第6話 助けたかったから
修道院の朝は、いつもより静かだった。
子どもたちの声は聞こえる。
食器の触れ合う音も、廊下を歩く小さな足音も、いつもと同じようにそこにある。
けれど、誰も大きな声では笑わなかった。
昨日、市場通りでミーナが刺された。
その事実だけが、まだ夜の冷たさを残したまま、修道院の空気の中に沈んでいた。
寝台の上で、ミーナは眠っている。
顔色は悪い。
いつもなら少し動くだけで跳ねるように揺れる金色の髪も、今は枕の上に力なく広がっている。
呼吸はある。
胸は、かすかに上下している。
それを確かめるたびに、ソフィアは自分の息が止まっていたことに気づいた。
何度目かも分からない。
ミーナの手を握る。
温かい。
そのことだけで、喉の奥が熱くなる。
昨日、その手はもっと冷たかった。
ソフィアは目を閉じる。
市場通りのざわめき。
血の匂い。
膝をついた洸太の背中。
その手の下で、消えかけていたミーナの命。
そして、自分の手から流れた、あの力。
あれは、何だったのだろう。
自分の回復魔法ではなかった。
少なくとも、ソフィアが知っている回復魔法ではなかった。
自分の魔力だけでは届かなかった。
届かないと、分かってしまった。
それなのに。
自分の手を通って、何かが流れた。
願いに押し出されるように。
拒絶に応えるように。
戻ってきなさい、という声を道にするように。
それがミーナの命を引き戻した。
ソフィアは、空いている方の手を見た。
血はもう落ちている。
何度も洗った。
爪の間に入り込んだ赤も、手首に残った匂いも、もうない。
それでも感覚だけが残っている。
切れかけた細い糸を掴んだ感覚。
沈みかけた小さな温度を、無理やり引き戻した感覚。
怖かった。
助けられた。
ミーナは生きている。
それなのに、怖かった。
「……ん」
かすかな声がした。
ソフィアは弾かれたように顔を上げた。
ミーナのまぶたが、小さく震えている。
「ミーナ?」
呼びかける声が、自分でも分かるほど揺れた。
ミーナはゆっくりと目を開けた。
焦点の合わない瞳が、ぼんやりと天井を見上げる。
それから、時間をかけてソフィアの方へ動いた。
「……お姉ちゃん」
かすれた声だった。
それでも、確かにミーナの声だった。
「ミーナ……」
ソフィアは、その場で泣き崩れそうになった。
けれど堪えた。
堪えなければならなかった。
今、泣いてミーナを不安にさせるわけにはいかない。
そう思ったのに、目の奥から勝手に涙が滲んだ。
「よかった……」
それだけが漏れた。
ミーナは、わずかに瞬きをした。
まだ状況を思い出しきれていない顔だった。
身体を動かそうとして、小さく顔を歪める。
「動かないでください」
ソフィアは慌てて肩に手を添えた。
「まだ傷が痛みます。起き上がってはいけません」
「……わたし」
ミーナの視線が揺れる。
記憶を手繰るように、眉が寄った。
市場。
悲鳴。
小さな子ども。
刃。
血。
思い出したのだろう。
ミーナの顔から、さらに血の気が引いた。
「……あの子は?」
最初に出たのは、自分の痛みではなかった。
ソフィアは一瞬、言葉に詰まった。
叱りたいことはあった。
問いただしたいこともあった。
どうしてそんなことをしたのか。
なぜ逃げなかったのか。
どうして自分の命を危険に晒したのか。
けれど、ミーナが最初に気にしたのは、自分が庇った子どものことだった。
「無事です」
ソフィアは、ゆっくりと答えた。
「あの子は逃げられました。あなたが、逃がしたんです」
ミーナの顔が、少しだけ緩んだ。
「……よかった」
小さく笑おうとして、すぐに痛みに顔をしかめる。
「笑わなくていいです。今は、じっとしていてください」
「うん……」
ミーナは素直に頷いた。
その素直さが、余計に痛かった。
ソフィアはそっとミーナの髪を撫でた。
「ルークを呼んできます。洸太さんも」
ミーナの瞳が揺れた。
「ルーク……怒ってる?」
「怒っています」
ソフィアは正直に言った。
「ですが、それ以上に心配していました」
「……そっか」
ミーナは小さく目を伏せた。
「お姉ちゃんも?」
「怒っています」
「うん」
「でも」
ソフィアはミーナの手を握る力を、少しだけ強めた。
「今は、目を覚ましてくれたことの方が、ずっと大きいです」
ミーナは何かを言おうとして、唇を震わせた。
けれど声にはならなかった。
ソフィアは立ち上がり、部屋の扉を開けた。
