落ち着いて言った。


「疲れてたら、私の焼き菓子を食べていいの?」


「修道院のものです」


「私が後で食べようと思ってたものです!」


「名前は書いてありませんでした」


「お姉ちゃん最近、洸太のことになると私の扱い雑!」


「雑にしていません」


「してる!」


「していません」


「してる!」


「していません」


 低い。


 実に低い争いだった。


 俺は助けを求めてルークを見た。


 ルークも俺を見ていた。


 目が合った。


 お互い、分かった。


 これは駄目だ。


「ルーク」


「なんだよ、洸太」


「こういう時、どうするのが正解だ」


「俺に分かるわけねえだろ」


「だよな」


 その時、ソフィアさんとミーナが同時にこちらを見た。


「洸太さん」


「ルーク」


 声が重なった。


 嫌な予感がした。


 二人は同時に言った。


「どっちの味方をするの!」


 詰んだ。


 俺はソフィアさんの味方をするべきだ。

 たぶん、恋人としてはそうだ。


 ルークはミーナの味方をするべきだ。

 それも、たぶんそうだ。


 だが、男としては分かる。


 ここで不用意に片方につくと、もう片方が死ぬ。


 いや、違う。


 両方死ぬ。


 俺とルークが。


 ルークが、ほんのわずかに顎を動かした。


 俺は頷いた。


 言葉はない。


 だが、通じた。


「……ルーク、商会に急ぎの用があったな」


「ある。今できた」


「行くか」


「行く」


 俺たちは立ち上がった。


「待ちなさい」


「逃げるの?」


 背中に声が刺さる。


 俺たちは振り返らなかった。


 逃げた。


 見事な逃亡だった。


 修道院の外へ出て、少し歩いてから、俺とルークは同時に息を吐いた。


「洸太」


「なんだ」


「魔物より怖え」


「分かる」


「でも、なんか楽しそうだったな」


「……そうだな」


 俺も、それは思った。


 怒っているようで、二人ともどこか楽しそうだった。


 少なくとも、絶望や悲しみから来る喧嘩ではない。


 普通の、くだらない、どうでもいい喧嘩だった。


 たぶん、それが大事なのだろう。



 俺たちがしばらくして戻ると、食堂から笑い声が聞こえてきた。


 さっきまで喧嘩していたはずの二人が、並んで座っていた。


 ミーナが笑っている。

 ソフィアさんも笑っている。


 俺とルークは、入口で立ち止まった。


「……何があった」


「分からねえ」


 中では、ミーナが目元を拭っていた。


「ごめんね、お姉ちゃん」


「私も、ごめんなさい。勝手に出してしまいました」


「ううん。いいの。もういいの」


 ミーナは、まだ少し笑っていた。


「私、ずっと、こういう姉妹喧嘩に憧れてたんだ」


 ソフィアさんが、驚いたようにミーナを見た。


「姉妹喧嘩に、ですか」


「うん」


 ミーナは頷いた。


「お姉ちゃんは、いつも譲ってくれた。いつも私を優先してくれた。私が泣いたら、すぐに慰めてくれた。私が欲しいって言ったら、だいたいくれた」


「それは、私は姉ですから」


「うん。嬉しかったよ。すごく嬉しかった」


 ミーナは少しだけ俯いた。


「でも、少し寂しかった」


 ソフィアさんの表情が変わった。


 ミーナは続ける。


「私も、お姉ちゃんと、くだらないことで喧嘩したかった。どっちが悪いとか、どっちが多いとか、そういう普通の姉妹みたいなことがしたかった」


「ミーナ……」


「だって、お姉ちゃん、ずっとお姉ちゃんだったから。強くて、優しくて、我慢して、私の前に立ってくれる人だったから」


 ミーナは顔を上げた。


「でも最近のお姉ちゃん、ちょっと変」


「変、ですか」


「うん。洸太のことになると浮かれるし、膨れるし、欲張りになるし、ちょっとだけ子供っぽい」


「ミーナ」


「でも、それが嬉しいの」


 ミーナは笑った。


「お姉ちゃんが、私のところまで降りてきてくれたみたいで」


 ソフィアさんは、何も言えなかった。


 守っていた。


 ずっと守っていた。


 それは間違いなく愛だった。


 けれど、守り続けることで、いつの間にかミーナとの間に距離を作っていたのかもしれない。


 姉と妹。


 守る者と、守られる者。


 その関係の中で、ミーナは嬉しさと同じくらい、寂しさも抱えていたのだろう。


 ソフィアさんは、ゆっくりと息を吐いた。


「……では、これからは時々喧嘩しましょう」


「時々でいいの?」


「頻繁には困ります」


「じゃあ、時々」


「はい」


 二人は顔を見合わせて、笑った。


 俺とルークは、その様子を入口から見ていた。


 ルークが小さく呟いた。


「女って分かんねえ……」


「まったくだ」


 俺は同意した。


 ただ、分からないなりに、悪くないものを見ていることだけは分かった。


 ソフィアさんが変わった。


 その変化は、俺だけではなく、ミーナにも届いている。


 そしてルークは、その届いた先で、また別の戦場に立たされるのだろう。


 俺は隣の、恐らくは俺と同じ道を辿る事になるであろう男を見た。


 ルークはまだ何も知らない顔をしていた。


 少しだけ、気の毒になった。


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