第12話 「ソフィア」
ミーナは、太陽のような子だと思う。
明るくて、真っ直ぐで、誰かを照らす。
けれど、太陽はただ優しいだけではない。
逃げ場をなくすほど明るい時がある。
その日、ルークはまさに太陽に照らされていた。
修道院の庭で、ルークは木剣の手入れをしていた。
俺は少し離れた場所で、荷運びに使った紐をまとめていた。
ソフィアさんは洗濯物を取り込み、ミーナはその手伝いをしている。
穏やかな昼下がりだった。
少なくとも、始まりはそうだった。
「ねえ、ルーク」
ミーナが言った。
「なんだよ」
「私たちはどうする?」
ルークの手が止まった。
俺の手も止まった。
ソフィアさんの手も、ほんの少し止まった。
ルークは顔を上げた。
「何がだよ」
「分かんない?」
「……」
分かってしまった顔だった。
ルークは魔物なら斬れる。
巨大な相手にも向かっていける。
ミーナのためなら、自分の身体などいくらでも前に出す。
だが、この問いは斬れない。
木剣も、気合も、何の役にも立たない。
「いや、その……」
「お姉ちゃんと洸太、変わったよね」
「それは、まあ」
「私たちは?」
「……急に言うことか、それ」
「急じゃないよ」
ミーナは静かに言った。
「ずっと思ってた。でも、言わなかっただけ」
ルークは黙った。
ミーナは逃がす気がない。
責めているわけではない。
怒っているわけでもない。
ただ、自分たちの前にあるものから目を逸らすなと言っている。
「ルーク」
「……なんだよ」
「私は、ルークが大事だよ」
「知ってる」
「ルークも、私が大事?」
「当たり前だろ」
「じゃあ、どうする?」
ルークは苦しそうに顔を歪めた。
それは、欲がない顔ではなかった。
逆だ。
大事すぎるから踏み込めない顔だった。
欲望で触れて、壊してしまうのが怖い。
大切なものを、大切にしたいあまり、手を伸ばせない。
俺には、その気持ちが少し分かった。
少し前まで、自分も似たような場所にいたからだ。
ミーナは一歩近づいた。
「ルークは、私を大事にしすぎ」
「悪いかよ」
「悪くないよ。嬉しいよ。でも、私は守られるだけじゃ嫌」
ミーナは笑った。
明るく、強く。
「私も、ルークと一緒に進みたい」
ルークは目を逸らした。
「……考えさせろ」
「逃げるの?」
「逃げねえよ」
「ほんと?」
「逃げねえ」
「じゃあ、待つ」
ミーナはそれだけ言って、洗濯物を抱え直した。
その横顔は、もう勝っていた。
ルークは、木剣を握ったまま項垂れていた。
俺は心の中で手を合わせた。
頑張れ、ルーク。
たぶん、そっちの戦場は俺には助けられない。
その日の午後、ソフィアさんは俺の包帯を替えてくれていた。
肩の傷は、もうほとんど塞がっている。
動かせば少し痛むが、日常生活には問題ない。
ソフィアさんの指が、包帯の端を整える。
その動きはいつもどおり丁寧で、優しかった。
俺は、その横顔を何度も見た。
口を開きかける。
閉じる。
また開きかける。
また閉じる。
言うだけだ。
ただ名前を呼ぶだけだ。
それなのに、喉の奥で引っかかる。
「洸太さん」
ソフィアさんが顔を上げた。
「何かあったんですか」
気づかれていた。
当然だ。
この人は、俺が自分でも気づかないような無理まで見つける。
「いえ」
そう言いかけて、止めた。
ここで逃げると、また元に戻る。
ソフィアさんは待っている。
無理に引きずり出すのではなく、逃げ道を塞ぎすぎるのでもなく。
ただ、俺が言うのを待っている。
俺はこれまで、いろいろな人を助けてきた。
けれど、その時に勇気を出した覚えはあまりない。
誰かが危ないと思えば、身体が動いた。
考えるより先に走っていた。
怖いとか、怖くないとかではない。
たぶん、反射に近かった。
だが今は違う。
俺は、なけなしの勇気を振り絞ろうとしていた。
たった一言。
ただ名前を呼ぶだけ。
それだけなのに、怖かった。
これを言うことで、ソフィアさんの表情が変わるかもしれない。
困らせるかもしれない。
笑われるかもしれない。
今さら何をと思われるかもしれない。
それでも。
俺は息を吸った。
「……ソフィア」
たったそれだけのことが、こんなにも大変なことだとは思わなかった。
ソフィアさんの手が止まった。
ほんの一瞬。
それから、彼女はゆっくりと顔を上げた。
ソフィアは、自分の名前を知っている。
修道院の子供たちも、町の人々も、グレイスも、ミーナもルークも、皆がその名を呼ぶ。
ソフィア。
珍しい名ではない。
けれど、その時聞こえた名前は、まるで初めて与えられたもののようだった。
洸太さんが私を呼んだ。
ソフィアさんではなく。
ソフィアと。
ただ名前を呼ばれただけ。
それだけなのに、胸の奥が熱くなった。
声を出せば震えそうだった。
顔を緩めれば、きっと戻せなくなる。
だからソフィアは、必死に平静を装った。
「……はい」
返事はできた。
できたはずだった。
けれど、これで終わらせてはいけない。
この人は油断すると、明日には何事もなかったように「ソフィアさん」と呼ぶ。
それは困る。
とても困る。
だからソフィアは、静かに言った。
「もう一度、お願いします」
洸太さんが固まった。
「……何をですか」
「今のを」
「今の」
「はい」
「……」
逃がすつもりはなかった。
洸太さんは、目に見えて困っていた。
