第5話 太陽が消えた日
「私は、そんな使い方をするために教えたわけではありません」
ソフィアの声は静かだった。
静かだったが、怒っていた。
修道院の食堂。
朝食の後片付けが終わったばかりの部屋で、洸太は椅子に座らされていた。
正座ではない。
この世界に正座という習慣があるのか、洸太は知らない。
だが、今の自分の置かれている状況が、ほとんど説教部屋のそれであることくらいは分かった。
向かいにはソフィア。
その隣には、腕を組んだルーク。
少し離れたところで、ミーナが困ったような顔をして見ている。
「怪我をした時の応急処置として教えたんです。痛みをごまかして、また剣を振るためではありません」
「……いや、その」
洸太は頬をかいた。
「効率は、悪くないと思ったんですが」
「悪いです」
「悪いな」
ソフィアとルークの声が、ほとんど同時に重なった。
洸太は口を閉じた。
反論できない時の顔だった。
というより、反論すると余計に怒られると分かっている顔だった。
「剣を振るってのは、身体を壊すことじゃねえよ」
ルークが低い声で言った。
いつもの軽さはなかった。
「痛みを消して振れるようになった気になるのは、強くなったんじゃねえ。壊れてるのが分からなくなっただけだ」
「……分かってる」
「分かってねえからやってんだろ」
ルークの声が少し荒くなる。
洸太は黙った。
ソフィアは、洸太の右腕に巻かれた包帯を見た。
昨日まではなかったものだ。
「ただでさえ、コータさんは魔力が多いわけではありません。そんな使い方をしていたら、いざという時に動けなくなります」
「いざという時に動くために、やってるつもりだったんですが」
「そのいざという時の前に倒れたら、意味がありません」
「……はい」
洸太はようやく小さく頷いた。
ソフィアは息を吐いた。
怒っている。
けれど、それ以上に心配している。
そのことが分かるから、洸太もそれ以上は何も言えなかった。
「約束してください。しばらく夜中の無茶な鍛錬は控えると」
「……分かりました」
間があった。
ソフィアの目が細くなる。
「コータさん」
「分かりました」
洸太はもう一度言った。
ルークが横からため息をつく。
「信用ならねえ返事だな」
「信用は、これから積み上げるものだからな」
「今のは格好つけるところじゃねえよ」
ルークの呆れた声に、ミーナが少しだけ笑った。
けれどその笑みは、すぐに消えた。
ミーナは洸太の腕の包帯を見ていた。
ソフィアお姉ちゃんに習った回復魔法。
本当なら、怪我をした時に使うもの。
苦しんでいる人を助けるもの。
痛がっている子どもの手を握りながら、少しでも楽にしてあげるもの。
それを洸太は、自分に使っていた。
痛みをごまかして。
また立つために。
また剣を振るために。
馬鹿だと思った。
ソフィアお姉ちゃんが怒るのも当然だと思った。
ルークが呆れるのも当然だと思った。
けれど。
ミーナは、洸太から目を離せなかった。
この人は、助けられるだけではいられないのだと思った。
弱いままではいられないのだと思った。
誰かの後ろにいるだけでは、きっと自分を許せない人なのだと思った。
その日の夜。
ミーナは、ふと目を覚ました。
喉が渇いたのだと思う。
寝台から起き上がり、水差しに手を伸ばす。
けれど、窓の外にかすかな音が聞こえて、動きを止めた。
風ではない。
短く、鋭く、何かを振る音。
ミーナは窓辺に寄った。
月明かりの下、修道院の庭に人影があった。
洸太だった。
木剣を振っている。
何度も。
何度も。
息は荒い。
動きも、昼間にルークと稽古している時よりずっと鈍い。
それでも洸太は剣を振った。
やがて腕が下がる。
肩を押さえる。
顔をしかめる。
それから、洸太は自分の腕に手を当てた。
淡い光が、ほんの少しだけ滲む。
回復魔法だった。
けれど、ソフィアのそれとはまるで違う。
あたたかく包み込むような光ではない。
雑で、短くて、強引だった。
痛みだけを押さえ込むような光。
