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第7話 戻り始める日々

 ミーナが目を覚ましてから、数日が過ぎた。


 修道院には、少しずつ朝の音が戻っていた。


 鐘が鳴り、子供たちが廊下を走り、ソフィアがそれを叱る。台所からは薄い粥の匂いがして、庭では洗濯物が風に揺れている。市場通りには荷馬車が戻り、商会の者たちが朝から声を張り上げていた。


 日々は、戻り始めていた。


 けれど、何もかもが元通りになったわけではなかった。


「……お姉ちゃん、もう少しだけ」


「駄目です」


 寝台の上で、ミーナが情けない声を出した。


 上体を起こし、足を寝台の外へ下ろそうとしたところを、ソフィアに止められている。


「ほんの少し歩くだけよ」


「昨日もそう言って、廊下の途中で座り込みました」


「あれは、ちょっと疲れただけで」


「傷に障ります」


 ソフィアの声は穏やかだったが、まったく譲る気配がなかった。


 ミーナは唇を尖らせた。


 傷は塞がっている。熱も引いた。顔色も、最悪だった時に比べればずいぶん戻っている。


 それでも、身体はまだ言うことを聞かない。


 長く座っていれば腹の奥が重く痛む。少し歩けば息が上がる。笑いすぎても、咳をしても、傷のあたりが引きつった。


 死にかけたのだと、身体の方が先に教えてくる。


「……私だけ、置いていかれてるみたい」


 ミーナが小さく呟いた。


 ソフィアは、包帯を整える手を止めた。


「置いていく人なんて、誰もいません」


「でも、ルークは朝から稽古してるし、洸太も商会に行きたがってるし」


「あの人は行きたがっているだけで、まだ許していません」


「お姉ちゃん、洸太には厳しいよね」


「当然です」


 即答だった。


 ミーナは目を丸くして、それから少し笑った。


「傷に響きますよ」


「お姉ちゃんが面白いこと言うから」


「私は何も面白いことは言っていません」


 そう言いながら、ソフィアはミーナの肩に薄い掛け布をかけ直した。


 その手が、ほんの少しだけ震えていた。


 ミーナはそれに気づいたが、何も言わなかった。


 言えば、きっとソフィアは困ったように笑う。


 だから代わりに、ミーナはその手に自分の手を重ねた。


「大丈夫よ、お姉ちゃん」


「……はい」


 ソフィアは短く答えた。


 けれど、その声は祈りに似ていた。


     ◇


 洸太は、休むのが下手だった。


 寝台に横になれと言われれば、横にはなる。


 だが五分もしないうちに、何か用事はないかと目を動かす。十分もすると、身体を起こそうとする。十五分も経てば、商会に顔を出すくらいなら、と言い始める。


「あなたも患者です」


 ソフィアがそう言うと、洸太は困ったように眉を下げた。


「俺は怪我してませんよ」


「魔力を使い切って倒れた人を、健康な人とは言いません」


「でも、もう歩けますし」


「歩けることと、働いてよいことは違います」


 正論だった。


 洸太は口を閉じた。


 だが、納得した顔ではなかった。


 何もしていない自分を、どう扱えばいいのか分からない。そういう顔だった。


「商会にも迷惑かけてますし」


「商会からは、しばらく休ませろと言われています」


「修道院にも世話になりっぱなしで」


「修道院は、助けが必要な人を追い出す場所ではありません」


「でも」


「洸太さん」


 ソフィアの声が、少しだけ強くなった。


 洸太は黙った。


「休むことも、必要なことです」


「……はい」


 返事はした。


 だが、やはり納得した顔ではなかった。


 ソフィアはその顔を見て、胸の奥に小さな痛みを覚えた。


 この人は、休めないのではない。


 休むことを、自分に許せないのだ。


 役に立っていない時間を、居場所のない時間のように感じている。


 そんな気がした。


 それが正しいのかは、まだ分からない。


 ただ、見過ごしてはいけないものを見た気がした。


     ◇


 その日の夕方、洸太はルークに頭を下げた。