廊下には、ルークがいた。
壁にもたれ、腕を組んでいる。
座ってもいない。
眠ってもいない。
ただ、そこに立っていた。
昨日から、ずっとそうだった。
「ルーク」
ソフィアが呼ぶと、ルークの肩がわずかに跳ねた。
「ミーナが目を覚ましました」
その瞬間、ルークの顔が崩れた。
走り出しそうになって、すぐに踏みとどまる。
そして、恐る恐る扉の前まで来た。
中に入るのを怖がっているようだった。
「入りなさい」
ソフィアが静かに言うと、ルークは小さく頷いた。
部屋の中へ入る。
寝台の上のミーナが、顔だけを動かしてルークを見る。
「……ルーク」
その声を聞いた途端、ルークは何かを言おうとして失敗した。
喉が詰まったように、口を開いたまま固まる。
寝台のそばまで歩く。
けれど、伸ばしかけた手が止まった。
昨日、その手を取った時。
ミーナの指は冷たかった。
血で濡れていた。
力がなかった。
呼んでも、返事がなかった。
だから、もう一度触れるのが怖かった。
「ルーク?」
ミーナが不思議そうに呼ぶ。
その声に、ルークはようやく手を伸ばした。
ミーナの手を握る。
温かかった。
それだけで、ルークは顔を歪めた。
「……馬鹿」
やっと出た声は、ひどく掠れていた。
「ほんとに、馬鹿だ、お前」
「うん」
ミーナは素直に頷いた。
「ごめん」
「謝りゃいいってもんじゃねえだろ」
「うん」
「お前な……」
ルークは言葉を探した。
けれど、見つからなかった。
二度とあんな無茶をするな。
お前が死んだらどうする。
俺がどんな気持ちだったか分かってるのか。
言いたいことは、いくらでもあった。
けれど、どれも口にできなかった。
ミーナは子どもを助けた。
自分は間に合わなかった。
目の前で、ミーナが刺されるのを見た。
そして、ミーナを抱えたまま、何もできずに止まった。
その事実が、喉を塞いだ。
「……生きてて、よかった」
結局、口から出たのはそれだけだった。
ミーナの目に、涙が滲んだ。
「うん」
ルークは顔を背けた。
ソフィアは廊下へ視線を向ける。
「洸太さんは?」
「……起きてる」
ルークが短く答えた。
「寝てろって言ったのに、起きてる」
その言い方に、ソフィアは小さく息を吐いた。
「呼んできてください」
「いいのか?」
「ミーナが目を覚ましたことは、知らせるべきです」
ルークは頷き、部屋を出た。
しばらくして、洸太が姿を見せた。
顔色は悪い。
昨日、魔力をほとんど使い切って倒れたせいだろう。
歩き方も、いつもより少し鈍い。
それでも洸太は、平気そうな顔を作っていた。
「ミーナ」
洸太は寝台のそばまで来て、少しだけ表情を緩めた。
「目ぇ覚めたか」
「……洸太」
ミーナはかすかに笑った。
「助けてくれて、ありがとう」
「俺だけじゃない。ソフィアさんが間に合ったからだ」
「でも、洸太が繋いでくれたって、聞いた」
洸太は何かを言いかけて、やめた。
「……間に合ってよかった」
それだけ言った。
ソフィアは洸太を見た。
この人は、昨日もそうだった。
血まみれの手でミーナに回復魔法をかけながら、平然と自分の限界を越えていた。
間に合えばいい。
助かればいい。
そのために自分が倒れることなど、最初から勘定に入っていないようだった。
そして、その無茶がなければ。
ミーナは、ソフィアが来るまで生きていなかったかもしれない。
だから、怒れなかった。
怒りたいのに、怒り切れなかった。
「洸太さん」
ソフィアが静かに言う。
「あなたも、本来なら寝ていなければならない人です」
「俺は大丈夫です」
「大丈夫ではありません」
即座に返すと、洸太は少し困ったように笑った。
「でも、ミーナが起きたなら」
「それとこれとは別です」
ソフィアの声が思ったより強くなった。
洸太が目を瞬かせる。
「……はい」
その返事は素直だったが、分かっている返事ではなかった。
ソフィアには、それが分かった。
ミーナが小さく息を吸った。
「お姉ちゃん」
「はい」
「ルーク」
「なんだ」
「洸太」
「ああ」
ミーナは三人を順に見た。
それから、少しだけ目を伏せた。
「ごめんなさい」
寝台のそばが静かになった。
「心配かけて、ごめんなさい」
声は小さかった。
けれど、はっきりしていた。
「私、もっと上手くできると思ってた」
ルークの手に力が入る。
「勝てると思ったわけじゃないの。ほんとに」
ミーナはゆっくりと言葉を選ぶ。