洸太は数度、息を吐く。
そしてまた、剣を振った。
「……馬鹿」
ミーナは小さく呟いた。
明日、また怒られる。
きっとソフィアお姉ちゃんにも、ルークにも怒られる。
それなのに、洸太はやめない。
ミーナは窓から離れなかった。
馬鹿だと思った。
無茶だと思った。
けれど、目を離せなかった。
翌日も。
その次の日も。
洸太は夜中に庭へ出た。
もちろん毎晩ではない。
ソフィアに見つかり、ルークに見つかり、また説教される日もあった。
けれど、洸太は完全にはやめなかった。
ミーナは何度か、それを窓越しに見た。
痛めた腕に手を当てる洸太。
膝をつきかけても、息を整えて立ち上がる洸太。
もう一度、木剣を握る洸太。
それは、きれいな努力ではなかった。
ソフィアお姉ちゃんのように、誰かを包み込む優しさでもない。
ルークのように、守るものを決めた強さでもない。
もっと不器用で。
もっと危うくて。
見ている方が苦しくなるようなものだった。
それでも。
ミーナの胸の奥に、小さな火が残った。
助けられるだけではいたくない。
守られるだけではいたくない。
ソフィアお姉ちゃんに守られてきた。
ルークに守られてきた。
修道院に守られてきた。
森では、洸太に助けられた。
それが嫌だったわけではない。
嬉しかった。
ありがたかった。
けれど。
いつか、自分も。
誰かの前に立てるようになりたかった。
その日は、よく晴れていた。
リーベルの市場通りには、朝から人が多かった。
アーベル商会の周りは、街の中でも比較的安全な場所だ。
店が並び、人の目があり、昼間なら子どもが一人で使いに出ることもある。
少なくとも、誰も刃物を警戒して歩くような場所ではなかった。
ルークとミーナは、商会近くの小さな用事を分担していた。
薬草の納品確認。
荷運びの手伝い。
ついでに修道院で使う布と油の値段を見る。
そんな程度の仕事だ。
完全な別行動ではない。
声を張れば届く。
走ればすぐ合流できる。
だから、誰も心配などしていなかった。
ミーナもそうだった。
露店の並ぶ通りを歩きながら、店先に吊るされた布を眺める。
安い布は少し目が粗い。
子どもたちの服に使うなら、もう少し柔らかい方がいい。
そんなことを考えていた時だった。
「泥棒!」
子どもの声が響いた。
ミーナは振り向いた。
露店の前で、小さな男の子が一人の男を指差していた。
男の手には、店の品らしい小袋が握られている。
周囲の大人たちも気づいた。
「おい、待て!」
「そいつを捕まえろ!」
男は一瞬、逃げようとした。
だが人の輪ができる方が早かった。
追い詰められた男の顔が歪む。
「どけ!」
男が懐から刃物を抜いた。
空気が凍った。
男の近くにいた子どもが、声を失う。
逃げようとして、足がもつれた。
男はその子どもの襟首を掴んだ。
「近づくな!」
刃が子どもの喉元に向く。
誰も動けなかった。
ミーナは息を呑んだ。
怖い。
足がすくむ。
喉が乾く。
けれど、子どもが泣きそうな顔でこちらを見た。
その瞬間、ミーナの中で何かが決まった。
勝てるとは思っていない。
ただ、一瞬なら。
一瞬だけなら、止められるかもしれない。
その一瞬で、子どもは逃げられるかもしれない。
洸太なら走る。
ルークなら前に立つ。
ソフィアお姉ちゃんなら、手を伸ばす。
なら、自分は。
「こっち!」
ミーナは飛び出した。
男の目が向く。
子どもの目も向く。
ミーナは手を伸ばした。
小さな光を放つ。
目くらましにもならない程度の魔法。
けれど、男の意識がほんの一瞬逸れた。
ミーナは子どもの腕を掴み、自分の方へ引いた。
「走って!」
子どもが転がるように逃げる。
できた。
そう思った。
次の瞬間、男の顔が怒りに歪んだ。
「このっ!」
刃が動いた。
ルークが騒ぎに気づいたのは、その時だった。
市場通りの向こうで人が叫ぶ。
人垣が乱れる。
嫌な予感がした。
ルークは荷を放り出して走った。
人を押しのける。
叫び声が近づく。
見えた。
ミーナがいた。