「頼みがある」


 修道院の裏手。


 子供たちが遊び終え、夕食の支度の匂いが漂い始める頃だった。


 ルークは木剣を肩に担いだまま、洸太を見た。


「何だよ」


「俺に、身を守る方法を教えてくれ」


 ルークの眉がわずかに動いた。


「剣なら、もう教えてるだろ」


「ああ。助かってる」


「じゃあ何だよ」


「剣だけじゃなくていい」


 洸太は少し言葉を探した。


「逃げ方とか、転び方とか、危ない時にどう動くかとか。そういうのも含めて、教えてほしい」


 ルークは黙った。


 洸太は続けた。


「俺は、誰かを助けようとしても、今のままだと足手まといになる。助けに行って、すぐ倒れるだけじゃ意味がない」


「……」


「だから、最低限でいい。すぐ死なないくらいにはなりたい」


 ルークはしばらく洸太を見ていた。


 剣を教え始めてから、洸太が真面目にやっていることは知っている。


 才能があるわけではない。

 身体がよく動くわけでもない。

 四十一から始めた男の動きは、どうしたってぎこちない。


 だが、続けていた。


 転がされても立つ。

 息を切らしても木剣を握る。

 覚えが悪いところは、夜に一人で繰り返す。


 だからルークは、洸太が剣そのものをもっと教えろと言っているわけではないのだと分かった。


 こいつが欲しがっているのは、敵を倒す技ではない。


 死なないための技だ。


 ミーナが倒れた日のことが、ルークの脳裏をよぎった。


 腕の中で冷えていくミーナ。


 呼んでも返事がなかった恐怖。


 何もできずに止まった自分。


 そして、そんな自分を怒鳴りつけた洸太の声。


 治せるかどうかを、お前がここで決めるな。


 それまでは俺が繋ぐ。


 走れ。


 あの時、洸太がいなければ、ルークは動けなかった。


 だが同時に、ルークは洸太に言いたいことが山ほどあった。


 助けた相手だけを見て終わるな。


 残される側がどうなるか、考えろ。


 お前が倒れて、それで誰かが泣くことを、少しは想像しろ。


 けれど今、それを言えば、洸太はきっと変な顔をする。


 分かっているような顔で、たぶん何も分かっていない顔をする。


 ルークは木剣を下ろした。


「分かった」


 洸太が顔を上げる。


「いいのか?」


「ただし、条件がある」


「何だ?」


「俺の言うことを聞け」


「ああ」


「勝とうとするな」


「……ああ」


「前に出るな」


 洸太が少しだけ目を瞬かせた。


 ルークは続けた。


「お前に教えるのは、勝つための剣じゃねえ。逃げるため、避けるため、倒れても死なないための動きだ」


「分かった」


「まず死ぬな。倒れるな。助けたいなら、助ける前に自分が潰れるな」


「分かった」


「本当に分かってんのか?」


 洸太は一瞬だけ言葉を詰まらせた。


 それから、少し困ったように笑った。


「分かってる、つもりだ」


 ルークはその笑い方が気に入らなかった。


 だが、今はそれでよしとした。


「じゃあ、今日は転び方からだ」


「……え?」


「転び方だ。頭から落ちるな。手だけで受けるな。息を吐け。地面を怖がるな」


「剣じゃないのか?」


「剣はもう教えてる。けど、剣を振る前に、転んで死なないようになれ。四十一のおっさんが頭打って動けなくなりました、じゃ笑えねえだろ」


「そこは笑ってくれていいぞ」


「笑った後にソフィア姉に怒られるのは俺だ」


 洸太は苦笑した。


 その直後、足を払われて地面に転がった。


「ぐっ……!」


「まず一回」


「いきなりかよ……」


「敵が、今から払いますって言うかよ」


 ルークは木剣を肩に戻した。


「起きろ。次は頭を守れ」


     ◇


 ルークの稽古は、洸太が想像していたものよりずっと地味だった。


 斬る練習より、避ける練習。


 受ける練習より、芯を外す練習。


 立つ練習より、倒れた後に周囲を見る練習。


「すぐ起きようとするな!」


 ルークの声が飛ぶ。


「起きる前に見るんだよ! 敵は一人か? 逃げ道はどこだ? 誰が後ろにいる? 考えろ!」