「あの人を倒せるなんて、思ってなかった。ただ、一瞬なら止められると思ったの。その間に、あの子が逃げられればいいって」
「それでお前が刺されたら意味ねえだろ」
ルークの声が荒くなった。
けれどすぐに、苦しそうに歯を食いしばる。
ミーナは頷いた。
「うん。だから、ごめんなさい」
「違う、そうじゃ……」
ルークは続けられなかった。
ミーナは謝っている。
心配をかけたことを。
自分の力が足りなかったことを。
けれど、助けようとしたことを悔いてはいない。
それが分かってしまった。
「でも」
ミーナは言った。
「あの子を助けようとしたことは、後悔してないの」
ソフィアは目を閉じた。
やはり、そうなのだ。
「助けたかったの」
ミーナの声は震えていた。
けれど、そこに迷いはなかった。
「助けられるだけじゃなくて」
かつて、ミーナは森で助けられた。
ルークと共に、洸太に助けられた。
それから、文字を教えた。
洸太が少しずつ読めるようになるのを見た。
誰かの役に立てることを、初めてはっきりと嬉しいと思った。
「私も、誰かを助けたかった」
ソフィアは何も言えなかった。
その願いを、否定できなかった。
ルークも同じだった。
叱りたい。
怒鳴りたい。
泣きつきたい。
けれど、その願い自体を間違いだとは言えなかった。
ミーナは、ゆっくりと洸太を見た。
「だって、洸太なら行くと思ったから」
その言葉で、空気が止まった。
ミーナの声に、責める響きはなかった。
恨みもなかった。
むしろ、真っ直ぐだった。
信じきった子どもの声だった。
だからこそ、洸太は息を呑んだ。
「……俺なら」
行く。
そう思った。
あの場にいたのが自分なら、たぶん行く。
考えるより先に身体が動く。
子どもが刃を向けられていて、自分が届く場所にいるなら、迷う理由がない。
それは間違いなかった。
けれど。
それをミーナが見ていた。
そういうものだと、思ってしまった。
洸太は、胸の奥が冷えるのを感じた。
自分は勇敢だから動いているわけではない。
正しいことをしたいからでもない。
誰かに褒められたいからでも、誰かに憧れられたいからでもない。
ただ、見捨てた後の自分でいる方が怖い。
助けられるかもしれないものを見捨てると、自分の中の何かが保てなくなる。
そんな気がするだけだ。
けれど、外から見れば。
それは同じに見えるのかもしれなかった。
「……俺は」
洸太の声は低かった。
「そんな立派なもんじゃない」
ミーナは不思議そうに瞬きをした。
「立派とかじゃないよ」
ミーナは本当に分かっていない顔をしていた。
「でも、洸太なら行くと思ったの」
違う。
洸太はそう言おうとして、言葉を失った。
何が違うのか、自分でも分からなかった。
ミーナの「助けたい」は、真っ直ぐだった。
自分のものとは、どこか違う。
それだけは分かった。
けれど、何がどう違うのかまでは、分からなかった。
ソフィアは、洸太の横顔を見た。
この人は、自分が人に何を見せているのかを知らなかったのだ。
助ける背中。
倒れることを当然のように受け入れる姿。
痛みを軽く扱い、自分の命を後回しにする在り方。
それを、ミーナが見てしまった。
ルークは俯いていた。
拳を握っている。
今にも何かを言いそうだった。
けれど言わなかった。
ここで洸太を責めれば、ミーナはきっと自分のせいだと思う。
自分が洸太を巻き込んだのだと。
自分が皆を傷つけたのだと。
それだけは、今させてはいけない。
「ミーナ」
ルークは、ようやく声を絞り出した。
「もう寝ろ」
「でも」
「寝ろ」
強い声だった。
けれど怒鳴ってはいなかった。
「今は、それが一番大事だ」
ミーナは少しだけ口を開き、やがて頷いた。
「……うん」
安心したのか、疲れが戻ってきたのか。
ミーナのまぶたが重そうに落ちていく。
「お姉ちゃん」
「はい」
「ルーク」
「ああ」
「洸太」
「いる」
ミーナは薄く笑った。
「……よかった」
その言葉を最後に、ミーナは再び眠りに落ちた。
今度の眠りは、昨日のような冷たい沈黙ではなかった。
呼吸は浅い。
顔色も悪い。
それでも、生きている眠りだった。
ソフィアは毛布を整え、ミーナの額に触れた。
熱は少しある。
無理もない。
まだ治ったわけではない。
傷は塞がった。
命は戻った。
けれど、失った血も、傷ついた身体も、恐怖も、すべてが元通りになったわけではなかった。
「今日は、これ以上話させない方がいいですね」