子どもを庇うように立っていた。
刃が、ミーナの脇腹へ沈んだ。
「ミーナ!」
ルークの声が市場通りを裂いた。
ミーナの身体が傾く。
男が逃げようとする。
ルークの中で、何かが切れた。
剣を抜いた記憶はなかった。
踏み込んだ記憶もなかった。
ただ、次の瞬間には、男が悲鳴を上げて倒れていた。
ルークの剣が、男の脚を斬っていた。
殺してはいない。
だが、それは理性で止めたというより、身体がそう動いたに近かった。
男は地面に転がり、呻いた。
周囲の男たちが慌てて押さえつける。
ルークはもう見ていなかった。
「ミーナ!」
倒れかけたミーナを抱き止める。
軽かった。
いつものミーナではないみたいに、腕の中で力が抜けていた。
「おい、ミーナ。ミーナ!」
ミーナは目を開けようとした。
唇が動く。
「……ルー、ク」
名前を呼ぼうとしたのだと思う。
けれど、その声は最後まで形にならなかった。
唇の端から赤いものがこぼれた。
顎を伝い、ルークの手に落ちる。
ルークの息が止まった。
脇腹を押さえる手の隙間から、血が溢れている。
止まらない。
服が赤く染まっていく。
ルークは修道院で育った。
ソフィアが怪我人を診るところを、何度も見てきた。
切り傷なら治せる。
熱なら看られる。
折れた骨でも、時間をかければなんとかなる。
ソフィア姉なら大丈夫だ。
そう思いたかった。
けれど、思えなかった。
これは違う。
ソフィア姉に任せれば大丈夫だと思える傷ではなかった。
「ミーナ……」
ルークの頭の中で、同じ言葉が回る。
なぜ一人にした。
なぜもっと早く気づかなかった。
なぜ、今だった。
なぜ、自分は間に合わなかった。
守るために剣を振ってきた。
ソフィア姉とミーナを守るために、剣を振ってきた。
なのに。
ルークはミーナを抱えたまま、動けなかった。
周囲の声が遠い。
誰かが叫んでいる。
誰かが走っている。
けれど、ルークには届かなかった。
「何してる!」
怒鳴り声が、止まっていたルークの頭を殴った。
洸太だった。
アーベル商会の方から走ってきた洸太が、人垣を割って飛び込んでくる。
洸太の目が、ミーナを見る。
血を見る。
ルークを見る。
状況を理解するまで、一秒もかからなかった。
「馬鹿野郎! 何やってる!」
洸太はルークの前に膝をついた。
「ソフィアさんを呼んでこい!」
ルークは口を開いた。
「でも、ミーナが」
「だから走れ!」
洸太の声が被さった。
ルークの肩が震える。
「ソフィア姉でも、これは……」
「治せるかどうかを、お前がここで決めるな!」
洸太は怒鳴った。
ルークは目を見開く。
「ソフィアさんを呼んでこい! それまでは俺が繋ぐ!」
「繋ぐって、お前」
「走れ!」
洸太はミーナの傷口に手を当てた。
血で手が滑る。
ぬるい。
嫌なぬるさだった。
けれど、手を離さない。
洸太の手の下で、淡い光が滲む。
粗い回復魔法だった。
ソフィアのような、あたたかく包む光ではない。
傷を治す光でもない。
ただ、流れ出る命を無理やり押し留めるような光。
「ルーク!」
洸太がもう一度叫ぶ。
ルークの呼吸が戻った。
腕の中のミーナを見る。
洸太を見る。
そして、歯を食いしばった。
「頼む」
それだけ言って、ルークは走り出した。
人垣を蹴散らすように走る。
市場通りを抜ける。
修道院へ向かって、全力で走る。
洸太はミーナの傷口を押さえたまま、歯を食いしばった。
「ミーナ。聞こえるか」
返事はない。
ミーナの呼吸は浅い。
今にも消えそうだった。
「寝るなよ」
洸太は言った。
「怒られるぞ。ソフィアさんにも、ルークにも」
魔力を流す。
少ない魔力だ。
ソフィアにも言われた。
ただでさえ多くない。
無茶な使い方をするなと怒られた。
分かっている。
分かっているが、今はそんなことを言っていられない。
洸太は、自分の中にあるものを絞った。
傷は塞がらない。
血は完全には止まらない。
内側で何が壊れているのかも分からない。
洸太にできることは、治すことではなかった。