「考えてる余裕が……!」


「余裕がねえ時にやるんだよ!」


 洸太は何度も転がされた。


 土まみれになり、膝を擦りむき、肩を打ち、息を切らす。


 それでも立った。


 立ってしまった。


 ルークはその姿を見ながら、少しずつ洸太の癖を知っていった。


 洸太は、自分を守る動きが下手だった。


 だが、誰かを庇う動きだけは、妙に早く身体が反応する。


 ルークがわざと背後の子供の方へ木剣を向ける素振りを見せると、洸太は考えるより先に半歩動く。


 ルークはそのたびに怒鳴った。


「前に出るなって言っただろ!」


「今のは、つい」


「その“つい”で死ぬんだよ!」


 洸太は口を閉じる。


 怒られている理由は理解している。


 しているつもりだった。


 けれどルークには、その「つもり」が危うく見えた。


     ◇


 ソフィアが洸太に教えたのは、回復魔法と手当ての基礎だった。


 もちろん、洸太にソフィアと同じことはできない。


 ソフィアの回復魔法は、傷を包み、痛みを和らげ、身体そのものが元へ戻ろうとする力を助ける。


 洸太のそれは、もっと粗い。


 流れる血を少し鈍らせる。


 痛みを薄紙一枚分だけ遠ざける。


 捻った足を、歩ける程度に落ち着かせる。


 傷が悪化するまでの時間を、ほんの少し延ばす。


 そんなものだった。


「ミーナの時、あなたはミーナを治したわけではありません」


 包帯の巻き方を教えながら、ソフィアは言った。


 洸太の手が一瞬止まる。


「……はい」


「けれど、繋ぎました」


 ソフィアは静かに続けた。


「私が来るまで、ミーナをこちら側に繋ぎ止めた。それは、無意味ではありません」


 洸太は包帯を見る。


 白い布が、自分の不器用な指の間で少し歪んでいた。


「治せなくても、意味はありますか」


「あります」


 ソフィアは即答した。


「命は、たった一息で繋がることがあります。その一息を稼ぐ人がいるから、届く手もあります」


 洸太は小さく息を吐いた。


「……なら、覚えます」


「はい」


「俺にもできるところまで」


 ソフィアは頷いた。


 そして、洸太の指を取って包帯の向きを直した。


「強く締めすぎです。これでは血が止まりすぎます」


「あ、すみません」


「謝るより、覚えてください」


「はい」


 そのやりとりを、寝台の上のミーナがじっと見ていた。


「洸太、不器用」


「うるさい。こっちは四十一からの手習いなんだよ」


「四十一って大変?」


「大変だぞ。身体が思ったより動かない」


「じゃあ私が治ったら、すぐ追い抜いちゃうね」


「それまでに少しくらい追いついとく」


 ミーナは頬を膨らませた。


「ずるい。私が寝てる間に強くなるなんて」


「強くなってるかどうかは知らん」


 洸太は少し笑った。


「ただ、転ぶのは上手くなってる」


 ミーナは笑った。


 そして傷に響いて、ソフィアに叱られた。


     ◇


 攻撃魔法については、洸太は驚くほど向いていなかった。


 火を出せと言われれば、掌の上で煙がくすぶった。


 風を起こせと言われれば、自分の前髪が申し訳程度に揺れた。


 小石を弾けと言われれば、小石ではなく洸太の眉間に皺が寄った。


「……才能ねえな」


 ルークが率直に言った。


「自覚はある」


「そこは落ち込めよ」


「落ち込んで火が出るなら落ち込む」


「出ねえだろうな」


 ミーナは寝台の上で肩を震わせていた。


 ソフィアも口元を押さえている。


「笑うな。こっちは真剣なんだ」


「真剣だから面白いんだよ、洸太」


「ミーナ、また傷に響きますよ」


「はあい」


 そのくせ、灯りの魔法だけは妙に早く覚えた。


 掌の上に、小さな光が浮かぶ。


 強い光ではない。


 部屋全体を照らすほどでもない。


 けれど、本を読むには足りる。足元を見るには足りる。夜道で転ばないためには、十分な光だった。


「何でこれは覚えが早いんだよ」


 ルークが呆れると、洸太は平然と答えた。