ソフィアが言うと、ルークは頷いた。
洸太も黙って頷いた。
三人は静かに部屋を出た。
扉を閉めると、廊下の空気が少し冷たく感じた。
ソフィアは自分の手を見た。
まだ、あの感覚が残っている。
ミーナの命を掴んだ感覚。
自分のものではない何かが、手を通って流れた感覚。
あれは何だったのか。
自分の回復魔法では届かなかった。
それなのに、何かが届いた。
神の奇跡。
そう呼ぶことは簡単だった。
けれど、ソフィアの胸の奥には、違う感覚が残っていた。
あれは、ただ降ってきたものではない。
自分の願いを通って来た。
自分の拒絶に応じた。
嫌です。
戻ってきて。
戻ってきなさい。
その声に、何かが開いた。
ソフィアは手を握りしめた。
怖い。
けれど、その怖さよりも、ミーナが生きていることの方が大きかった。
「ソフィア姉」
ルークが低く呼んだ。
「洸太、少し休ませた方がいい」
「そうですね」
ソフィアは顔を上げた。
洸太は廊下の壁に背を預けていた。
本人は平気なつもりなのだろうが、顔色は明らかに悪い。
「洸太さん」
「はい」
「部屋へ戻ってください」
「でも」
「戻ってください」
ソフィアの声は静かだった。
けれど、拒否を許す声ではなかった。
洸太は一瞬だけ何かを言いたそうにした。
商会にも迷惑をかけている。
何か手伝えることがあるかもしれない。
ミーナが目を覚ましたなら、自分も動ける。
そういう言葉が、顔に浮かんでいた。
だが、言わなかった。
「……分かりました」
洸太は頷いた。
けれどその顔は、やはり落ち着かない。
何もしていない自分を、どう扱えばいいのか分からない。
そんな顔だった。
ソフィアは、それを見て胸が痛んだ。
この人は、休むことすら下手なのだ。
「ルーク」
ソフィアが言う。
「洸太さんを部屋まで」
「分かった」
ルークが洸太を見る。
「行くぞ」
「一人で行ける」
「いいから来い」
ルークは短く言った。
洸太は少しだけ苦笑した。
「分かったよ」
二人は廊下を歩き出した。
ソフィアは、その背中を見送った。
洸太の背中。
ミーナが見てしまった背中。
助けに行く背中。
自分を置いていく背中。
そして、その意味を本人がまだ知らない背中。
ソフィアは目を伏せた。
胸の中に、言葉にならない不安が沈んでいた。
ルークは、洸太の半歩後ろを歩いていた。
昨日までは、そんな位置取りを意識したことはなかった。
だが今は違う。
目を離したくなかった。
この男は、自分の危うさを分かっていない。
分かっていないまま、人の前へ出る。
ミーナを危険に向かわせたのは、洸太だけのせいではない。
そんなことは分かっている。
ミーナにはミーナの願いがあった。
助けられるだけではなく、助けたいという願いがあった。
それは間違っていない。
ルークには、それが分かってしまった。
だから余計に、苦しかった。
洸太はミーナを二度助けた。
一度目は森で。
二度目は市場通りで。
昨日、絶望と後悔で止まっていた自分に怒鳴ったのも洸太だった。
治せるかどうかを、お前がここで決めるな。
それまでは俺が繋ぐ。
走れ。
あの声がなければ、自分は動けなかったかもしれない。
だから、洸太を単純に責めることはできない。
できないが。
ルークは、洸太の背中を見た。
言いたいことは山ほどあった。
助けた相手だけを見て終わるな。
残される側がどうなるか、見ろ。
お前が倒れて、それで誰かが泣くことを考えろ。
自分の命を、そんなふうに置いていくな。
けれど今は、まだ言わない。
ミーナが目を覚ましたばかりだ。
ソフィアも限界だった。
洸太自身も、何かを見てしまった顔をしている。
今ここで言えば、きっと全部が崩れる。
だから、ルークは奥歯を噛んだ。
命を捨てても守る。
今まで、自分はそう思っていた。
ミーナを守れるなら、自分がどうなってもいいと、本気で思っていた。
けれど昨日、残される側に立った。
腕の中で冷えていくミーナを抱えた。
呼んでも返事がない恐怖を知った。
何もできずに止まる自分を知った。
あんなものを、誰かに味わわせていいはずがなかった。
守るなら、死ぬだけでは足りない。
死なせない。
そして、自分も戻る。
残される側に、あんな顔をさせない。
ルークは前を歩く洸太を見た。
今はまだ言わない。
けれど、いつか言わなければならない。
この男にも。
そして、かつての自分にも。
守るということは、死ぬことではないのだと。