死ぬまでの時間を、ほんの少しだけ先へ押し延ばすこと。
それだけだった。
「まだだ」
洸太は呟いた。
「まだ、行くな」
周囲で誰かが泣いている。
誰かが水を持ってくる。
誰かが布を差し出す。
洸太は受け取った布を傷口に押し当てた。
手が血で染まる。
魔力が減っていく。
身体の奥が空になっていく。
それでも手を離さなかった。
修道院では、ソフィアが孤児たちの昼の支度をしていた。
年長の子どもが小さな子の手を洗わせている。
老婆が一人、棚から皿を出していた。
時折、修道院の手伝いに来る老婆だった。
皺だらけの手。
少し曲がった背。
けれど、不思議とよく通る声をしている。
ソフィアは鍋の火を弱めた。
「すみません、そちらのお皿を」
「ああ、これだね」
老婆が皿を渡す。
その時、外から荒い足音が聞こえた。
扉が乱暴に開く。
「ソフィア姉!」
ルークだった。
顔が真っ青だった。
息が切れている。
ただごとではない。
ソフィアの胸が冷える。
「ルーク? どうし――」
「ミーナが刺された!」
皿が落ちた。
割れる音がした。
ソフィアは動けなかった。
言葉の意味は分かった。
分かったのに、身体が動かなかった。
ミーナが刺された。
誰が。
どこを。
どれくらい。
聞かなければいけない。
行かなければいけない。
分かっている。
分かっているのに、足が床に縫い付けられたようだった。
ミーナ。
七歳の時、泣きながら自分の服を掴んでいた妹。
両親を亡くした後、自分が守らなければならなかった子。
明るく笑う、修道院の太陽。
そのミーナが。
「何をしてるんだい!」
老婆の声が飛んだ。
ソフィアの肩が跳ねる。
老婆がソフィアを見ていた。
厳しい目だった。
「早く行きなさい!」
「でも」
「まだ死んだと決まったわけじゃない!」
老婆の声が、部屋の空気を打った。
「お姉ちゃんなんだろう!」
ソフィアの目が見開かれた。
止まっていた息が戻る。
そうだ。
私は。
ソフィアは棚から治療道具を掴んだ。
薬草。
包帯。
水袋。
震える手で持つ。
「ルーク、案内を!」
「こっちだ!」
二人は修道院を飛び出した。
背後で孤児たちが不安そうに声を上げる。
老婆がそれを制した。
「大丈夫だよ。あの子は行った。なら、まだ終わってない」
ソフィアには、その声がかすかに聞こえた。
市場通りは騒然としていた。
だが、ソフィアの目にはほとんど入らなかった。
人垣が割れる。
その中心に、ミーナがいた。
地面に寝かされている。
顔から血の気が失せている。
呼吸は浅く、今にも途切れそうだった。
洸太が、その横でミーナの傷を押さえていた。
手も、腕も、服も血に染まっている。
洸太の顔は青白かった。
額には脂汗が浮かんでいる。
それでも手を離していなかった。
「ソフィア、さん」
洸太が顔を上げた。
声がかすれている。
「まだ、繋いでます」
その言葉だけで、ソフィアは理解した。
助かっているのではない。
死なせずにいるだけだ。
ぎりぎり。
本当に、ぎりぎりで。
ソフィアはミーナの横に膝をついた。
「代わります」
洸太の手に、自分の手を重ねる。
血のぬるさが伝わる。
その奥で、かすかに震えるものがあった。
洸太の魔力だった。
粗くて、頼りなくて、今にも途切れそうな細い糸。
それが、ミーナの命をぎりぎりのところで引き留めていた。
ソフィアは息を呑んだ。
こんなものを、ずっと。
この人は、こんな細い糸一本で。
けれど、その糸は限界だった。
ミーナの身体は冷たい。
呼吸は浅い。
唇の端には、まだ赤いものが残っている。
ソフィアは自分の魔力を流そうとした。
いつものように。
傷を塞ぎ、痛みを和らげ、身体が戻ろうとする力を助けるために。
だが、分かってしまった。
足りない。
自分の力では、届かない。
何度も怪我人を診てきた。
何度も子どもの熱を看てきた。
何度も、できることとできないことの境目を見てきた。
これは、その境目を越えている。
ミーナの命は、もう手の届く場所から滑り落ちかけていた。