「夜に素振りするのに便利だからな」


「夜にやる前提かよ」


「あと、帳簿とか薬草の本も読める」


「寝ろよ」


 ソフィアが静かに言った。


「洸太さん」


「はい」


「夜は寝てください」


「必要に応じて」


「寝てください」


「……はい」


 ミーナがまた笑い、また傷に響いて叱られた。


 灯りの他にも、洸太はいくつかの小さな魔法を覚えた。


 傷を洗うための、わずかな水。


 冷えた手を温めるための、弱い熱。


 遠くの相手に知らせるための、小さな光の瞬き。


 逃げる一瞬を作るための、目を刺す程度の眩しさ。


 どれも派手ではない。


 敵を倒す力ではない。


 けれど、暗がりで誰かの傷を見るために。


 震える手を冷やさないために。


 逃げる一呼吸を作るために。


 そういう、誰かが生き残るための魔法だけは、不器用なりに洸太の手に残った。


     ◇


 季節が、ひとつ動き始めた。


 ミーナは少しずつ歩けるようになった。


 最初は寝台から扉まで。


 次に廊下の端まで。


 それから、庭の木陰まで。


 ルークはそのたびに、少し離れた場所で見ていた。


 近くにいすぎるとミーナに怒られる。


 離れすぎると自分が落ち着かない。


 だから、すぐに駆け寄れる距離で、何でもない顔をして立っている。


「ルーク」


 ある日、庭の木陰でミーナが呼んだ。


「何だ?」


「無茶しないでね」


 ルークは一瞬、返事に詰まった。


「何だよ、急に」


「何となく」


 ミーナは笑った。


「ちゃんと帰ってきてね」


 その言葉は、あまりにも自然だった。


 ミーナにとっては、ただの願いだった。


 けれどルークの胸には、深く刺さった。


 守るなら、死ねばいい。


 以前の自分なら、そう思ったかもしれない。


 ミーナを守れるなら、自分がどうなってもいいと。


 だが、ミーナはそれを望んでいない。


 ミーナは、帰ってきてと言う。


 ルークに、生きて戻れと言う。


「……分かってる」


 ルークはそう答えた。


 声が少し掠れた。


 ミーナは気づかなかったふりをした。


     ◇


 洸太の小さな灯りは、いつの間にか町の一部になっていた。


 最初に見つけたのは、夜番の男だった。


 商会裏の空き地に、淡い光が浮かんでいる。


 何事かと覗けば、洸太が木剣を振っていた。


 速くはない。


 鋭くもない。


 時々、足の運びを間違えて、自分で体勢を崩す。


 それでも、やめなかった。


 次に見たのは、朝早く市場へ向かう魚屋だった。


 その次は、荷車を押す老人だった。


 やがて、誰かが言うようになった。


「ああ、また商会の洸太がやってる」


 洸太は町に受け入れられたわけではなかった。


 ただ、見られるようになった。


 呼ばれるようになった。


 笑われるようになった。


 心配されるようになった。


 商会の洸太。


 修道院の居候。


 ミーナを助けるのに一役買った男。


 ルークに毎朝転がされている、四十一歳のおっさん。


 夜に灯りを浮かべて素振りしている変わり者。


「いい年して、よくやるな」


「昨日もルークに転がされてただろ」


「今日も転がされるだろ」


「そりゃ相手が悪い」


「でも最近、すぐ起きるようになったな」


「ああ、粘るようになった」


「ルークには負けるけどな」


 町の者たちは笑った。


 だが、その笑いは少しずつ変わっていった。


 最初は、転がされる洸太を笑っていた。


 次に、それでも立つ洸太を笑うようになった。


 最後には、立つのが当然になっていた。


 ある朝、ルークの初撃を、洸太が半歩だけ避けた。


 避けた先で足をもつれさせ、結局は派手に転んだ。


 見ていた商会の男たちが声を上げて笑った。


 ルークも呆れた顔をした。


 けれど、その後で短く言った。


「今のは悪くない」


 洸太は土まみれのまま、地面に大の字になった。


「……褒められた気がしない」


「褒めてねえ」


「ひどい師匠だ」