けれど、逃げなかった。
「……ソフィア」
「はい」
返事をすると、胸が温かくなった。
もう一度聞きたい。
そう思った。
「もう一度」
「いや、あの」
「お願いします」
「……ソフィア」
「はい」
また温かくなった。
困った。
これは、何度でも聞きたい。
俺は、自分が何をしているのか分からなくなっていた。
一世一代の勇気で、一回呼んだつもりだった。
それで終わりだと思っていた。
だが、ソフィアさん――いや、ソフィアは見逃してくれなかった。
「もう一度、お願いします」
「……ソフィア」
「はい」
「もういいのでは」
「まだです」
「何がまだなんですか」
「私がまだです」
理屈が分からない。
だが、ソフィアは幸せそうだった。
名前を呼ぶたび、嬉しそうに返事をする。
俺は途中から、自分がよくできましたと言われるために同じ行動を繰り返す犬のような気分になってきた。
「ソフィア」
「はい」
「ソフィア」
「はい」
「……ソフィア」
「はい」
やめるにやめられない。
ソフィアがあまりにも嬉しそうだからだ。
結局その日、俺はソフィアが満足するまで、彼女を「ソフィア」と呼ばされ続けることになった。
何度呼ばれても、嬉しかった。
ソフィア。
そのたび、胸の奥が温かくなる。
洸太さんは困った顔をしていた。
けれど、逃げなかった。
私が返事をするたび、恥ずかしそうに目を逸らしながらも、また呼んでくれた。
ソフィア。
もう一度。
ソフィア。
また、もう一度。
私はそのひとつひとつを、大切に胸へしまい込んだ。
今夜は、きっと一際素敵な夜になる。
洸太さんに「ソフィア」と呼んでもらいながら。
夕方前、ソフィアは修道院の庭で洗濯物を畳んでいた。
春の終わりの風が、乾いた布を揺らす。
子供たちは少し離れた場所で遊んでいる。
ミーナは台所で夕食の手伝いをしている。
ルークと洸太さんは、商会に届け物へ行っていた。
庭の端で、老婆が腰を下ろしていた。
彼女は古い布を繕っていた。
針を動かす手はゆっくりだが、迷いはない。
「幸せそうだねえ、ソフィアちゃん」
突然そう言われて、ソフィアは手を止めた。
否定はしなかった。
できなかった。
「……はい。幸せです」
その言葉は、自然に出た。
胸の中にあるものを、飾らずに言えばそうなる。
幸せだった。
朝、目が覚めれば隣にあの人がいる。
怪我をすれば、手を伸ばしてくれる。
帰ってきてくださいと言えば、頷いてくれる。
今日、初めて名前を呼び捨てで呼んでくれた。
幸せでないはずがない。
けれど、ソフィアは続けた。
「でも、まだです」
老婆の針が止まった。
「まだ、駄目なんです」
「まだ、かい」
「はい」
ソフィアは、畳んだ布の端を整えた。
「あの人はまだ、自分を数えません」
言葉にすると、胸が少し痛んだ。
「誰かを助けたら、それで自分を置き去りにしてしまう。助けられたなら、自分はどうなってもいいと思ってしまう」
ソフィアは視線を落とした。
「だから、まだ駄目なんです」
老婆は黙っていた。
遠くで子供の笑い声がした。
その向こう、修道院の門の方へ、老婆の視線が向いた。
そこにはまだ誰もいない。
けれど老婆は、誰かを見るような目をしていた。
「ああいう子は、帰るのが下手だからねえ」
ソフィアは顔を上げた。
「分かるのですか」
老婆は小さく笑った。
「分かる、なんて偉そうなことは言えないよ」
針を持つ手が、わずかに震えた。
「ただ、昔ね、ああいう子を知っていたもんでね」
言い過ぎたと気づいたように、老婆は口を閉じた。
そして、目を逸らした。
その横顔に浮かんだものを、ソフィアは見た。
懐かしさではない。
後悔だった。
近づきたいのに近づけない者の顔。
名を呼びたいのに呼べない者の顔。
ソフィアは、それ以上は聞かなかった。
老婆はしばらく黙っていたが、やがて静かに言った。
「だからね、ソフィアちゃん」
「はい」
「帰ってきてもらいなさい」
老婆の声は、少しだけ掠れていた。
「何度でも」
ソフィアは息を呑んだ。
「ああいう子は、言われないと分からないんだよ。そこは外じゃない。あんたの場所だよ、ってね」
その言葉は、ソフィアに向けられていた。
けれど、それだけではない気がした。
本当は、老婆自身が誰かに言いたかった言葉なのかもしれない。
あるいは、言えなかった言葉なのかもしれない。
「……はい」
ソフィアは頷いた。
「帰ってきてもらいます」
もう一度、頷く。
「何度でも」
老婆は、少しだけ笑った。
その笑みは、嬉しそうで、泣きそうだった。
夕方、洸太さんが帰ってきた。
門の向こうから、ルークと並んで歩いてくる。
ルークは何かを話している。
洸太さんは困ったように返事をしている。
その姿を見て、ソフィアは胸を撫で下ろした。
帰ってきた。
今日も。
ソフィアは門の前に立った。
洸太さんがこちらに気づき、少しだけ足を止める。
そして、歩いてくる。
「おかえりなさい、洸太さん」
いつもの言葉。
けれど今日は、少しだけ違う。
洸太さんは、迷った。
分かる。
今までなら、ただ「戻りました」と言ったかもしれない。
あるいは「ただいまです」と、どこか距離を残した言い方をしたかもしれない。
けれど、今日は違った。
洸太さんは、ほんの少し目を逸らした。
それでも、逃げなかった。
「ただいま、ソフィア」