「ソフィア姉……」
ルークの声が聞こえた。
泣きそうな声だった。
ソフィアは目を閉じた。
修道士として、祈るべきだと思った。
落ち着いて、手順を踏むべきだと思った。
けれど、そんなものは全部崩れた。
ミーナは患者ではない。
妹だった。
自分が守ると決めた子だった。
太陽みたいに笑う子だった。
「嫌……」
声が漏れた。
祈りではなかった。
叫びにもならない、ただの拒絶だった。
失いたくない。
まだ駄目だ。
そんな言葉にもならない感情が、胸の奥からこぼれた。
「嫌です」
ソフィアの手に、光が灯った。
いつもの回復魔法の光だった。
けれど、その奥に、違うものが混じった。
自分の魔力ではない。
ソフィアは、はっきりとそう感じた。
外から、何かが入ってくる。
けれど、無理やり押し込まれるものではなかった。
自分の奥にあった願いを通って、手のひらへ降りてくる。
細い流れだった。
淡い白銀の光が、ミーナの身体へ染み込む。
傷を塞ぐためだけの光ではない。
血を止めるためだけの光でもない。
もっと奥。
落ちかけた命そのものへ、手を伸ばしている。
「戻ってきて」
光が、少し強くなる。
市場のざわめきが遠のいた。
人々の声も、ルークの震える息も、薄い膜の向こうへ沈んでいく。
ソフィアには、ミーナの命だけが感じられた。
細い。
今にも切れそうな、細い糸。
「お願い。ミーナ」
ソフィアはその糸へ手を伸ばした。
届かない。
まだ届かない。
ミーナの浅い呼吸が、一度途切れた。
ルークが息を呑む。
ソフィアの中で、何かが音を立てて切れた。
違う。
お願いではない。
祈っている場合ではない。
この子は、私の妹だ。
私が、守ると決めた子だ。
ソフィアは、震える手に力を込めた。
「戻ってきなさい!」
その瞬間、白銀の光が溢れた。
強い光ではなかった。
眩しい光でもなかった。
けれど、逃がさない光だった。
細く流れ込んでいた何かが、一気に開いた。
ソフィアの手を通り、ミーナの身体の奥へ流れ込む。
傷へではない。
血へでもない。
落ちかけた命そのものへ。
ソフィアは掴んだ。
切れかけた糸を。
沈みかけた小さな温度を。
消えかけていた、ミーナの命を。
ミーナの胸が、小さく上下した。
もう一度。
息をした。
流れ続けていた血が、少しずつ止まる。
血の気の失せていた頬に、ほんのわずかに色が戻る。
冷たくなりかけていた手に、ぬくもりが戻る。
ソフィアは光を流し続けた。
けれど、やがてその光が揺らいだ。
ソフィアの身体が傾く。
「ソフィア姉!」
ルークが支える。
ソフィアは膝をついたまま、荒い息を吐いた。
顔色は悪い。
手が震えている。
それでも、ミーナの手を離さなかった。
「……生きています」
ソフィアが言った。
声は小さかった。
「ミーナは、生きています」
ルークの顔が歪んだ。
堪えていたものが、崩れた。
「ミーナ……」
ルークは地面に膝をつき、ミーナの手を握った。
声にならない声が漏れる。
ソフィアも泣いていた。
静かに、けれど止められないように涙をこぼしていた。
それは悲しみの涙ではなかった。
失わずに済んだ者たちの涙だった。
洸太は、その光景を見ていた。
視界がぼやける。
身体に力が入らない。
魔力を使い切ったのだと、遅れて分かった。
ただでさえ少ないものを、限界まで絞った。
もう指一本、まともに動かす気になれなかった。
ソフィアとルークが泣いている。
ミーナは目を覚まさない。
けれど生きている。
自分一人では無理だった。
ルークが走った。
ソフィアが間に合った。
ミーナが戻ってきた。
洸太は、そこで初めて息を吐いた。
そして、仰向けに倒れた。
背中が痛い。
血の匂いがする。
指一本、動かす気になれなかった。
それでも、耳には泣き声が届いていた。
悲鳴ではない。
失わずに済んだ者たちの声だった。
洸太は、目だけを開ける。
空が見えた。
「……助けることができたってのは、良いもんだな」
太陽は、消えなかった。