「弟子にした覚えはねえ」


 そのやりとりに、また周りが笑った。


     ◇


 商会でも、洸太の居場所は少しずつ変わっていった。


 最初は雑用だった。


 荷を運ぶ。


 床を掃く。


 帳簿を写す。


 荷札を読む。


 鉱石の種類を覚える。


 荷馬車の車輪についた泥で、どの道を通ってきたのかを教えられる。


 洸太は覚えが早い方ではなかった。


 だが、見ていた。


 よく見ていた。


 常連の鉱夫がいつもより口数が少ないこと。


 荷の量に対して護衛の数が少ないこと。


 同じ鉱山から来たはずの荷に、違う泥がついていること。


 そういう小さな違和感に、洸太は妙に気づいた。


「お前、変なところ見てんな」


 荷札の読み方を教えてくれた商会員の男が、苦笑しながら言った。


 名はガルド。


 口は悪いが、面倒見は悪くない男だった。


「変ですか」


「変だな。普通そこは見ねえ」


「すみません」


「謝るところでもねえよ」


 ガルドは鉱石の詰まった木箱を軽く叩いた。


「だが、荷を見るなら悪くねえ。人が見落とすところを見る奴は、商会じゃ役に立つ」


「役に立ちますか」


「立つかどうかは、お前次第だ」


 洸太はその言葉を、妙に真面目に受け取った。


 ガルドは少し困ったように笑った。


「お前な、そんな顔すんな。別に今すぐ命かけろって話じゃねえ」


「はい」


「分かってねえ顔だな」


「よく言われます」


「だろうな」


 ガルドは呆れたように肩をすくめた。


 それから、荷札の端を指で弾いた。


「いいか。鉱山から来る荷は、札だけ見るな。泥、傷、縄の締め方、馬の疲れ方。全部見ろ。嘘つく奴は札を直すが、車輪の傷までは直さねえ」


「なるほど」


「あと、違和感があったら覚えとけ。すぐ分からなくてもいい。後で繋がることがある」


 洸太は頷いた。


「覚えておきます」


「真面目か」


「取り柄が少ないので」


「そういうことを真顔で言うな」


 ガルドは苦笑した。


 その数日後、ガルドは鉱山へ向かう荷馬車の一団に加わった。


 出発前、洸太は彼の様子が少しだけ違うことに気づいた。


 いつもより口数が少ない。


 荷札を見た時、わずかに眉を寄せた。


 護衛の数を確認して、舌打ちしかけてやめた。


「どうかしましたか」


 洸太が尋ねると、ガルドは一瞬だけ洸太を見た。


 そして、いつもの調子で笑った。


「何でもねえよ。商会の洸太」


 その呼び方に、洸太は少しだけ返事が遅れた。


「……はい」


「何だその間は」


「いや」


 自分の名前の前に、場所がついた。


 所属がついた。


 それが妙に落ち着かなくて、けれど嫌ではなかった。


 ガルドはそんな洸太の顔を見て、少しだけ笑った。


「よく見とけ。分からなくても、見とけ。お前はそういうの、向いてる」


「分かりました」


「じゃあな。戻ったら、次は鉱石の値のつけ方を教えてやる」


 そう言って、ガルドは荷馬車に乗った。


 その時の違和感を、洸太はまだ言葉にできなかった。


     ◇


 ソフィアは、洸太を見る時間が増えた。


 夜に灯りを浮かべて素振りする洸太。


 ルークに転がされて、土まみれで起き上がる洸太。


 商会で荷を運び、子供たちに絡まれて困る洸太。


 怪我をした子供に、ぎこちなく回復魔法を使う洸太。


 そのどれもが、不器用だった。


 そして、そのどれもが、誰かのためだった。


 洸太は自分のためには鈍い。


 誰かが困っていると動ける。


 誰かが痛がっていると手を伸ばせる。


 けれど、自分が疲れていること、自分が痛んでいること、自分が心配されていることには、驚くほど鈍かった。


「洸太さん」


 ある夜、ソフィアは商会裏で洸太を見つけた。


 小さな灯りが浮かんでいる。


 洸太は木剣を下ろし、気まずそうに振り返った。


「……こんばんは」


「夜は寝てくださいと言いました」


「少しだけです」


「その“少しだけ”を、私は信用していません」


「信用がない」


「積み重ねの結果です」


 ソフィアは近づき、洸太の手を見る。


 指の皮が少し剥けていた。


 肩にも、昼間の稽古で打った痣が残っている。


「手を出してください」


「大したことないです」


「手を出してください」


 洸太は観念して手を出した。


 ソフィアはその傷に手を当てた。


 柔らかな光が滲む。


 洸太のものとは違う、温かく、静かな光。


「あなたの身体は」


 ソフィアは手当てをしながら言った。


「あなたが思っているほど、軽いものではありません」


 洸太は目を瞬かせた。


「……そうですかね」


「そうです」


 ソフィアの声が少し強くなる。


「少なくとも、私の前で粗末に扱ってよいものではありません」


 言ってから、ソフィア自身がその言葉に驚いた。


 なぜそんな言い方をしたのか、自分でも分からなかった。


 洸太もまた、意味を測りかねたような顔をしていた。


 沈黙が落ちる。


 夜風が、二人の間を通った。


「……気をつけます」


 洸太がそう言った。


 ソフィアは頷いた。


 けれど、胸の奥のざわめきは消えなかった。


     ◇


 三ヶ月が過ぎた。


 あるいは、もっと長かったかもしれない。


 洸太には、日々がひとつながりになっていた。


 朝、ルークに転がされる。


 昼、商会で働く。


 夕方、ソフィアに手当てや魔法を教わる。


 夜、小さな灯りの下で木剣を振る。


 その繰り返しの中で、洸太は少しずつ変わった。


 強くなったわけではない。


 ルークには勝てない。


 ミーナが本調子に戻れば、きっとすぐに追い抜かれる。


 攻撃魔法は相変わらず煙と微風ばかりで、ソフィアのような癒やしの光にも届かない。


 それでも。


 転んでも、頭から落ちなくなった。


 血を見ても、手が止まらなくなった。


 暗がりに、小さな光を灯せるようになった。


 誰かが倒れた時、ほんの少しだけ、死ぬまでの時間を引き延ばせるようになった。


 町の人々は、そんな洸太を笑った。


「商会の洸太、またやってるな」


「修道院の居候だろ」


「ミーナの時に頑張ってた奴だ」


「四十一のおっさんが、よく転がるよ」


「でも最近、なかなか粘る」


「ルークには負けるけどな」


 強いとは、誰も言わなかった。


 それで十分だった。


 日々は戻り始めていた。


 完全に元通りではなくても。


 傷跡の上に、新しい日々が薄く重なり始めていた。


     ◇


 その報せが商会に届いたのは、そんなある日の夕方だった。


 陽は傾き、市場通りの影が長く伸びていた。


 商会の扉が乱暴に開く。


 息を切らした男が、土と汗にまみれた顔で叫んだ。


「鉱山へ向かった荷馬車の一団が、戻らねえ!」


 商会の中が、一瞬で静まり返った。


 洸太は帳簿から顔を上げた。


 胸の奥が、嫌な音を立てる。


 男は続けた。


「護衛も、荷運びも、誰も戻ってねえ。途中の宿にも寄ってねえ」


 誰かが低く呻いた。


 誰かが名前を確認した。


 その中に、洸太の知っている名があった。


 ガルド。


 荷札の読み方を教えてくれた男。


 戻ったら、鉱石の値のつけ方を教えてやると言った男。


 出発前、いつもより口数が少なかった男。


 荷札を見て、わずかに眉を寄せた男。


 洸太は、あの時の違和感を思い出していた。


 分からなくても、見とけ。


 後で繋がることがある。


 ガルドの声が、耳の奥で蘇る。


 洸太はゆっくりと立ち上がった。


 商会の誰かが、その動きに気づいた。


「洸太」


 呼ばれて、洸太は顔を上げる。


 その顔を見た商会の男が、わずかに眉をひそめた。


 止めるべきか。


 連れて行くべきか。


 迷う顔だった。


 洸太は何も言わなかった。


 ただ、拳を握った。


 日々は戻り始めていた。


 けれどその日々は、まだ誰かを失わずに済むほど、穏やかではなかった。


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